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一線を越えさせない言葉

皆様こんにちは、私はお米サンタと言って
お米を配り歩いている人間です。

お米を配り歩いている理由をしては
友達が欲しいから
過疎化の進んでいる村を認知して欲しいから
だからやってます。

よくマネタイズを聞かれます。
『赤字をこいてお米を配って、赤字分はいつ回収するの?』
答えは
『そこまで考えれてない。』です。←クソ

だって本質は、
友達が欲しくて、自己紹介がしたいだけ。
ある意味クッソわがままですよね。

自分の欲しいものを押し付けすぎなのです。

だけど、マネタイズの質問をそれなりに答えた方がいいから
「それで気に入っていただいて、お米を正規金額で買っていただけたら。」
「村の認知度が高まって来たら、そこで初めてマネタイズを…。」
とそれらしいことを答えるようにしています。

だって、優秀って思われたいもの。←ミエ

地元への村おこしを考えた時点で、投資する金額も大変になることも想定してます。実際の村づくりは数億円規模らしいです。

数億円には届きませんが、自分の会社の利益も、ほぼ村の為に使おうと思います。

それでいつか村が発展した時に、「ありがとう」がもらえればいいな。
実はそれが私の一番欲しいものです。

マネタイズやらは周りの得意な人に任せよう。
私個人はお金持ちにならなくていいの。
私は明るい世界の中心にいなくていいの。

だって本来生まれてくる命じゃなかったのだから。


今回初めてnoteを書いたのは、そんな言葉では言えないことだけど、それでも誰かに伝えたい事があったからです。
もし、ご興味を持ってくださるのなら、少しだけお時間をいただけると幸いです。

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私は京都府で産まれました。
東山区の日赤病院で産婦人科の先生やガン専門の先生、合計4人の先生に囲まれて産まれたようです。

そこまでたくさんの先生に見守られたのは
私の母がガンの治療を終えて、日が浅かったためです。
ガン治療を終えた母が私を授かり、無事に生まれることができました。

ガンを克服しての出産はとても珍しいケースだった為、4人の先生に囲まれたということです。

たくさんの奇跡をいただいて、私は母に会えたのです。

しかし、私の産まれた時の体重は約1400g。
これはかなりの未熟児で、当時の35年前では医学的に健康的に育つには厳しい状態だったようです。

一通り抱かれた後、保育機に入れられ、安定するまでは点滴で大きくなりました。

また先天性の障害が残る可能性が高かった為
『将来、目が失明をするか脳に障害が出る可能性があります』
という承諾書に父はサインをさせられました。
※障害がでるかもしれんけど、後から病院に文句を言ってもダメですよってやつです。
そして、私は保育機生活を約二ヶ月行いました。


お陰様で現在は五体満足で、皆さんと同じように生活をすることができています。

がやはり体は弱く、
アレルギー体質、蓄膿症、冷え性、緑内障手前
パニック障害、いぼ痔、と34歳にしては色々経験しております。

何より、人と同じことをしようと思うと、人の二倍時間がかかります。

小さい頃から、「あ!これは人よりできるな!」と思うことはなく
センスのない状態でスタートして、人の二倍時間をかけて努力をして
みんなが飽きた時に、同じ場所に追いつく…。
そんなことの繰り返しでした。

そんな私を母はいつも笑って見守ってくれました。

学校でいじられて悲しんでいた時も、大切な試合で結果を出せなかった時も、上手くいかなくて悲しい気持ちで帰った時も。

京都人特有の関西弁で
「あかんやんー」「いいんちゃう!」「しゃーないやんー」

そう言って人よりもできないことをいつも笑い飛ばしてくれました。
周りの人よりできない私を心底可愛がってくれました。

そのたび、もっとできる姿を見せて笑わせたい。
「これが、うちの子…?」ってびっくり言わせてやりたい。
もっと頑張ってびっくりさせるんだ。
そう思えるようになりました。

私は気付けば、努力の好きな人間になってました。
さらには、母のことが大好きな人間になっていました。


私が大学生を卒業する頃、父の会社に転機があり、父も母も仕事に追われるようになりました。

自分の親が仕事に追われている姿を見て、私は迷わずに、新卒で父の会社に入社しました。
他の会社に入社するほど、時間に余裕がないと思ったからです。

入社してみると、父は相変わらずの性格で、母とぶつかりながらも前に進んでました。
※父のことはいつか書きたい。

しかし、問題は母でした。

明らかに体力が落ちており、横になって休憩をして、仕事をしてを繰り返していました。
それでも「大丈夫?」って聞くと
「大丈夫よ。昔から病院いらずやもん!」
と笑い飛ばしていました。


いや、私を産む前はガンになってたやん。


4年経った時には、母は仕事をするよりも、寝ている時間が多くなっていました。


ある日、パソコン作業をしていると、母の指が腫れていることに気が付きました。
「ちょ、なんなのそれ。」
と私が聞いても
「なんやろね。あ、それでなぁ…お父さんがあんなこというねん、腹立つやろー。」と話を逸らす母。

しかしあまりに違和感があるので、羽織を外して貰うと

母の右肩から右の指先にかけて、右半身がパンパンに腫れ上がっていました。
また、右肩から右胸にかけては紫色に変色しており、簡単な病気ではないことはすぐにわかりました。

