「枠」の外側にある自分の可能性を見つけてほしい
小池まゆみさん。
以前からインタビューさせていただいている彼女が、2023年、新たな撮影ツアーを開始する。3度目となる今回のテーマは、「枠を越える」。
いったい、枠を超えるとはどんな意味なのか。その奥にあるこいまゆさんの熱い想いに迫った。
ツアー途中から感じていた「もったいない」という想い
昨年の春に「こいまゆフォトセッションツアー」として全国主要都市をめぐる撮影会をスタートした。2022年春夏・秋冬の2シーズンに渡り、それぞれ100名以上の撮影を行ってきた。
前回、一年を通してのテーマは「“ ”」。
あえて空白にすることで、「理由なんかいらない。まずは撮られてみてほしい」という想いを表現した。それによって、本当に初めて写真を撮ることにチャレンジした方もたくさんいたのだという。
起業していたり、なにか表に出る活動をしていたり。そんな明確な理由がないと写真を撮られるなんてできないのでは…。
しかし理由なんかいらないならば一度写真を撮られてみようと思えた女性も多かったのだとか。
実はそんな昨年のツアーの途中から今回のテーマである「枠を超える」というキーワードは頭の中にすでにあったらしい。
「もったいないな」
ふとした瞬間にそう思うことがあったのだという。
たとえば、大阪に住んでいるなら大阪で。
名古屋に住んでいるなら名古屋で。
何度も写真を撮られている人が、ずっと同じ地域で撮られていたり。
たとえば、自分が参加可能な日にちはここだからと日程を優先してしまうあまりに、自分の望む雰囲気とは違う場所を選んでしまっていたり。
申し込まれた撮影と、その人自身から垣間見える願いに「ずれ」を感じることがある。
そうすると、つい、もったいないなと思ってしまう。
会社員だから土日しか無理。
子どもを預けられないからこの日しか無理。
事情はいろいろある。
もちろんそれもよく分かっている。
その事情に都合をつけて、願いを叶えるのは勇気がいることだ。
だからこそ、今回のツアーを貫くテーマを「枠を超える」にしたのだという。
枠を超えるためには、大義名分があったほうがいいときがある。だから撮影が大義名分になるのなら、ぜひとも使ってほしい。
そう思うのは、彼女自身が「枠を越える」体験を通して人生を生きやすくしてきたからだ。
定期的に撮影を受けると決めたことも、枠を超える体験の一つだ。
枠を超える体験をした先に見えたもの
3年前。
そのときは、海で撮影を受けようと思っていた。
すでに撮影にも慣れてきた。自分の今の気持ちとして、海で撮りたい。
撮られたいカメラマンは、彼女の今回のツアーのように日程と撮影場所が先に提示されるシステムだったから、比較的自宅から近い由比ヶ浜を選んだ。
当時はまだフルタイムでクリニックの仕事をしていたので、その日は休みを入れる。
ところが、雨。
撮影は延期になった。
もう一度由比ヶ浜の日程を選んだものの、何度も「写真を撮ってもらうために休みます」とはとても言いにくい。
既に駆け出しのカメラマンとして活動を始めていて、会社にはそれを伝えていたから、「撮影の仕事が入ったので」と、あらたに休みを申請した。
しかし、嘲笑うかのように次の日程も雨が降った。次も、またその次も。
意外に思われるかもしれないが、彼女はいわゆる「繊細さん」気質である。
生まれ持った性質として、人よりも不安を感じる感度が高い。
当たり前に周囲をよく見ていて、変化に敏感。
しかし周囲に気を使いすぎていつのまにかぐったりしてしまう。
だからこそ、周りから何を言われるのか、それが気になる。
「小池は自分勝手に休んでばかりいる」
会社でそう言われるくらいなら、海での撮影は諦めてしまおうか。
すると、カメラマンから「来週の沖縄なら空いてるよ」と連絡が来た。
沖縄!
羽田空港から飛行機で3時間半。
とはいえ、海で撮影したいためだけに南の島へ行くなんて。
仕事はどうする?
何を言われるだろう?
来週なんて飛行機は取れるのか?
