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生前遺影

 4月を迎えた夜風は暖かく、桜の蕾が深く、色づきだしている。
 月明かりにぴかぴかと光る白いトタン製の看板には『大島和菓子店』という文字が、黒いペンキで大きく書かれている。硝子戸には『いちご大福』やら『赤飯受付中』やら、あれこれ筆で半紙に書いたチラシが張り付けてあった。
 とはいえ、今は夜の9時過ぎ。
 昼間なら餡子と餅の甘い香りが漂う店内も、ひっそりと静まり返っている。
 店の奥から続く住宅部分からは、夜9時のニュースが漏れ聞こえていた。
 ニュースを眺めるのは、大島和菓子店の女将を務める大島ひとみとその夫だ。彼女は、皴の増えた目じりを緩ませながら、ぽつりとつぶやいた。
「ねぇ、あなた。本当に壮太君には驚いたわねぇ」
 ニュースをぼんやりと眺めていたひとみの夫は、彼女の言葉に素早く反応する。それだけ、彼にとっても衝撃的な話題だったからだ。
「ああ。遺影の話か? ……そうだなぁ、俺も驚いたよ。まさか還暦を迎えたからと言って、遺影を撮影するなんて。本当に壮太は思い切ったことをしたよな」
 手元のスマートフォンで、簡単な操作で遊べるアプリゲームをひとしきり嗜みながら、ひとみは夫の言葉に深く頷く。
「ええ。でも、いい選択なような気もするのよ」
 ひとみが真剣に言うと、夫は肩をすくめる。
「おいおい。いくら還暦って言ったって、ようやく孫も生まれたくらいなんだぞ? さすがに俺は、幸助のじいちゃんになってすぐ、遺影は撮ろうと思わんなぁ」
 ひとみの娘である明日香に、息子の幸助が生まれたのは、1ヶ月前のこと。
 仕事を出産間近まで続けていたこともあり、嫁ぎ先の県外で出産した明日香は、いくぶんか体調が安定したのを見計らい、実家へ帰省してきた。
 これにはひとみも、夫も大喜びだったが、2人と同じくらいに喜んでいたのが、夫婦の同級生である近藤壮太だ。
 壮太はいわゆる、趣味に生き、家庭を持たない独身貴族として、地元でも名前が知られている。中には結婚しないことを揶揄する者もいたが、1年の5分の1も日本にとどまらないほど海外を飛び回って働く彼に、次第にそうした意見は小さくなっていった。
 ひとみと夫、そして壮太は、小学校時代からの同級生だ。やがて同じ映画鑑賞という趣味を持ったこともあり、今でも仲良く過ごしている。
 それこそ、明日香が無事出産を終えたことを親戚以外に一番に告げるくらいには、夫婦ともに壮太と仲良くしてきた。
 壮太も、明日香を自分の子供のように可愛がってきたからか、彼女に子供が生まれたと連絡をうけた時には、それはもう喜んでくれた。今日も、出産祝いを多すぎるくらいに包んで、さらにお手製のローストビーフも片手に、大島家へきたほどだ。
「壮太はきっと、今後のことも俺たちより、こう。具体的に考えなきゃいけないんだよ。だから、こんなにも早くに遺影を撮影したんだ」
「そういうものかしら……?」
「そうだよ。……でも。壮太、すごくいい顔で話してたな」
 夫が、昼間の会話を思い出すように目を閉じるのを見て、ひとみは大きく頷いた。白髪交じりになった髪を丁寧にオールバックでまとめた壮太が、自慢するように話してくれたのを思い出す。

