写真を撮られることでなにを得たの?と聞かれたので考えてみた
「こいまゆさんは写真を撮られることでなにを得たの?」
そう聞かれて考えて、たどり着いたことを書いてみようと思います
初めて人柄写心家丸山嘉嗣(まるやまよしつぐ)さんに撮ってもらったのは2019年の5月
そこから何度もつぐさんに写真を撮ってもらってます
そんな2年半の間に、わたしの中でなにが起こっていったのか?
『一歩先の、自分に出会おう』
これがつぐさんの撮影テーマだけど、わたしは未来の自分を撮ってほしいというより
いまのわたしは、どう写る?
それを確認したくて撮ってもらってました
自分のことが好きじゃなくて、苦しくてしんどくてどうにかしたかった
でも、どうにかしたいと思いつつ、こんな自分になりたいって未来は描けなかった
きちんとしてないといけないとか
はしゃいじゃいけないとか
可愛いいなんてキャラじゃないしとか
色気?そんなものどこにもないしとか
本当は自由に振る舞いたかったし
はしゃぎたかったし
可愛がられたかったし
オンナとしての色気も欲しかった
でも、そういうのを求めちゃダメって思ってて、というか、求めて叶わなかったら悲しいから欲しがらないようにしてた気がします
無意識のうちに、傷つきたくなかったから
そんなだから未来の自分をイメージすることもできなかったんだと思います
写真を撮ってもらうようになって、どんな自分でもいいって言ってもらって
求めることを許可してみたり、好きや嫌いの感覚を大事にすることをしてたら
どんどんどんどん表情が変わっていって、なりたかった自分にどんどん近づいていった
そんな写心をみるたびに、自分がしてきたことが間違いじゃなかったって確認して安心もしてたし…
というところまで振り返って、ふと浮かんできたのが
撮られることで、わたしはわたしになっていったんだってこと
去年の春に撮った写心を見たとき、「やっとここまで来れたね」って言葉が自然と出てきました
わたしの中にいるもうひとりのわたしが、「やっとここまで来れたねよかったね」って声をかけてくれた
そんな感覚を覚えたんです
わたしたちって、すべてを持って生まれてきてるし
子どものころは、欲しいものは欲しい、こうしたいああしたいって気持ちを躊躇なく出せてたけど
大人になるにつれて、そのまんま全開だと生きづらくなったりして
自分を守るために感情の感度を下げちゃって、そのうち自分の心が求めてるものとかわかんなくなっちゃって
もともとあった輝きが鈍っていっちゃうんじゃないかな
それが撮影って体験を通じて、自分の感覚を大事にするようになっていったことで
ないものにしてた本当はあったものに気づくことができて、自分を構成しているピースみたいなものが、ぽこんぽこんって胸の真ん中に収まっていった
あるべきとこに収まって本来の自分に還っていったって感覚なんだけど
これ、伝わる?笑
ここまで考えて、さらに浮かんできたことがあります
わたしになっていくってことは、わたしとして生きてくってことで、わたしを大切に生きてたら、自分の心とか魂が喜ぶ方を選んでくと思う
心や魂が喜ぶ方に向かっていったら、そりゃあ輝いていくわけで…
だから、撮られると、美しくなっていくんだ
本来のわたしになっていったら、生きるのが楽になって楽しくなりました
そんな経験をしたから、写真という体験を通じて
そのひとが、そのひととして、輝いて生きていく
そういうひとを増やせたらいい、そのためにシャッターを切ろう
いま、そんなことを思ってます