さまざまなことが頭を巡った。
ただ、
「なんか、その時は飛び込んでみちゃえ!って思ったんだよね」
と、彼女は笑う。
もちろん、今までならば絶対に断っていたのだ。
仕事がある。これ以上休めない。沖縄なんてゆっくりしに行くものだ。飛行機なんか直前に取るものじゃない。
しかし、そのときは枠を越える気持ちになっていた。それはたまたまかもしれないし、今の現実から無意識に飛び出したいと思っていたからかもしれない。
結局、なんとかなった。
1泊2日。
お昼12時に那覇空港について、翌日の12時に那覇空港を出発。
滞在時間24時間という弾丸旅行だった。
そして、起こるかもしれないと思っていた不安や心配事は何一つ起きなかった。
飛行機のチケットも無事に取れたし、仕事に大きな穴を空けることもなく、上司から嫌味を言われることもなかった。
あえていうならば、沖縄でも結局雨が降ったぐらいである。
沖縄って、そんなに遠くないんだ。
やろうと決めれば、できるんだ。
今までは、出張や予定を決めるのはあらかじめ宿と新幹線のチケットと、乗る電車の時間まできっちり決めていた。
だがこの経験が「一週間前に決めて沖縄に行けたんだし、今回もなんとかなるのでは?」と、ゆるむ体験になった。
たとえ少し遅れても、なんとかなる。
宿を決めてなくても、今はインターネットが普及しているから当日でも宿を取れる。帰るか、それとも泊まるか。その時に自分の気分で決めてもいい。
不安がって自分の頭の中で想像していた起きるか分からないことは、本当に起きるか分からない。むしろ、起きない確率の方が高いことに気が付いた。
行動することにかけていた制限が、自然とはずれていった。
そして気付いたのだ。
「きっと無理だろう」という「枠」を作っているのは、なにより自分自身だったんだ。
親が。子どもが。夫が。会社が。社会が。
自分以外のいろいろなものの影響で、私は制限されている!窮屈だ!
ついそういう風に見てしまうが、実際のところ、「きっとこう言われるから、どうせだめでしょ」と最初からチャレンジせずに諦めているのは自分だったりする。
それって、すごくもったいない。
ほんの少しのチャレンジで、出来るようになることはいっぱいある。
それに、出来たらうれしいし、なにより楽しい。
枠を越えると、見える世界が変わってくる。
ただ、その枠を越えるためには、大なり小なり勇気がいることがほとんどだ。
自分も突然「来週の沖縄(しか空いていない)」と人に言われたからこそチャレンジができた。
勇気を出すために大義名分が必要ならば、撮影を大義名分に使ってくれたらいい。
撮られることをダシに使って欲しい
もちろん、撮られることそのものが自分の枠を超える体験になる人もいる。
たとえば、昨年のツアーでは、「いつか家族で沖縄旅行に行きたいと思っていたから」と、撮影をセットにして家族と沖縄旅行を実現させた人がいた。
ある女性は、毎朝鏡に向かって「かわいい」と自分に言うのが、その日一日がんばる自分へのおまじないだったという。
それが、撮影の最中に、カメラのモニター越しに見た自分は本気でかわいいと思えた。
本当に自分はかわいい。
撮影を通してそれを感じられたのだという。
そんな感想をたくさんもらっている。
そして、そんな感想をもらうたびに、おもわず涙がこみ上げる。
どんな枠でもいい。
えいやっと、越えていきたい自分がいるならば、撮影を「ダシ」に使ってみてほしい。
やりたいことがあるなら、どんなことでもいい。
一緒に叶えよう。
コーチングとの出会い
去年、彼女は50歳になった。
50年を生きて、今が一番楽しいし、今の自分が1番好きだという。
20代の頃、きっと自分は40代になったら死ぬだろうと、漠然と思っていた。
辛くて死にそうだったわけではない。
だが、そんなに楽しくないのに長生きしても仕方がない。
そんな投げやりな気持ちで生きていた。
今にして思えば、当時はとても「しんどい世界」で生きていた。
子どものころから、とにかく許容範囲の狭い「枠」の中で暮らしていた。他の家庭と比べて何か特別な家系だったわけではない。
おそらく、保守的な家だったのだろう。
親や親戚から見た「正しい」世界ではないことをしようとすると、わがままと言われたり、止められたりした。
空気を読める子どもだったがゆえに、長じるにつれて反発するよりも家に馴染むことを無意識に選んだ。
