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ブログ企画【繋】第67回「私がブログを書く理由」

毎月1日に全国各地のメンバーがひとつのテーマで文章を書くブログ企画【繋】。
今回はカズMAXさんからこちらのテーマをいただきました。

『「繋」3月のお題についてですが「私がブログを書く理由」でお願いします。皆様それぞれ、ブログに対する価値観や距離感というものがあると思います。よろしくお願いします〜〜』
お題発案者:カズMAXさんより


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今回はかなり感覚的な話を重ねながら進めていきたいと思っています。

そこでまずいきなりこんな話から始めるのですが、わたし、ランニングが大好きなのです。

スポーツと結びつくイメージがない、走るという行為から遠いところにいそうだから意外などと言われることも多々ありますが、高2の冬にひっそりと始めて以来、不定期ではあるものの自分のペースでゆるゆると走り続けて6年になります。

気づけば、6年前は1時間かけて走っていたランニングコースを、今では45分ほどで走れるようになり、ランニングのウエアやシューズから靴下まで揃う(そのほとんどが母からの誕生日やクリスマスプレゼント)ようになったように、わたしの中での「走る理由」というものも少しずつ変化してきたように思います。


◆「走る理由」からたどる、わたしのランニングヒストリー

まず、ランニングのスタート地点となった高2の冬。
当時学校では「ダンス発表会」という、なぜか女子だけがクラス対抗でダンスを競う行事が控えていて、そこで身に余る大役を任されてしまったことから、とりあえず本番までに身体だけでも「絞ろう!痩せよう!よし走ろう!」といういたってシンプルな動機から、1月の極寒の夜に家を飛び出したことに始まります。

そして、ダンス発表会を無事終えたわたしは、ダンスではなくランニングの魅力にはまっていました。

体育は3の評価を一貫したわたしでしたが、個人的に行うランニングは体育の授業での持久走のようにタイムや評価や周りの人の目を気にする必要もなく、好きな音楽を聞きながら自分のペースで自分の好きなコースを走れる自由さが、わたしの足取りを軽くしたのかもしれません。

頻度はまちまちではあるものの、次第に「走る」ということに身体が慣れてくると、走りながら考え事ができるくらいの余裕が生まれてきました。
いや、走ることで頭の中が整理されるという方が正しいかもしれません。

人体構造としての詳しい仕組みはわかりませんが、頭の中がいろいろな情報や考えでオーバーヒートしているとき、そのままじっと考え続けるのではなく、走って身体を動かすことで余分な何かが削ぎ落とされて、頭の中の濃霧が晴れていくような気がするのです。

とくに大学時代は何かに煮詰まったとき、すべてを放り出すかのように走りに出かけていました。


そして今、わたしの「走る理由」はより感覚的に研ぎ澄まされたものであるように思います。

院浪生という立場上、やはり一日の多くの時間を頭を使うことに費やしているんですよ。

ここらから感覚的な話になってくるのですが、日々知識を吸収して、暗記して、何かを読んで、書いて、考えて、ってやっていると、次第に思考を司る領域に耽溺しすぎて、自分の身体の身体性が失われていくような感覚になるんです。

その状態において、霞ゆく世界と自分の身体との境界線の存在を思い起こさせてくれるのがランニングなのです。

次第に浅くなっていく呼吸、大きく速く打つ鼓動、額に浮かぶ汗、上気した頰、背中にこもる熱、そして走り終えた後にやってくる心地よい疲労感。

走ることで身体に感じる感覚のそのすべてが、浮遊しかけた身体性の重しとなって、この世界に身体を持って生きている実感を取り戻させてくれるのです。

今のわたしは、ランニングによって定期的に自らの身体性を確認することで、頭と身体のバランスを調整しているのではないかと思います。


◆「私がブログを書く理由」

これが今回のテーマとどうつながるのかって、ブログを書くここと走ることって、似ているなと思うのです。
※ここではわたしにとってのブログはこのnoteという前提で話を進めます。

とは言っても、最近はこのブログ企画【繋】以外の記事を更新することから遠ざかっていて、日々の出来事や考え事はもっぱら、わたししか見ることのできない個人的な日記帳(CROQUIS)の中にとどまっています。

以前に書いた、ブログ企画【繋】第61回「毎日欠かせない事」という記事では、その個人的な日記帳(CROQUIS)に日々を書き連ねることの意味を手書きの「こいぬまフォント」でご紹介しました。