『いい思い出になったよ! 何しろ、自分の死に顔を、自分で決められるんだからね!』

 その一言は、なぜか、ひとみの胸のうちで、温かな熱を放っていた。羨ましさではなく、まるでひとみの背中をそっと押してくれる、誰かの両手のように感じられる。
「そういや、明日も紅白饅頭と赤飯の依頼が入ってただろ」
 思い出したように言う夫に、ひとみは瞬きを繰り返してから、ああ、と頷いた。
「そうそう。あれ、西区の洋一郎さんのところよ。うちと一緒の月にお孫さんができたんですって」
「めでたいことだな。よっし……俺はそろそろ寝るよ。母さんも、早いうちに休んだほうがいい。そうはいっても、幸助が泣きだすかもしれん」
 顔の前に指を立てて、しーっ、という顔をする夫にひとみは思わず笑いをこらえる。
 彼も明日香が夜泣きをして、それはもう苦労した時の記憶が焼き付いているのだ。和菓子屋の朝は、決して遅くはない。繁忙期ともなれば、昼も夜もないような働き方をすることだってあった。
「そうねぇ。明日も店を開けなきゃだし、寝ましょうか」
 答えながらも、ひとみは手元のスマートフォンを操作し、検索バーを呼び出す。
(私も……遺影、撮影してみたいのよね)
 どうしてこんなにも強く思うのか、ひとみには分からない。仲の良い壮太が言うからなのか、それとも、孫ができて祖母という立場を得たからだなのか。
 ひとみは検索バーで近くの撮影スタジオを探した。壮太が『写真屋より撮影スタジオの方がノリがよかった』と言っていたのを聞いたからだ。
 それに和菓子屋を営むひとみが、遺影を撮影することを近所の写真屋に知られれば、同じように店を営む仲間たちにも変な風に話が広まってしまうかもしれない。
(あ、ここ。隣町の撮影スタジオなら、バレなくて済むかもしれない……)
 直感のようなものだった。
 ひとみの手はあっという間に撮影スタジオのURLをタップして、予約を済ませていった。

===

 大きな白いライトに照らされたスタジオ内は、華やかな香りに包まれている。
 ひとみは撮影スタジオの雰囲気に、少し落ち着かない気持ちになりながら受付を済ませ、待合のソファに座っていた。
(ここ……すごく大きいわね)
 予約した時は勢いだったため意識しなかったが、撮影スタジオの広さはひとみの予想を超えていた。
 あちらこちらに、晴れ着である振袖や袴が飾られており、数も膨大だ。また撮影する部屋自体も複数あるのか、スタッフが忙しく歩き回っている。
 結婚式の前撮りに来たらしい若い男女が、幸せそうにドレスやタキシードを選んでいた。
(こんなところに遺影の撮影だなんて……ちょっとひんしゅく? でも、もう予約しちゃったし……。私、場違いになっていないかしら)
 ひとみは、そっと周囲を見回す。
 そして、彼女は吸い寄せられるように立ち上がると、1歩、2歩と前に歩み出た。
 エントランスには、鮮やかな振袖を着せられたマネキンが飾られており、表情のない顔でひとみを見下ろしていた。赤を基調に、青や黄色など原色で、大きな蝶が描かれた振袖だ。白色のマフラーを肩にかけ、帯は黒に金銀の刺繍が入り、これ以上ないほどに飾られている。
 そっと、ひとみは手元のパンツスーツに視線を下ろした。
 明日香が生まれた後に、夫や壮太に相談しながら購入した、パーティーにも着られるようなスーツだ。
(そういえば……いつも、パンツスーツだったわね)
 ひとみがふっ、と思い出したのは、実家が和菓子屋を営むからこその卒業式や入学式のことだった。

