お城へ To Go (高知城)
内助の功で名高い、山内一豊の居城で現存12天守、高知城(84・高知)です。押印は平成30年12月3日でした。
このお城は学生時代の頃も含めると(保健所実習などでは所長さんに大変お世話になりました)何度も来ているのですが、今回の訪問は「最後の100名城の押印」となりました。太田金山城から始めた100名城のスタンプ押印、何年かかるかと不安と期待で始めた日が思い出されます。この城自体は3回以上来ているのですが、最後の一つとしての押印は感慨無量でした。
が、ここで終わるかと思いきや、終了前に「続100名城」が発表!終わったと思ったら、まだ半分となりました(笑) まだか~と思う反面、終わってしまう淋しさが消え、新たな課題が始まった感じでした。
そのためこの時の訪問は、岡豊城等の四国の続100名城と合わせての訪問となりました。また、この訪問時に「ひろめ市場」など、観光も楽しめたのは良かったです。かつての医局時代の嫌な思い出の地でもありましたので、この100名城完了により、浄化されました(笑)
歴史的には、関ケ原の敗戦による長宗我部氏の所領没収に伴い、山内一豊が入国。当初は浦戸城(現在は坂本龍馬記念館がそびえたっています…)に入城したものの、手狭なことから南北朝期の城跡である大高坂山に築城。地名を「河内山」に改め、さらに「高智山」としたのが、現在の「高知」のもととなったようです。
かつて長宗我部元親もこの地に築城したのですが、水はけの悪さや、水軍や海上交通の増強を目的に浦戸城へ移っていったという経緯があり、平和な時代に移行しつつあった山内氏とは状況が異なりました。山内時代になり、水軍などの整備よりは、土佐一国の交通の要衝としての機能に重点を置いたのでしょう。
また山内としては、前任者のである長宗我部の影響を少しでも減らしたいという思いも少なくないでしょうね。江戸期の土佐における上士と郷士の対立などを考えると、これも納得です。
天守はかつての掛川城を模したということから、掛川城の復元の際はこの天守がモデルとなったようで、この天守と本丸の建物がほぼ完全に現存しているのは、全国でも唯一です。
それでも築城当初のものではなく、1727年の大火により、追手門を除くすべての建造物が焼失してしまい、1753年にようやく当初の形に復元されました。ただそれですらも、創建当初の復元が許されたのは喜ぶべきものの、新式天守をを建造できなかったとみることもでき、幕府への配慮であったとも考えられています。
山内氏は明治まで存続し、土佐藩は明治維新の立役者として活躍するわけですが、こうした新時代への地ならしとして、深謀遠慮のもとに長宗我部ゆかりの家臣らが徹底的に排除されたとみることもできそうです。
高知県はとにかく竜馬推し一本なのですが、なぜ、山内が領有し、そして徹底した弾圧が行われたかという、少しひいた視点でも再考するべきところがたくさんあるように思います。長宗我部の岡豊城と合わせて訪問すると感慨深いものがあります。
今回はレンタカーで龍馬空港に向かったのですが、かつて医局時代ははバスで行ったので、その道のりがとても長く感じられたのが思い出されます。
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高知城を歩く
岩崎 義郎 高知新聞社 2015-09T
配信元:裏辺研究所
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