「え。絶対やばいやん、それ…。」
と言っても「大丈夫やて」って跳ね返される。

「病院に行ったら…?」「病院に行こう?」と何度も家族みんなで繰り返し説得しても全く聞いてくれませんでした。

しかし1ヶ月経った頃、よほどしつこかったのか、「しゃあないなぁ。」と渋々病院に行きました。
本当はその頃から体がだるく、ひどい頭痛があったようです。


病院で診断された結果
それは「ステージ4のガン」※末期のガン
ということでした。

右の乳房から始まった乳ガンはリンパに転移をして、骨にまで転移していました。

末期のガン、私はとても驚きましたが、何より驚いたのは、それを聞いた母は少しも動揺していないことでした。
まるで「ほらやっぱりね」と納得しているような表情で。

医者が母に「抗がん剤治療をしますか?」と聞いても母はキッパリと「しません」と答えました。

詳しく聞いてみると、母は抗がん剤治療が大嫌いだったようで、もうしたくないと決めていたそうです。
それの理由としては

20代の抗がん剤治療がとてもしんどかったこと。

その副作用で私の体が小さく産まれてきたことを悔やんでいたことを話してくれました。
この母のもとに産まれてこれただけで、こんなに幸せなのに。

私は母のその自責の気持ちを聞いて
「お母さんのせいで小さく産まれたんやないよ。産まれてきて幸せだよ。」
と、本当はもっと前から言いたかった言葉が、その時にやっと言えました。

そして、母は抗がん剤治療をせず、亡くなる日までお家にいることを選びました。

母が亡くなるまでの最後の二ヶ月間は体を動かすことができなかったので、家族全員で日替わりで交代しながら、お世話しました。

母は1人でお風呂に入れない、トイレに行こうとして間に合わず何度も失敗してしまう。
私は母の体を綺麗にしたり、お掃除をしたり、トイレに誘導したり、寝る間はありませんでしたが、特別な時間でした。
少しだけ、親孝行ができているような充実感がありました。

それよりもお世話をされる母の方が辛かったと思います。
「ごめんな。」「情けないな。」
そんな言葉を繰り返していました。

また、リンパの流れの悪い母は、同じ姿勢でいると腕が腫れて固まってしまい、体が動かなくなります。

だから、毎日毎日マッサージをしました。

小さな時、抱かれて安心感に溢れていた母の腕が、醜く腫れ上がっているのを唇を噛みながら摩りました。
言葉はなくても、お互い残された時間が少なことはわかっていたので、涙が止まりませんでした。

日本は高齢化で悩んでいるのでしょ?
何故、私の母だけ57歳でこんな姿にならないといけないのか。
と、ぶつけるところのない気持ちが涙で溢れていたのだと思います。

それでも1秒でも長く一緒にいることが私にとってかけがえのない時間でした。


そして、4月21日。
ちょうど私が当番の日でした。
夜中、お仕事に疲れてウトウトしていたら、隣で寝ている母の呼吸が乱れていることに気づきました。

呼吸がちゃんとできていない。

慌てて別室に寝ていた父を起こし、救急車を呼びました。

母は意識が朦朧とする中、ハッと私の手を握り
「こーちゃん、ありがとね…。こーちゃんありがとね。」と言い出しました。

醜くなって、腫れ上がった右手がしっかり私の手を握りしめて、何度も何度も、ありがとうと言ってくれました。

「うん、もういいから!わかったから!」

結果的に最後の会話となるその言葉を遮るようにして、母を救急車へ運びました。

とにかく休んで欲しい。
今日お別れにならないで欲しい。
明日になればおはようって笑い飛ばして欲しい。

ありがとうがお別れの意味だとは理解をしたくなくて、聞きたくなくて、深く考えないようにしました。

次の日の4月22日に母は亡くなりました。

結果的に最後の言葉となった「ありがとう」が私のとても胸に刻まれました。

57年間生きてきて、最後に伝えたい言葉が『ありがとう』。

私も子供がいるので、母がどういう想いだったのか今ではわかります。

たぶん
「産まれてくれて、ありがとう。」

「そばで成長を見せてくてれ、ありがとう。」

「幸せな気持ちにしてくれて、ありがとう。」

「私よりも長生きしてくれてありがとう。」

こんなことが言いたかったんじゃないかなと思います。

母は教えてくれました。
言葉は人を支えてくれること。

胸に刺さったその言葉は、母が亡くなって7年経った今でも私を支えてくれています。

母が亡くなった後、地獄に突き落とされて、何度も何度も心が折れかけた時も、
母の言葉が最後の一線を越えさせませんでした。

「ありがとう」
私が生まれるだけで、感謝をしてくれる人がいた。生きているだけで、お礼を言ってくれるような尊い人がいる。

それが、どれだけ支えになってくれるのか、私にはわかります。

私に関わっていく人の中で、もしかしたら、辛い思いや悲しい思いをしている人がいるかも知らない。
そんな人がいれば、一番に言葉を届けにいきたい。


そして思いやりのある人達と共に言葉を掛け合って生きていきたい。

そういう村を作ろうと真剣に考えています。


もし、周りを出し抜いて独り占めしたいような人に騙されたとしてもいいのです。
結果その人が救われたのなら、こちらは幸せを感じでおきます。
私の価値観では、騙される方がお得です。


もし、甘いよ!だめだよ!失敗するよ!
って言ってくださるなら、私の側にいて助けてください。←クソ


私も母から授かった言葉で周りを助けたい。
村のみんなにもありがとうと言われたい。
そして自分が死ぬ時は母のようにありがとうと言って死にたい。

お金を受け取るよりも強欲なその信念で、今日も明日も活動していきます。

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