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お城へ To Go (伊賀上野城)

 築城の名手藤堂高虎による高石垣で有名な伊賀上野城(47・三重)です。押印は平成22年3月21日、天守閣にて押しました。統合医療の集まりで、伊勢神宮に集合するまえに大きく遠回りして訪問しました。前日、現在のジャングルカンファレンスにつながる、内輪での定期的な院内カンファレンスで遅くまで、飲んでいたので、二日酔いの状態で、ずいぶんと山深いローカルな近鉄伊賀線にのっての訪問でした。

 今治城で史上初の層塔型の五重天守を建造した藤堂高虎が、伊賀上野へ移動するにあたって今治の天守を解体し、ここへ移築しようと計画していました。
 ところが、その建材を大阪城下に移動したところで、家康より丹波亀山城の天下普請を命じられ、そのまま亀山城にしてしまったといわれています。
 そのため伊賀上野城は新築とすることになったのですが、その建築中に台風により倒壊してしまい、その建築は断念されてしまったという残念な城郭です。以後も、豊臣の脅威が去ったことから天守の必要がなくなったため建造されることなく現在に至るというわけです。

 ただし、高虎に命じられたのは、家康による豊臣包囲網の一環としての城郭ですので、西からの攻撃に対しての強い防御が意識され、天下一と称される高石垣などが建造されました。ちなみにこの城の前城主、筒井氏の時代は、こうした攻守が反転しており、つまり大坂城の出城的な役割として、むしろ大坂城を守る目的であったことから、その目的が逆転した城でもあります。現在も筒井古城として天守台が残っていますが、当然、高虎時代とは大きく場所が移動していることが分かります。

 江戸期には津藩として藤堂氏が継続し、明治に至ります。現在の天守は、地元の名士川崎克が私財を投じて建造したもので、三層三重です。
 高虎はこれよりも大きな五層五ぬ重にしようとしていたのですから、場所からしてもかなり豪勢な城を構想していたんですね。

 現在は伊賀上野は忍者博物館などもあり、忍者の町として売り出しているみたいです。ちなみに松尾芭蕉は、この上野のゆかりのじんぶつであることから忍者説があるわけです。まあ奥の細道を普通に考えても、何らかの密命を帯びている感じはしますけどね。

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【ファセット】ペーパークラフト日本名城シリーズ1/300
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配信元:Wikipedia

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