 鮮やかな振袖を着た同級生たちの中で、ひとみだけがパンツスーツ姿で立っている。

 同級生は『かっこいい!』と言ってくれたが、大人の中には『今日くらい振袖を着ればいいのに』と、まるでひとみの趣味を悪く言うような人もいた。
(失礼よね。……自分だけの理由で、パンツスーツだったわけじゃないのに)
 もう20年近く前には、高校や中学、小学校など、各家の子供たちが入学した際に、赤飯を近隣の人へ配る風習がこの辺では盛んだった。いつしか少しずつ数は減ったものの、今でも時期が来れば大島和菓子店は大忙しとなる。
 また、成人式や健老の日にも、饅頭やすあまの注文が来て、家は大変な騒ぎだった。
 従業員はもちろん、ひとみの両親も、朝から晩まで対応に追われたものだ。
 幼かったひとみも、成長すれば人手と当てにされて、卒業式や入学式であっても動きやすさを重視した服装で学校に向かうようになる。
 忙しさのあまり、家族が式へ参加しないこともざら。高校の卒業式で同級生が華やかに振袖で着飾っているのを横目に、ひとみは大急ぎで帰宅したものだ。 
 成人式も結局、手伝いに追われてしまい、パンツスーツで終わらせている。
 だから振袖とは無縁に過ごしてきたのが、ひとみの青春時代だった。
「綺麗ねぇ……」
 金銀の糸が踊る赤い生地に、うっとりと見入ってしまう。
 ひとみは、振袖を着られなかったことを、不幸だと思ったことは無かった。振袖を着る暇がないほどに大島和菓子店の仕事が途切れなかった証だし、娘の明日香にはうんと可愛らしい振袖を、レンタルではあったが着せることができた。
 明日香が高校生になるころには、もうすっかり、赤飯を周囲へ配る風習も落ち着いていたからだ。
(そう思うと、あの子は良い時代に生まれたのかしら。ううん、でも……私は決して、嫌だったわけではないし……)
 あの頃、振袖を着られなくて親を恨んだ記憶は、ひとみの中にはない。
 ただ、今、飾られている振袖を目にすると、胸の奥がどこか締め付けられるような気持ちになる。

