米の日。

コウジです。


暑い日が続きますね。皆様いかがお過ごしでしょうか。

連休も終わって遊び疲れもあると思います。そんな時って自分への意識が逸れてしまいがちなので、そんな時こそ熱中症には要注意。水分摂ってミネラル補給して、そして何より甘糀。

しっかりと夏を乗り切りましょうね。

わたしはと言えばこの連休はとにかく服&服&服。とにかく服を着て着て着まくりました。これから服屋さん作りますからね。研究も兼ねてとにかく普段できないような動きで色んなところに出向きました。

思い立ったが吉日、全ての日は特別な記念日になる可能性を秘めておりますね。
行動しながら考えるタイプの私、転ぶことばかりですが失敗は無いかなと思っています。何事も成功するか大成功するかしかないですしね。

さーて、そんな話がしたいのではなくて
本日は「8月18日」のお話です。


そう、8月18日は「米の日」です。
今年から私の店ではそうしていきます。
言ったもん勝ちです。

米の日。


米という字は「八」「十」「八」から成り立っております。

だから八十八で8/18。米の日。

以上。



安易ですね。
すみません。

早稲は盆明けには収穫を迎えるものもありますし、だいたいこの時期から農家はソワソワし始めますね。私の実家もそうです。ソワソワ。

日本人は稲作を中心として栄えてきた農耕民族。麹の文化も「糀」として米麹が栄えた背景には、日本人の農業が密接に関わっております。

​日本と農業。


723年に出された三世一身法、これによって三世代までの土地の所有権を認められておりました。孫までは自分の土地にしていいよーって事ですね。だからこそ土地の所有権が公に帰属する時期が迫るともう田や畑として使われず荒廃するのが問題としてあったみたいです。

そんな現状を踏まえて743年、奈良時代は聖武天皇の勅命により「墾田永年私財法」が発令し「土地耕したらずーっと自分のものにしていいよ!農業やって生産量を向上しよう!」とやった訳です。

民から搾り取るだけ搾り取れば実りは無く、逆に与えれば実りは増える。こういう経世済民の基本をやってのけていた時代ですね。糧の話となれば死活問題ですから、そんな時代背景を経て日本中が開墾されて田畑を耕す農耕民族としての礎は築かれていったと、一説には伝わっております。


そんな日本だからこそ、糧と結びついた文言が非常に多く伝えられております。

「一粒万倍」「大漁」「豊作」「順風満帆」などなど。

また文言だけでなく食文化の中にも「お残しは許されない」といったものがあります。その代表格としては

「お米粒には神様が宿る」

が挙げられるのではないでしょうか。

お米の神様。


かねてより日本では

「お米粒には神様が宿る」

とされております。
一粒たりとも残さず丁寧に食すための戒めにも似た文句が古くより言い伝えられており、地方によってその宿っている神様の数が違います。

1人、3人、88人。

まぁ多けりゃいいって話ではなく、あくまで有難いものなんだよーって事の比喩として伝わっているからこそ、その数も当て字やダジャレじみた感じで伝わっていてバラツキがあるんじゃないかなーって思っています。

食べ物を大切に扱う事の精神性が、この文言には含まれているのだなぁと。

皆さんのご家庭では何人の神様でした?


​糧と富と人と。


一粒万倍という言葉があるように、日本では古くから糧を富の象徴とするきらいがあるように感じています。

富というのは現代の我々にとっては「資本」に置き換えられ、個人の持つ資産が富の象徴であるのが現代の資本主義の其れです。

つまりはお金が富の象徴であると。
そりゃお金で何でも買いますから、当たり前の話かもしれませんね。

ただ私はここに一抹の疑念を抱いておりまして、お金がいくらあっても食料が無ければ人は生きていけない訳ですから、糧なくして生きる事は叶わないつまりはお金よりも大事だよなぁと。

人間はお金を食べて生きていくような進化をしていませんからね。歴史を重ね化学技術を革新し文化は形成しましたが、生き物としては進化していない訳です。

どんな人も食べて寝なきゃ生きていけない。

農耕民族として栄えてきた日本だけではく、世界的にもやはり金銀財宝とはまた別の「みのり」への豊かさは表現の一つとして使われており、「実りの秋」を「時」と準えた三国志などなど枚挙に暇がない訳です。

糧あっての富、糧あっての金銀財宝です。
第一次産業に補助金出して準公務員のようにガチガチに守ってる国もたくさんありますし、食糧というのは万人にとってなくてはならないものですね。

飽食の時代だからこそ忘れがちな事ですが、もし一度でも食糧危機が起きれば人間の優劣なんてものは一瞬で瓦解してしまうと。糧を育みそれを運び並べ調理して。パンデミック拡大によるロックダウン、働き手の不足、需要拡大、提供方法の隔壁などなど。それらを原因としてその何処か一つが欠けてしまえば、私たちの口に入る食料は目の前から姿を消す訳です。いとも簡単に起こりうる食糧難、そんな脆弱なものの上に私たちの文化は成り立っているのだなぁと。

この度の新型感染症によって齎された遍く混乱の諸元は、こういった人としての生存方法に強く現れたのではないかと思う次第です。


話が逸れちゃったな。何の話だっけ。


​sawviと米と米の日と。


そうそう「米の日」でした!
8/18は米の日。

別に特別な何かをする日って訳ではないんです。
ただ当たり前のようにある「おいしい」を考える日になったらなぁと。

目の前にあるそのご飯。
それは誰かが育てて、誰かが運んで、誰かが調理して初めて目の前にやってきた訳です。

それを食べて「おいしい」と感じられたら
それで良い気がするのです。

当たり前のことだけど、それを少しだけいつもより多く考えたり感じたりする日。考えるきっかけや引っ掛かりみたいな感覚ですね。

食べる事で得られるものは栄養だけではなく、その多幸感や安堵感もまた糧であると思います。そしてそれは例え一人で食べていたとしても、その食は一人では目の前にやってこれなかった訳です。

そこに携わる人の姿を、かつての日本では「有難い」ものの例として神仏に準えていたのかもしれませんね。米粒に宿るものも、それが神仏やその数で表される事の本質には「有難い」という思いが込められているのかと。そう感じずにはいられません。

8月18日は米の日。


「おいしい」
「いただきます」
「ごちそうさま」
「ありがとう」

こういった想いを普段よりも少しだけ大袈裟にして、身振り手振りにあわせて誰かに伝える。

自分や家族や、そこに携わる人たちに。
そんな日になったらなぁという事で

8月18日は米の日です。

美味しいものたくさん食べてくださいね。
私も美味しいものたくさん食べるぞ。
ではでは。

コウジ

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