だからこそ、人からどう思われるのか、その「枠」の中に自分が納まっているかどうか過敏になる。
さらに、わがままではない「いい子」でいるために、「役に立つ人間」でいなくてはならない。
こいつは使えないやつだと思われると存在価値がなくなる。
だから失敗するのも怖い。
それらの思考は結局、「正しさ」という狭い枠の外側を許さない日々を過ごすということに繋がった。
自分にも他人にも厳しい。
自分の失敗も他人の失敗も、失敗につながりそうなことすらも許せない。
とにかく自分を含めた全てのものを監視するように毎日を過ごしていた。
結果、世界は軋轢だらけだった。
相手が自分のことを理解してくれるだなんて想像もせず、自分自身も「どうせわかってもらえない」と決めてかかって、誰かを理解しようとはしなかった。
今にして思えば、余裕がなかったのだ。
だが、当然当時は自分に余裕がないことも、余裕の作り方すらも分からず、がむしゃらに生きてきた。
許容することができないから、よくキレていた。
とにかく導火線が短い。
しかし怒り散らしたあとは、怒りの感情を制御できなかった自分に自己嫌悪をする。
怒らなければいい。それは分かっている。
もっと優しい言い方をすればいい。それも分かっている。
でも、できない。
人に何かを指摘するときは「なんでそんなことするの?」と責める言い方しかできなかった。
一番ひどかった時期には、自分が経理として働いていた2階のフロアから、1階に行くとそこのスタッフの空気が途端にピリついたほどだった。
「今日は小池さんイライラしてないかな」
自分の顔色をうかがわれているのが分かる。
空気が悪いことも分かる。
それでも他人を責めてしまう。
そんな自分をさらに責める。
そんな日々にほとほと嫌気がさした。
それが、コーチングを学んだ最大のきっかけだった。
すでにアロマテラピーの講師をしていたから、その売り上げのためにコーチングを学ぼうと決めた。当時、会社にはそう「大義名分」を言っていた。
でも心の奥では、自分自身がどうにか変わりたい。
その助けを求めていた。
結果はといえば、今の彼女を見れば分かるだろう。
怒りっぽい人には全く見えず、いつもくるくると動き回って人のために奔走できる優しさと愛嬌のある女性だ。
一目見て、生き生きと自分を楽しんでいる素敵な人と断じる方が多いに違いない。
コーチングスクールで何が良かったのか。
そう言われると考え方から方法までいろんなものが総合的に良かったし、何より集まっている人たちの人柄もある。
それでもいくつか例をあげてみると、例えば「原因論ではなく、目的論で見てみる」という考え方がある。
会社のスタッフのミスを見て、
ミスしたから怒るのは「原因論」。
怒ることで自分は何を得たいのかを見つめるのが「目的論」。
そうやって、ひとつずつ自分の内側を見つめていくことで、スタッフのミスや相手の行動にフォーカスするのを止めていった。
また、特に印象的に記憶に残っている出来事がある。
「本当はどうしたいのか」を自分に問いかけようとスクールで学んだあとだった。
ある日、車を売ることになった。
数ある買取り会社から、結局4社に見積もりをお願いして、丸1日を使って順番に査定してもらうことにした。
事件が起きたのは3社目だった。
「うちが1番高く買い取れる。次の会社は断ればいい。だからここで決めてくれ」
強引に契約を持ちかけてきた。
このあと最後の査定の約束もある。
一旦帰って欲しいと伝えても、中古車業界で予約がキャンセルになるのは普通のことだからと引かない。
そのとき、頭の中でコーチングスクールの言葉が思い出された。
「私は本当はどうしたいんだろう」
改めて自分に問いかけてみた。
「約束をしたからには、全部ちゃんと聞いた上で公平に決めたい。次の約束をキャンセルする方が気分が悪い。」
それが答えだった。
3社目の買い取り業者には、今帰ってもらって査定が悪くなったとしたらそれでも構わないと、丁寧にお断りをして帰ってもらった。
その時の胸がスッとしたような、清々しい感覚を今でも思い出せる。
自分の思いを尊重できた。
大切なものを守れた。
小さなことかもしれない。
しかし、その小さな出来事が自分にとっては大きな気付きだった。
不思議なことに、一番高い査定を出して契約したのは、最後の4社目だった。
自己中心でいよう!