 あの鮮やかな袖はどのような触り心地なのだろう。
 あの滑らかな帯は、どんな風に自分を飾るのだろう。

 成人式や卒業式でも、本当はひとみは、皆が羨ましかったのではないだろうか。閉じ込めてしまった本心を、還暦を迎えたひとみが思い出すことは、もうできない。
「自分で決めるって、確かに……良いことよねぇ」
 好きなことを好きなだけ、というのは壮太の口癖だ。しかし、思えば彼は希望を叶えるために仕事でも無茶なことをしていると、若かりし頃に夫が、愚痴なのか僻みなのかわからないことを言っていたのを、ひとみは思い出す。
 自分で決められることはこの年になっても存外少ないのかもしれない、とひとみは思う。
「お待たせいたしました! 大島ひとみ様でお間違いありませんか?」
 ハキハキとした声に、ひとみは、ハッとして急いでそちらを向く。
 声をかけてきたのは凛とした顔つきの、青いアイシャドウが印象的な同年代の女性だ。肩ほどの長さの髪をふんわりとカールさせており、見た目も上品で落ち着いた雰囲気の服でまとめられている。
 適当な店で購入したパーカーとジーンズに、動きやすいスニーカーという服装のひとみは、少し気後れしながら、持ち込んだパンツスーツの入った袋を抱きしめた。
「は、はい! そうです」
「わたくし、本日担当いたします井上良子と申します。どうぞ、よろしくおねがいいたします」
「こっ、こちらこそ! よろしくおねがいいたします」
「はい、よろしくお願いいたします」
 丁寧に頭を下げた良子は、くるりと踵を返すとひとみを撮影スタジオの方へと案内した。まず通されたのは、四人掛けの椅子とテーブルが置かれた場所だ。反対側には巨大な白い布やら、紙やらが天井から垂れさがり、大きな機材がいくつも置かれている。
「本日は、遺影写真の撮影、とお伺いしておりますが、スーツでよろしいのでしょうか?」
「は、はい! ……あのー。ええと。ちょっと、変な話かもしれないんですが……じつは友人が最近、遺影を撮ったと聞いたんです」
「いいえ! 変なことではありませんよ」
 優しく良子はほほ笑むと、冊子を広げる。そこには、柔らかな表情でほほえむ女性や男性たちの写真が並んでいた。
 すべて、このスタジオで撮影された生前撮影の遺影だと言われ、ひとみは目を丸くする。
「実は、遺影を生前に、ご自身が希望する形で撮影される方は珍しくないんです」
「そうなんですか?!」
「ええ。遺影を見られるのは、遺されたご家族やご友人ですよね? せっかくなら、笑顔で、自分らしい姿を見せたい、という希望を持たれる方が多いんです」
 なるほど、とひとみは頷く。
 壮太の趣味の一つは、仕事場でもプライベートでも使えるようなスーツを買うことだと、ひとみは知っている。そんな彼が、自分の最期の姿もばっちりと決めたいと考えるのは、決して変な話ではないだろう。
 それからは、ひとみが思っていた以上に、スムーズに事が進んだ。パンツスーツに着替えたところで、てきぱきとメイクや髪のセットも済まされて、撮影が始まる。
「この遺影を必ずしも使うと決めなくても大丈夫です。どうか、気楽にしてくださいね!」
 良子の言葉に肩の力も抜けて、久しぶりの写真撮影を、なんとかひとみは終えることができた。
 白い背景をバックに、幸せそうな笑みを浮かべる自分の姿に、ひとみは感心しつつ首を傾げた。
(いつかこの写真が、明日香とかお父さんに、仏壇に飾ってもらう日が来るのよね……不思議)
 そう思いながら感心していたひとみに、撮影の装置を止めた良子が近づいてくる。
 彼女は一通り、写真の受け取りまでの日程を話したところで、何かを決心するように言葉を区切った。
「あの、良子さん?」
「すみません。……大島様、よろしければ、振袖を着たものを撮影してみませんか?」
 ひとみにとって、思いもよらない提案だった。
「えっ!? も、もしかして、振袖見てたの……」
 ひとみは、顔が赤くなるのを感じた。
 良子は申し訳なさそうな顔をしながら、続ける。
「はい。ごめんなさい。たまたま見かけてしまって……。最初はお嬢様にと考えているのかと思ったのですが、もしかして違うのではないか、という私の直感があって……」
 じっと頭を下げる彼女に、ひとみは慌てて首を横に振る。振袖を見ていたのは事実であるし、彼女が気にして声をかけてくれたのなら、その好意を無駄にはできないと思った。
「……私、隣町で和菓子店の娘に生まれたんです。だからイベントごとがあるとどうしてもパンツスーツで。友人が調べてくれて、パンツスーツも決して悪いものを着たことはないんですけど……振袖は着たことがないんですよ」
「……なら。振袖、一度だけ、試しに着てみませんか? 料金は不要です」
「ええ!? でもそんな、着付けにも時間がかかるでしょう」
 着物に詳しくないひとみでも、着付けに技術がいることはよく知っていた。料金がかからないという言い方に、ひっかかってしまう。
「大丈夫です。付近の振袖が必要なお式はすべて完了いたしましたし、今の時期はそこまで混んでいないんです。それにこの振袖も……次のシーズンまでは、誰かに着られることもありませんから」
 そう言われても、ひとみは頷くことができなかった。行為に甘えてしまえばいいという気持ちと、やめた方がいいという気持ち、その両方が共存している。
 納得できない気持ちを分かっているのか、良子が言葉を重ねる。
「それと、個人的な理由です。私はこの辺りでそれなりに長くカメラマンをやっているんですが……以前に、40歳ほどの女性が、振袖が着たい、と来店されたことがあったんです」
「40歳の方が?」
 驚いてひとみが良子を見つめると、彼女は深く頷いた。
「……ご病気で成人式や卒業式に出られなくて、ずっと心残りだったそうです。その時の方と似たような表情をされていて、もしかして、近い理由があるのかも、と思いまして」
 差し出がましいことをして申し訳ありません。
 そう言って頭を下げる良子に、ひとみは、ぽつり、と返す。
「私も、その人と、似ているかもしれません」
「似ている、といいますと」
「やっぱりどこか、心残りなんです。振袖を着られなかったからといって何かを損したわけでもない、後悔したわけでもない。でも……羨ましかったのは事実だし、もしかしたら何か、大切なものを残してきてしまったような気になる。……でもやっぱり、遺影だと思うと恥ずかしいですね」
 苦笑するひとみに、良子は勢いよく首を振った。
「大丈夫ですよ! 遺影ではなく、あくまでも。そう。記念として撮影してみませんか?」
「ふふっ。……でも、こんな機会でもなかったら、もう二度と着られないかもしれませんね」
 壮太が自慢するように語った言葉を、ひとみはふと思い出していた。

