見出し画像

「ヴァンパイアズ シークレット」


             こい瀬 伊音

 まじふざけんな。
 朝六時すぎの病室で、リカは足止めをくらっていた。六時半までにあと三人の採血をすませ、検査科に持っていきたい。経管栄養を準備して、朝食の介助が始まるまでの時間で担当患者のバイタルをとって。夜勤の最後はフルスピードで動かなきゃ回らない。なのにこいつときたら腕を出さずににたにたと、くだらない話で神経を逆撫でしてくる。
「こんな明け方にさ、男一人の病室に来といて、しかも?そのナース服のファスナーがさ、下ろしてくださいっていってるじゃん」
 ガタイがいいばっかりで気が小さいセクハラ野郎。心のなかで舌打ちして、念のために緊急コールが届く位置にさりげなく移動する。
「採血に伺っただけです。昨日の夜にも説明しましたよね」
「あのさ、ナイチンゲールは病める人に寄り添うんだろ。病は気からって言うじゃん、おれおっぱい見なきゃ元気でないんだよねぇ」
 リカは黙った。アンガーコントロールのために六秒。
「わかったよ、そんな怖い顔しないで。ほら、腕出すからさ」
 はじめからそうしろよ、丸太みたいな腕しててどうせ血管出にくいくせに。心のなかで二度目の舌打ち。
 無言で二の腕に駆血帯を巻くと、案の定まったく見えない。勝負は刺す前にもう決まるのだ。だから真剣に血管を探す。
「怒ったからって何度も刺さないでよ」
 怒ったからって?プロの仕事なめんな。にらみあげそうになるのをこらえて、だけど後輩が泣かされないためにも、そうやってプレッシャーかけると余計失敗しやすいんですよ、と釘を刺しておく。
 駆血帯の場所を手首近くに変え、唯一見えた手の甲の血管へ翼状針を進めた。ハンバーグみたいな甲に緑の蝶の羽が開く。ぷつん。虫ピンで昆虫の胸を留めるみたいな感覚。
 はいもうおしまいですお疲れさまでした、と踵を返すと、おもむろに伸びてきた手がリカの尻に触れた。
「痛っ!かったいケツ、最悪。」
 こういう時のために、リカは鉄のパンツを履いている。おまえみたいな奴に触らせてやるケツなんてねんだよ。突き指でもなんでもしやがれ。心のなかで毒づいてから深呼吸し、口角を上げて次の患者へと向かった。
 秘密のランキング。それは高校時代、クラスの男子が妄想で、女子がどんなパンツを履いているのかをランク分けしていた制度、別名パンツランク。みんなの憧れの美人はシルク、仲間内の彼女や狙ってる相手でリアル感漂うあたりはあえてまとめてツルツル。清楚はレース、アニメ声はヒモパン、真面目系は綿。そして鉄のパンツはだれとでもやっちゃうノーパンと並んで堂々のランク外だった。
 バカであけすけで、まあかわいらしいガキっぽさ。女子のパンツが好きでしかたがないんだから勝手に言ってればいい。だけど、自分が上の方に位置付けられていることをよーく知ってて、ランク外を見下してくるツルツルあたりの女は嫌い。お腹の中でおもいっきり蔑む。そうやって安っぽいからツルツルなんでしょ。自分の価値くらい、自分でわかってればいい。
 だけど鉄なら悪くない。男のぎらつく欲望を挫く。おかげで、ナースはエロいと決め込んでいる患者からも、偉いドクターの魔手からだって簡単に逃げられる。今はバカな男子のネーミングセンスにちょっとだけ感謝もしてる。
 からだも鉄も熱くなったら。そのときが来たらさっさと脱げばいいのだ。