「自分は本当はどうしたいのか」
この問いかけはとてもパワフルだ。
そして、パワフルだからこそ、それを感じる力を鈍らせている人が多い。
本当はこうしたい。
私にとってこれが大事。
それを表に出してしまうことで、周囲との軋轢を生んでしまったり、自己中心的で自分勝手になってしまうのではと不安に感じる人が多いからだと思う。
でも、自分の想いを伝えることも、自分のやりたいことを叶えることも、周りのことを考えずに好きなことをやるのとは絶対に違う。
今、周りのことをおもんばかれる人は、たとえ自分が好きなことをしたとしても、そのせいで周りが嫌な思いをするならば、きっと幸せは感じられない人たちだ。
だから、自分の幸せも、まわりの幸せも両方考えればいい。
そういう人を、「自分勝手だ」と周りは判断しないだろう。
自己中心的という言葉は、現在あまりよい響きを持って受け取られない。
でも、「己」を中心にすることは、実はいちばん大切なことのはずだ。
まわりのことも考える。でも、自分のことも大切に考える。
周りのことを考え過ぎて自分をおいてきぼりにしてしまうのは、絶対に辛い。
自分の苦手なことを引き受けて疲弊してしまったり、周りの目を気にしすぎて疲れてしまったり。
それは今までの人生で嫌というほどやってきた。
だから自慢ではないが自信をもって言える。
「自己中心でいよう。やりたいことをやろう。だって、やってみたら絶対に楽しい」
なにより、自分を中心に物事を考えてみると、自分と同じように相手にも、得意なことや苦手なこと、そして大事なものがあると想像できるようになる。
そうすると、無理なくお互いにとって「ちょうどいい」を探せるようになっていく。
だから、自分の大切にしたい欲求や願いを我慢せず、枠を越えるチャレンジをしてもらえたら嬉しい。
結局、自分を大切にしはじめたら、心に余裕ができた。
職場でもスタッフに怒ることが激減した。
自分が変わったら、まわりの対応も変わった。
世界が優しくなった。
心に余裕ができたとはいえ、「繊細さん」の性質そのものは無くなることはない。
これからの人生、死ぬまで不安が消えることもないだろう。
けれどその性質すら受け入れて、その上でやりたいことを楽しめたらいい。
そう思えるようになった。
選択肢を増やす
振り返れば、今までの人生も、その時その時でぶつかって、もう無理!ってなりながら、もがいてあがいてチャレンジしてきた。
それがあるからこそ、今をこうして幸せだと笑える。
もちろん自分の正義を押し付けるつもりは、もうない。
「私」が経験したこと
「私」が考えてること
「私」が良しとしてること
それだけが正解ではない。
正解は人の数だけある。
だからこそ、自分の「本当にしたいこと」を大切にしてほしい。
もし可能性が見えていないなら、「こんな考え方もあるらしいよ」とそっとささやくことはできる。
こうするしかない、と考えてしまうとしんどい。
やり方が分からないとしんどい。
だから、そういう時に選択肢が増やせたらいい。
こいまゆはこんなことをしてきたらしい。
それを知って、
「こんな人もいるんだ」
「こんなこともありなんだ」
そういうふうに、参考にしてくれたらいい。
今の時点でAという道を進んでいても、1年後にはBを選んでいたっていい。
人間の選択なんて、変わって当たり前だ。
その都度、「今の自分は、本当はどうしたいのかな?」と、自分で決めていけたらそれでいいと思っている。
2022年のフォトセッションツアーでは、
「理由なんかいらないから撮られてみようよ」と伝えてきた。
今度の2023年は、撮られることで「枠を超えよう」がメッセージだ。
言葉はまるで真逆のようだけれど、大事にしたいところは変わらない。
まずは、やってみよう。
次のステップとして、枠を超えてみよう。
結局、根本は変わらないのだ。
「自分には望みを叶える力がある」「未来を作る力がある」
そのことを実感してもらいたい。
自分自身もどんどん自由になっている。
アロマテラピーの講師から、カメラマンに転身したのもそうだ。
ツールは変われど、伝えたい想いは変わらない。
未来は楽しい。
そう思える自分でいるために、今ある枠を少しだけ飛び越えてみよう。
それを応援することは絶対に得意だ。だから安心して頼って欲しい。
こいまゆと一緒なら、やれるかもしれない。
少しでもそう感じてくれたら、一緒に枠を飛び越えてみよう。
きっと、怖いの先に楽しいが待っている。
こいまゆフォトセッションツアー2023『枠を超える』
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インタビュー・執筆*はたなかさやか
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