見出し画像

別れによる悲しみや感動について(????/02/05)

子供の頃は、友人が引っ越してしまうことに対して絶望的な悲しみがあった。もう二度と会えなくなってしまうと思っていたのだろう。

しかし大人になって、友人が遠くに行くことになっても、あの頃ほどの悲しみはない。それは科学の発展により、ある程度の距離であれば簡単に行くことが出来るし、いつでも連絡をすることは出来るからだろう。別れは、現代では克服出来てしまうのだ。

考えてみると、自分と友人の今いる「場所」はあまり重要な要素ではなくなったのかもしれない。つまり、物理的な距離が悲しみや感動と紐付いている価値観は次第に古くなっているということだ。

古代のアニメーションでは、引っ越してしまう友人が電車に乗り込み、それを見送る主人公がいつまでも電車に向かって手を振り続けるシーンが感動を演出しているが、現代の視聴者はそれを現実と結びつけて楽しんでいるというよりも、フィクションとして、あくまでも作り物として楽しんでいると思うのだ。現実ではあり得ないバトル漫画の必殺技をカッコいいと感じるように、現実ではありえない物理的な距離による一生の別れに感動しているのだ。

では別れが悲しみや感動を全く生まなくなったかと言われば、おそらくそんなことはない。例えば「死」は、今のところ一生の別れとして認識される。

しかし、これも時間の問題なのではないかと思う。物理的な距離、つまり両者の住んでいる地点の違いと人間の爆発的な感情が結びつきづらくなったのならば、両者の生物としての状態、つまり死んでいるか生きているのかの違いと人間の感情の爆発が結びつかなくなってくるのではないか? 

それは死を克服するという方法かもしれないし、生死の違いなど大した違いではないという生物の価値観の転換によるものかもしれない、或いは時間を好きに行き来出来るのであれば、その生物は生きている状態と死んでいる状態を同時に享受していることになり、そこに悲しみや感動は生まなくなるだろう。シュレディンガーの猫は時間を克服することによって実際に作り出すことが出来る。時間を俯瞰的に見れば、全てのものは生きているし同時に死んでいるのだ。

しかし生物の生死に特別な何かを感じることが無い価値観が広く普及した場合、生物は何に感動し、何に悲しみを覚えるのだろうか。

自分の理想と現実の乖離だろうか。たしかにそれは今のところ簡単に埋めることは難しいかもしれないが、果たしてどうだろう。

この現実はフィクションです日記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?