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恋人櫻2 闇を照らすは1

 ふうと柔らかな風が吹き、茜色に染まり始めた空に薄紅色の花びらがふわりひらりと舞い上がった。
 結希乃は二階の窓枠に腰を掛けて、憂鬱な瞳でぼんやりと空を眺めていた。心はもう随分前に沈み込んだまま、浮き上がる気配もない。
 まだ日は落ちていないというのに、街中の赤い提灯には早々と灯りがともされていた。灯りがともればそろそろ遊客がやってくる時間だ。
 表通りからは楽しげに騒ぎ笑う男たちの声が聞こえてくる。なにがそんなに楽しいのだろう。花が咲いて浮かれているのか、それとも何か他の理由があるのか、まるきりわからない。
 鮮やか過ぎる緋色の着物をに纏うようになって一年と数ヶ月、緩く着付けた襟にも、低い位置で緩く結んだ帯にもすっかり慣れたが、いつまで経ってもこの毒のような色を好きになれない。
 鏡を覗き、亜麻色の髪に幾つも挿された簪をひとつひとつ整えた。
 鏡台の引き出しから一本の小刀を取り出した。ごてごてと飾り立てられて鍍金が施された鞘からすらりと抜いた。明らかに鍛え上げられた刀身ではなく、さほど鋭さは感じない。
 いつか指切りをするときのためと言い訳して持っているが、それは方便だ。本当のところは、どうにもならなくなった時に自らの頚動脈に当てる刃だ。
 不意に、女たちが驚きざわめく声が幾重にも重なって聞こえてきた。反射的に声のするほうへと振り返ってみたが、ぴたり閉じられた朱色の襖があるだけだった。
 飾り刀を引き出しに戻すと、しゅるりと衣擦れの音をさせて緋色の裾をひるがえし、廊下へと続く襖を開いた。そこから首だけを出して見ると、廊下では緋色を纏った大勢の女たちが一様に玄関広間の方へ向いて群がり、色めきたって歓声をあげていた。
 十でこの廓へ売られてから七年、どれほどの金持ちが来たとてこんな様子になどなったことはなかった。注意を傾けて女たちが口々に言い合うのを聞けば、この世のものとは思えぬほど美しい青年がやって来ているのだという。
 結希乃はさして関心もないまま、緋色の人垣の一番後ろから憂鬱そうな亜麻色の丸い瞳を覗かせ、噂の種である男を探した。一目見ればきっとそれだけで完全に興味を失うに決まっていた。
 まず見えたのはご楼主の碧だ。いつもながら誰よりも上等な内掛けを羽織っている。緋色の対極にあたる緑を基調とした合わせは誰よりも鮮やかに引き立っていた。みどりの黒髪は完璧に手入れがいきとどき、ゆるりとした身のこなしは見返り美人と見紛うばかりの色っぽさだ。二十八になり、完成された絶美はあらゆる男の視線を奪う。売り物であるはずの女郎たちを差し置いて、客に言い寄られることもしばしばだ。
 碧は二人の客人を玄関広間へ迎え入れたところだった。
 一人は、ここの女なら誰でも知っている男だ。
 黒田守人。再来年には齢四十の大台に乗るはずで、漆黒の細い瞳と髪がいかにもまっとうで落ち着いた雰囲気を醸していた。いつでも小脇に書物を抱え、知的な印象もある。警官だというから幕府が倒れる前には士族だったのかもしれない。目尻を下げ、人の良さそうなにこにこ顔を碧へ向けていた。
 黒田の連れは初めて見る顔で、年の頃は二十前後。女たちの噂に違わぬ大した麗人だった。
 繊細な眉目は女にも見えるほどで、それでも男だと判断できたのは、すらりと長身な体躯と地味な黒橡(くろつるばみ)色の着流しのおかげだった。深い藍色の髪を無造作にひとつ結びで束ね、背の半ばまで長く垂らしていた。前髪も長く顔にかかっているが、それはあまりに目立つ美貌を隠すためかもしれない。肩が後ろにすっと下がっているのが実に美しく、涼やかに佇む姿は神秘的と思えるほどだ。ただ、その顔には何を考えているのか分からないほど表情がなかった。
 碧と黒田は、言葉を交わしながら楼主の部屋へと向かい始めていた。
 二人の後へ続こうとした美丈夫を、誰かが遠巻きに呼んだ。
 彼は足を止め、女たちの方へと顔を向けた。だがそれはわずかに一瞬のことで、表情を動かすこともなくすぐに二人の後を追って千歳緑の暖簾の奥へと消えた。
 緋色の女たちは一斉に溜息を漏らした。
「見たかい? あの凛々しさは、そうそうお目にかかれやしないよ」
「しかも、ちっとも鼻にかけてやしない」
「身持ちの堅そうなところがまた、憎らしいじゃないか」
「あとで遊んで行ってくれないかしら?」
「まさか。わざわざこんなところで金を払わなくても、幾らでも町娘が寄って来るさ」
「あの美人なら、あたしが金を払っても構わないよ」
「それじゃあまるっきり逆じゃないか。年季が増えてしまう」
 女たちの笑い声が響いた。
「あんたたち馬鹿だねえ、あの黒田さまのお連れだよ? 黒田さまが遊ばないのに、遊ぶわけがないだろう? 碧お姐さんに顔を見せに来ただけに決まってる」
 黒田守人がこのみどりやへ通ってくる目的はもっぱら女楼主で、女郎遊びに興じることはない。ここの女なら誰しもが知っていることだ。
 噂話に興じながら銘々部屋へ戻り始めた女たちの中で、結希乃の亜麻色の瞳は憂鬱なままだった。
「本当に、娘のように綺麗な方だったわね、若雪」
 横を見れば、いつのまにか美華が立っていた。いつでも笑顔で、誰にでも分け隔てなく優しい姐女郎だ。時折こうして結希乃にも声をかけてくれる。
「ええ。とても美しい方。でも、姿の美しさに何の意味があるでしょう。一皮剥いてしまえば、男などみな同じではありませんか?」
「そうね、きっと何も違いやしないのでしょうね。皆はあの方にお客になって欲しいみたいだけど、私は単純にあの顔が羨ましい。あの顔なら、どれほど稼げるか。きっとすぐにここから出られるわね。……身体まで男になってしまっては困るけれど」
 結希乃はくすりと笑った。
 美華には際立つ美しさはないが、何の気のない会話でもつい和まされてしまう。飾らない人柄と素朴な口調に、男たちは癒されるのだろう。
「そろそろ部屋へ戻るわ。またね?」
 美華はひらひらと手を振って緋色の裾をひるがえした。

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