今更ノックスの十戒について考える
ノックスの十戒というものをご存知だろうか。
推理作家ロナルド・ノックスが1928年に発表した、推理小説を書く際のルール10か条である。
検索すればいくらでも詳細は出てくるだろうから、態々概要についてはこれ以上触れないでおくのだが、このノックスの十戒について、自分なりに昔から思うことがあるのでここで消化していこうと思う。
といっても、もしかしたら先駆者達が既に唱えている考えかもしれない。もしそうだったら、今更こんな考えを我が物顔で発表している自分を笑って欲しい。
さて、このノックスの十戒。
名前だけやけに厳ついから何とも厳かな雰囲気がしてしまうのだが、よく読めば書いてあることは正直、至極当然なものばかりである。
だから自分が初めてこのノックスの十戒というものの存在を知った時、"凄い"というよりかは、"はぁ…"と拍子抜けしたような気分を味わった。
犯行当日、"近くのバーで目撃されている"という点で捜査線上から外れていた容疑者。しかし実は、その日バーで目撃されていたのは、そんな容疑者の双子の弟であった。下らない。
内側から鍵がかけられた完全な密室殺人。しかし実は、犯人のみが知っているパスワードを入力すると、秘密の出口が現れる仕組みであった。下らない。
長時間捜査を進めるも 、指紋は疎か犯人の痕跡と思しきものは一向に出てこない。しかしそれもその筈、犯人は超能力者で、サイコキネシスによって殺人を犯していた。これは逆に面白いかもしれないけれど。
ともかく言いたいことは、態々こんなルールを熟読しなくても、ある程度知見のある書き手読み手は、感覚的なものでこれら暗黙の了解とも呼べるルールを理解している、ということだ。
皆がわかっている当たり前を言語化しただけの物が、何故近代にもその名を聞く程評価されているのか、自分には不思議だった。
しかし、最近、そんな考えも少し変わってきた。
世の中には、ノックスの十戒を知ってか知らずか、記載のルールを破った推理小説が数多く存在する。けれどそれらの作品の殆どが、暗黙の了解とも呼べるルールを破った駄作ではなく、敢えてノックスの十戒に背いた挑戦作として新たな評価のされ方をしているようだ。
そこで1つ気付いた。
現在、このノックスの十戒は、本を読む上での"伏線"としての役割を担っているのだ。
推理小説を終盤まで読んで、犯人は"居ることが全く明言されていなかった双子"でした、と種明かしをされた時。我々の頭には自然と、このノックスの十戒が浮かんでくるようになっている。
そして態々解説されなくとも、読者は勝手に「これはノックスの十戒を破った作品なんだ」と、暗黙の了解を破った作品に、本来あるはずのない納得の出来る感想を与えるのだ。
ノックスの十戒という前提があるからこそ、
ノックスの十戒を破る作品が生まれる。
つまり、このノックスの十戒という一見推理小説の幅を狭めている掟が、逆に推理小説の幅を広げているともいえるのだ。
そしてこれは、ロナルドノックスが態々言語化していなければ、生まれていなかったであろう現象である。
ロナルド・ノックス、参りました。