『いい思い出になったよ! 何しろ、自分の死に顔を、自分で決められるんだからね!』

 壮太の本心は、ひとみにも分からない。しかし彼が喜んでいた理由が、今ならほんの少し、分かったような気がした。
 自分の秘めた気持ちに、壮太はきっと、気が付くことができたのだろう。
「あの……お願いします。振袖、着てみたいです」
「っ、ありがとうございます! おまかせください!」
 頷いたはいいものの、ひとみにとって、それからは怒涛の展開だった。
 良子が手際よくスタッフを集め、皆にひとみの事情を伝えていく。美容師たちも、以前来た40歳の女性のことを知っていたらしく、とても嬉しそうに振袖を運んできてくれた。
「赤い色が良くお似合いですよ」
「せっかくですから、髪飾りもつけましょう!」
 着物を着た経験のないひとみには、あれこれ口出しをする余裕はない。それでも、1つだけ伝えておきたいことがあった。
「あのっ。……玄関の、あの、マネキンが着ていた振袖は、大丈夫でしょうか?」
「もちろんです! 用意しますね!」
 そして、あっという間にひとみは、あの、マネキンが着ていた赤い振袖を身にまとうことができた。良子の言うように、手の空いている人がそれなりに居たのは本当だったのだろう。
「できましたよ!」
 帯の位置を調節していた美容師が、ひとみの前から離れる。
 ひとみは、鏡の中にいる自分に向かって、呟いた。
「これが、振袖……?」
 メイクだけではどうしても隠せない皴から、確かに年齢は感じ取られる。手の形や、爪に関してももそうだ。
 だが、着ている振袖はそんなこと気にしないとばかりに、美しくひとみを飾り立てていた。帯も、帯留めも、帯揚げも、何一つ、ひとみの年齢には『ふさわしくない』とされる色をしているのに、ぴったりとひとみに合っている。
「さあ! 写真を撮りましょう、ひとみさん。1番素敵なあなたを、どうか、この世に遺してあげてください」
 良子がにっこりと笑みを浮かべて言う。
 ひとみは思わず、答えた。
「……遺影にはちょっとハデすぎるかもしれませんね」
「そうかもしれません。でも、きっと、ひとみさんらしい1枚になると思います」
 うん、とひとみは頷いた。
「ええ。……きっと、いい思い出になります」
 恥ずかしさも感じながら、ひとみはカメラの前に立つ。成人前の少女のように、しなを作って笑って見せる。それだけで、どうしても、心が浮き立ってしかたがない。
 たぶん、きっと、いつかの高校生だったひとみも、本当はこんな気持ちになりたかったのかもしれない。
 確かめることはもうできないが、それでも。ひとみは1枚、また1枚とシャッターが下りる数だけ、あの頃の自分が笑顔を取り戻せるような、そんな気がしていたのだった。

