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八方塞がり(2022/04/06)

八方塞がりという言葉がある。どこを向いても支障があって手の打ちようがない、みたいな意味だ。

ふと、八方塞がりの「八方」って具体的にどの方向を指しているのだろうと疑問を抱いたので、数えてみることにした。

まず、前後左右で四方向でしょ。あと、上と下で二方向。あとは・・・・・・・・・・・。

あれ、これでもうおしまいでは? 八方塞がりではなく六方塞がりではないか?

おかしいな、と思い辞書を引いてみると、違った。実際の八方向は、東西南北で四方向、北東・北西・南東・南西で四方向で計八方向だった。なるほど、そういうことか。

でもこれだとおかしくないか? だって上と下をガン無視しているではないか。もしかしたら上と下には何か解決策があって、手の打ちようがあるかもしれないではないか。

つまり、八方塞がりという言葉は、物事を二次元で見ている言葉ということになる。上とか下という概念は存在せず、水平面での八方が塞がっているというわけだ。

しかし我々は実際には三次元上で生きている(個人的には二次元上のアニメや漫画・文章の世界の中に浸っていたいのだが)。そのため、この八方塞がりという二次元的な言葉は、我々にとってまったく脅威ではない。なぜなら上と下に行けるからだ。平面上の八方が塞がっていたとしても、上を目指し宇宙の遙か彼方まで行くことが出来るし、下を目指せば石油や温泉を掘り当てて巨万の富を得ることも出来る。なーんだ、手の打ちようはぜんぜん残っているではないか。むしろ上と下にこそ可能性は無限に眠っているとさえ言える。

それは物理的な方向だけではなく、精神的な上と下にも言えるだろう。『上を向いて歩こう』という歌は、物理的な上方向を見るという意味もあるかもしれないが、精神的に上を向くことで心の涙が流れないようにしようじゃないか、という意味もきっと込められている。

天国や地獄もそうだ。天国や地獄は、東西南北の世界には存在せず、おそらく精神的な上や下の世界に存在していることだろう。

突き詰めていけば、大切なことの多くは上や下にあるような気がする。平面上の移動なんか大したことではないのだ。

もっと言えば、別にどの方面が塞がっていたとしてもそれはそれで問題ない。現地点、すなわち自己の中に満足を見いだせていれば、別にどこかを目指す必要もないのだ。むしろ全ての方面を自ら分厚い壁で塞いでしまって、内側の壁を自分好みの壁紙にしたり、憧れのスターのポスターを貼ったり、ペンキで落書きをしたり、彫刻で壁画を刻んだりしてしまえば、塞がれた全ての方面を、自分だけにしか見ることの出来ない魅力的な壁面にすることが出来る。どこか別の場所を目指す暇があるのなら、徹底的に内側に引きこもり、内側の世界を充実させるほうがよっぽど楽しいと思うのだ。

八方塞がり、恐るるに足らず。 

この現実はフィクションです日記

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