でも、自分の目にしか触れない日記帳(CROQUIS)に向かうときの姿勢と、不特定多数の人の目に触れるブログ(note)に向かうときの姿勢はまったく異なるのです。

その違いにこそ、ブログを書くここと走ることの類似性が宿っているように思います。

どういうことかといいますと、ブログ(note)に向かっているときって、わたしの中では走っているときの身体性に近いものを感じるのです。

外からの他者の目が介在しない日記帳(CROQUIS)に向かっているときはさぞ気楽で、何を書こうが自分にしか理解できなかろうが構わないけれども、次第に自分の内側の世界だけで何もかもが完結してしまいがちになってくるんですね。

そんなとき、自分の外へ公開するブログ(note)に向かうってなると、たちまち他者からの目を意識して、そこに自分以外の読者の意識も入り込んでくる。

そうなることで、しばらく日記帳(CROQUIS)に入り浸っていたことで失いかけていた、何かを人に伝えるということの緊張感や、記事の更新ボタンに触れるときの心構えや、自分の表現したものが誰かの琴線に触れるという刺激的な体験が思い起こされるのです。

走ることで身体に感じる感覚のそのすべてが浮遊しかけた身体性の重しとなるのならば、ブログを書くことで感じる感覚のそのすべては、何かを生み出し自分の外側へ送り出すときに生じる覚悟としての重しとなる、という部分において似ているなと思います。

だからこそ、今のわたしは、ランニングによって定期的に自らの身体性を確認しているように、ブログを書くことで定期的に何かを生み出す者としての覚悟を自分自身に問いかけているのかもしれません。


でも、ここまで書いてきて何ですが、最近ブログ企画【繋】以外の記事の更新が滞っているのはなぜって、何を書いたらいいのか、自分は何が書けるのか、何が求められているのか、ぜんぜんわからなくなってしまって、思いあぐねているからなのです。

だからこそ、このタイミングでこのテーマをいただいたことに何かの意味を感じるとともに、「書くということについて書く」ことのむずかしさに頭がオーバーヒート寸前です。


そんなときこそ、さっ、ひとっ走り行ってこようかな。


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最後にひとつ、個人的なお知らせをさせてください。

Twitterでもお知らせしましたが、


この度、(株)シネボーイの出版レーベル「PAPER PAPER」さんより3月9日に発売される『でも、ふりかえれば甘ったるく』というエッセイ・随筆集にて、「検索結果は見つかりませんでした」というエッセイを書かせていただきました。

【概要】
悩みながら、もがきながら、噛み締めながら「今」を生きる。女性9人が自分らしく想いを綴る、それぞれの「幸せ」とは。彼女たちの「これまで」と「これから」をまとめたエッセイ・随筆集。
人生って、予想外にドラマチックだ。
(エヒラ ナナエ「愛すべき孤独に」より)

【著者・章タイトル】
伊藤 紺/ファミレスのボタン長押しするように甘く
生湯葉 シホ/永遠には続かない
こいぬま めぐみ/検索結果は見つかりませんでした
いつか 床子/幸せでない話
mao nakazawa/私の庭
菅原沙妃/ここにいていいよ
西平 麻依/大人になるのは、きっとそれから
渡邊 ひろ子/夜の散歩から
エヒラ ナナエ/愛すべき孤独に
ery:カバーデザイン

【スタッフ】
Produce:西川タイジ (CINEBOY inc./PAPERPAPER)
Book デザイン:近成カズキ (CINEBOY inc./PAPERPAPER)


2018年3月9日
全国の書店・各種通販サイトにて発売予定

先行してAmazonにてご予約を承り中です


発売がいよいよ8日後に迫りましたが、まさかここでこんなお知らせができるようになる日が訪れるとは、そして自分が書いた文章が物質的な形となって誰かの生活の中に溶け込む日が訪れるとはなあ……

もちろん、サイン頼まれたらどこまでもうかがうから!
サインだけと言わず、抱きしめに行くから!(あ、それはいい?)

ぜひぜひ、お気にかけていただけるとうれしいです。
どうぞよろしくお願いいたします!


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ブログ企画【繋】メンバー

ありぱんだの徒然日記

内田祥文のKeep Hope Alive♪

鈴木NG秀典(すずきんぐ)「鈴木NG秀典ーだー。のブログ」

津軽三味線山中信人の朝刊・夕刊~

モリミカのブログ

カズMAXのオフィシャルブログ「アコギロックだましい♪」←お題発案者

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【ヘッダー・本文挿入写真撮影】
かおりやまこし
(2015年9月、東京・表参道にて)

#ブログ #ブログ企画繋 #私がブログを書く理由 #ランニング #でもふり #エッセイ

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