===

 桜の蕾は大きく膨らみ『大島和菓子店』の看板にも、はらはらと花弁が散っている。
 ポストへ投函された封筒を、ひとみは慌てて抱え込んだ。
 人気のない寝室で、こっそり、封を開けてみる。上質な紙に飾られるひとみの遺影と振袖姿の写真は、ほんの1秒も外に出しておきたくないほど、見事な仕上がりだった。
 思わず、封筒に戻してしまう。
「っ、素敵……本当に素敵! これは、どうしましょう。でも、お父さんに見つかったら心配されちゃうわね」
 夫は、まだ和菓子屋を切り盛りする気でいっぱいだ。ひとみだけが弱気になっていると思われたら、なんだかんだで心配をかけてしまうだろう。
 こっそりと隠す場所を考えて、ひとみは店の倉庫を思いついた。
(あそこの棚なら、お父さんも滅多に開けないわ。そうしましょう……)
 店先に人影がないことを確かめ、ひとみは店の倉庫へと足早に向かう。倉庫の引き戸を開けてから、ひとみは、はた、と動きを止めた。
(どうして、戸の鍵があいているのかしら? ……)
 そっと中を覗くと、娘の明日香が真剣なまなざしで、壁を見つめている。いや、正確には、壁に飾られた道具たちだ。
 今の『大島和菓子店』では使っていない、ひとみの両親や祖父母が使っていた、古い和菓子用の道具である。
「明日香、どうしたの?」
 振り返った明日香は、父親譲りの大き目の黒目を見開いて、肩をすくめた。
 何かを隠している表情だ、とひとみは直感する。
「あっ、お、お母さん……ええと。大丈夫、幸助は旦那が見てるから」
「そりゃあそうだと思うけど。なに、気分転換?」
「まあね。……ところでお母さん、写真撮ったの? それ、隣町のスタジオの封筒でしょ」
 娘が何かを隠しているのなら、自分が隠し事をするのは良くない。ひとみの、育児経験の中で培った勘が、彼女に封筒をひらかせた。
「実はね……遺影を撮影したの」
「遺影!?」
 見せられた写真に、明日香は肩を飛び上がらせて驚いた。
 さすがに母親から『遺影』という言葉が出てくるとは、彼女も考えていなかったのだろう。
「そう。壮太おじさんが、生前遺影を撮影したって聞いてね。私も気になって、試しに」
「ええっ……いや、確かに壮太おじさんはやりそうだけど。……これ、あれ、振袖?」
「うん。そこのスタジオの方がすごく優しくてね……私が振袖を見ていたことに、気が付いてくれたのよ」
 じっとこちらを見る明日香に、ひとみは若かりし頃の自分が、振袖を着ることがなかった経緯を話した。
 明日香も、思い当たる節があるのだろう。目を伏せて、何度も頷きながら、ひとみの話を聞いている。
「もちろん、家族を悪いとは思っていないのよ。でも……本当は振袖を着て、素敵な記念写真を撮ってみたかった自分の気持ちに気がつけた。それが何よりの収穫ね」
「……そっか。なら、撮影して、良かったね」
「ええ! ……明日香は、どうしたの?」
 産後の体調は、個人差はあれど、決していつもより良いとは言えない。そんな状況でもここに来たかった理由があると、ひとみは感じていた。
 肩をすくめた明日香が、
「隠せないか。……あのねお母さん」
 と、答える。小さく息を吸いながら、彼女はゆっくりと告げた。
「本当は私。お父さんの跡を継ぎたかった」
「……えっ」
 それは、ひとみが明日香の母になって以来、一度も聞いたことがなかった、彼女の気持ちだった。
「和菓子職人になりたかったの。……でも、自分で気持ちに、蓋をしちゃった」
「確かに、あなた。小学生の頃はパティシエになるって、たまに言ってたような……」
「うん。でもね、本当は和菓子職人になりたかった。でも、お父さんがどんなに大変か、お母さんがどんなに頑張っているか見ているから……どんどん、自信が、なくなっちゃって……」
 桜の花びらが散るように、明日香の頬に涙が落ちていく。
 鼻をすすりながら、それでも彼女は言葉を紡いだ。
「あのね。それが、どんなに弱虫なことか分かっているの。でも……今の会社の経理部に勤めて、旦那と出会って、子供もできて……そしたら、なんだか……あのころの夢が、でてきたの」
「和菓子職人に、なりたいって?」
「うん。……無理だって思う気持ちもある。どうするんだ、って思う気持ちもある。だけど……なりたいって気持ちに、嘘がつけなく、て」
 ひとみは、明日香を抱きしめる。
 ずいぶん背が伸びた娘の体だが、泣き方は小さいころそっくりだった。どれほど成長し、母となったとしても、やはりひとみにとって明日香は娘だった。
「ありがとう。あのね、明日香。……自分の気持ちに気が付けたら、素直になれるときは思い切り素直になってほしいと思う。お母さん、遺影を撮りに行って、本当にそう思ったの。もちろん、まだまだ落ち着けないと思う。でもね、気持ちに素直になれる瞬間も大事ってこと、それは忘れないでね」
 明日香は頷いて、小さく笑った。
 親子の胸に抱かれた遺影に、春の日差しが輝いている。
「それにね。気が付いた時が、きっと、その気持ちに素直になるべき時なの。私はあの頃、素直に気が付くこともなかった。でもそれは……この瞬間のためだった」
 ひとみは、還暦を迎えた手のひらでそっと写真を撫でる。
 振り袖姿の自分がほほ笑んだ、そんな気がしたひとみだった。

おわり

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