「よくじょうしん?」
 リピートされるような単語かな。思いめぐらせてから、ヒロの使った漢字にたどりつく。欲情心。
 羽をたたんだ蝶をつまんで捕まえるようにして血管内に挿入する針。翼を広げて安定させて、注射器(シリンジ)を引けば、細いルートをたどって静脈血が駆け上がってくる。夜勤の明け方には朝いちばんの検査に出すために、何人もの血管を探ってまわる。満足感があって意外と好きだと言うと、ヒロは吸血鬼だと言った。
「鉄のパンツはいた女ヴァンパイア。悪くないな。」
「いちいちエロにもっていかないでよ。いちばんでかいシリンジで血、抜いてやろうか」
 うわーこわ。
 夜勤のあと、昼前に家に帰って、シャワーだけしてベッドに倒れこむ。起きたら夜の七時で、あまりの空腹でなにも考えられずに近所の飲み屋に直行。だし巻き玉子やおすすめサラダなんかをひとりでつついているときにヒロと再会した。ご近所さんと判明して以来、何度かここで顔を会わせている。
 ヒロの手は骨ばって大きく、はっきりと血管の見えるとてもいい手で、同じテーブルにその手が置かれているというだけで胸がほくほくする。腕捲りしていた季節はちょっと目のやり場に困ったほどだ。長袖になっても手首から袖の奥に息づく妖しい気配に、尻の窪みの青い蝶が今にも飛び立ちそうになる。
 すーいすい。トンボが秋空を乗りこなすみたいに、得意になって杯を重ねた。前にしか進まないトンボはとてつもなく女っぽい。そしてリカは滅多なことじゃ酔わない。すこし進んだら下へ、すこし進んで下へ。思い付いたように時々力業で上へ。それを繰り返すからだの重い蝶は男に似ている。
 ヒロは何度もの下降の次に来るやっとやっとの上昇を繰り返したのち、その口を開いた。
「あのさ、おれ。軽い変態なのかな。実はシャッケツが気持ちよくて」
「シャッケツ?」
「血、抜くやつ」
 ならんだカウンターで、声を潜めて。ヴァンパイアに向かって食べてくださいと告白する美味しそうな男。
「そんな話、私にふって大丈夫なの?にんにくも朝日もここにはないのに?」
 冗談めかして伝えたのに、ヒロの答えときたらこうだ。
 さっきのよくじょうしん、持ってないの?
 あ。まじなやつだ。
 持ってなくはない。ロッカールームで脱いだ白衣をランドリーに出すとき、ポケットをさらったら出てきた夜勤の残骸を、めんどくさくて鞄に放り込んだ。予備に持っていた10ミリシリンジと21ゲージの翼状針。
 持ってるっていったらどんな顔するんだろう。だけど抜いてあげないって言ったら?意地悪だけなら、してみたい。一応、職業倫理ってもんもあるし。
「普段、どうやってるの?清潔な針でやってる?」
 使い回しなんてするほどバカな奴じゃないと信じてるけど、血液データだって気になる。
「普段は…まぁ、献血どまり」
 リカは吹き出しそうになるのを必死でこらえた。
「なにそれ、かわいい。気持ちよくなりたくて、献血しちゃうんだ。ジュースやお菓子もらって?」
 それじゃあ間違いなく感染症はクリア。ずくずく。ヒロの、ありとあらゆる血管を探れるまたとないチャンス。
 リカは頭のなかに一匹の蜘蛛を放つ。おいしそうな獲物を逃がさないための。一度きりじゃなく二度三度ごちそうにありつくための。だけど、ヒロがどうしてもって言うから仕方なくっていうポジションを確保するための。
 店を出て見上げた大きな月にはジャックオーランタンの顔がある。仮装するならちょっと寒くても平気。並んで家まで歩く間、蜘蛛が忙しく糸を吐き出した。心臓から送り出される血液みたいに、拍動性。ヒロの腕を、絡めて、絡めて、それからどうやって食べよう。
 玄関のドアを閉め明かりをつけると、ヒロの頬が紅潮している。おいしそうでドキドキするけれど、すぐには食べずにおこう。デザートに、と種無しぶどうを洗って出した。唇にはむ赤紫のつぶが目に鮮やか。酔ったふりをしていたくて、スパークリングの日本酒をグラスに注ぐ。テーブルの上には鞄から出したシリンジと緑の蝶の翼状針。いきもののようにはじける泡。
 会話が途切れて、沈黙がふたりの間に落ちた。リカはヒロのネクタイの結び目に手をかけた。うまく外せなくてもたもたしていたら、男の手に掠め取られするすると一本の糸になった。リカはその糸をためらいなくヒロの腕に巻きつけた。人差し指でなぞる。怒張した左腕に、脈打つ動脈と隆起する静脈。指先から腕の付け根まで、舐め上げたらどんな味がするだろう。
「ここ、つまんで」
 リカはヒロの右手の人差し指と親指に、緑の蝶を捕まえさせた。中指に触れるとペンだこ。ヒロの目に戸惑いの表情が浮かぶ。針を持つ大きな手の上から、リカは自分の手を重ねた。
「ほら、この真ん中に入れるの。小指をつけて、安定させて」
 大丈夫、もう、すぐそこだよ。気持ちいいところへ連れてってあげる。お酒のせいじゃなく、全身の血があわだって呼吸が乱れそう。左腕にくっきりと浮かび上がる血管の走行。しなやかな壁に守られた流れ。弾力を何度も確かめる。
 だけどヒロは肌を粟立てていた。目をぎゅっと瞑っている。まるで蜘蛛の巣にかかって弱りきっている蝶。
「なんで嘘ついた?」
 無理矢理に食べるなんて、私の趣味に合わない。
 リカは、きつく結んだネクタイを解いた。
 突然、黒い羽が大きく開いた。間合いをとるみたいに天井に逆さまにぶら下がる。身の安全を確保したコウモリは呼吸を整えてから言う。
「リカの、夢中な顔を見てたかったから」
 上から見下ろされると、ヒロが何のいきものだかさっぱりわからなくなる。さっきまでのかわいい蝶はもうどこにもいない。
「それと、噂を確かめたかった」
 何の?ヴァンパイアの真似事なんて、今日が生まれてはじめてだ。
「まだあるの?」
 何が?怪訝な顔をするリカに、余裕たっぷりの表情をする。
「鉄のパンツに隠してる蒙古斑」
 リカはかっとなって、もう一度左腕をつかんだ。瞬時に糸を巻き付けて締め上げる。だけどヒロは無抵抗で、じっと目をのぞきこんできた。
「いいよ、いくらでも。全身、好きにしなよ」
 ヒロが正面から真っ直ぐに、ゆっくりと超音波を送ってくる。余裕過ぎてしゃくしゃく音が聞こえそう。ツルツルあたりの女が好きなんじゃなかったの?ヒロの手はどこにも触れていないのに、あっという間にリカの体を動けなくする。
「どんな形してるのか、確かめたい。今日じゃなくてもいいよ、必要ならこれから何度もデートして、そうするうちに素敵な下着に着替えなよ」
 捕らえられたふりをして、巣ごと抱き込み片方の糸を切る。男の、鮮やかな変身。
 ぐらり。世界がまわる。熱で溶かされる。はじめから製菓用のチョコレートだったみたいに。
 だめだもう保てない。
 鉄のパンツ、形無し。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?