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歯医者の選択肢


#多様性を考える

取り合えず言っておけばなんとかなる言葉の第1位が「コロナなので…」だとしたら、2位は「ほら、まあ多様性の時代だから」だろう。

適当にググると「ある集団の中に異なる特徴・特性を持つ人がともに存在すること」だと書いてある。


元来単一民族で、協調し思考から教育まで統一して発展してきたのが日本の発展の形であり、ここにきて急に「さあ、みんな認め合おう!」というのは少し気味が悪いし、完全に海外の論調に乗せられた感が否めない。ただ、いろんな人が社会に存在しているのは紛れもない事実だし、その人々が社会から疎外されているのならば改善するのに異論はない。


しかし、「多様性」という言葉は取り回しが効きすぎる。男女平等、人種、LGBT、経済格差、海外と日本、特殊性癖、就業後の過ごし方、時にはそもそもほっといていいはずの問題まで当事者じゃない人の声で壇上にあげられ、それが「多様性」の社会に即するのか断ぜられている。


特に問題なのが、多様性という言葉が、何故か『少数派の意見を反映した社会になるべき』という考えにすり替わりがちという事だ。「存在するのを知り、認めること」 と「システムを変える」までには大きな隔たりがあり、現行の体制を叩くなら同時にそこに至った経緯も鑑みなくてはらない。


例えば、給食を装うレードルという調理器具がある。一般に出回っているものは右利きにとっては問題なく扱えるが、左利きにはとても使いにくい。それを「こんなのは間違ってる!左利きがのびのびと自己実現できるように、全て左利きのレードルに変更しなければダメ」とか言い出す人がいたらどうだろうか。滅茶苦茶だ、と殆どの方は思うだろう。


しかし、実態としてこのような問題は散見される。どの性別を指しているのかわからないトイレの男女表示をTwitterで見たことある方も多いだろう。あれこそ左利きのレードルを手に取ってしまった例そのものである。
現状採択されている様式には自ずとそれに至った経緯と合理的判断があり、そこを振り返らずに変更を加えてしまうのは愚かしいと思えてしまう。


少数派が不満を感じるのも問題だが、その変更によって多数派が不満を感じるのは更に問題だという事実から目を背けないことである。なぜなら、全ての分野において少数派である人というのは存在しないからだ。(都合が悪くなると、自分を少数派のジャンルにシフトして上手く矛先をすり替える方はよくいる)


そもそも多様性について論じる時、「多様性には反吐が出る」という意見すら多様性の一部である。私が思うに最低限必要な多様性とは「理解し、分かりあうこと」ではなく「そもそも分かりあえないよね。ってことが分かったおk」である。


閑話休題(本来の意味で)


今日、歯の定期健診をしに歯医者に行ってきました。しばらく呪文のような歯の識別を聞いた後、歯のクリーニングを提案してきたのでお願いすることになったんですね。そこで歯科助手の女性がこう言ったんです。

「上の歯と下の歯、どちらからにしますか?」

特段迷うような問いかけでもないので「じゃあ上で」とお願いしたんですが、後から考えちゃったんです。

この質問って意味ある?って

なにか順番に必然性があるならそれこそ専門の歯医者さんが判断するべきですし、上だろうが下だろうが通う回数に違いはないわけです。汚れ具合だとしたって上の歯だけ下の歯だけで食事をする方なんていないですから、これまた意味がない。


ただ、世の中は広いので「絶対下の歯からじゃないとダメ!」みたいな人もいるのかもしれません。


クリーニング後の歯をカチカチと噛んでみれば多様性の音がしました。
お後がよろしいようで。


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