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呪詛と機械

生きている意味を特段感じないまま三十年余りが経過したが、このように考えるのは、秋田、乃至は東北人の気質に由来するものではないかと感じている。辺境の地、みちのくで生まれ育った者は、厳しい自然環境と前時代的因習の中で暮らす宿命にあり、郷里から逃げ出し、自身の過去を消さない限りは安寧の日々を送るはできない。運良く逃げ出す事が出来ても、記憶の中の残像が自身を苦しめる事が度々あり、勉励・努力の類も水泡に帰す。左様ならばと、この世の一切は皆全て空であるという前提に立ち、仏教的世界観の中に身を置き、心静かに精進の日々を送る事で、どうにか生きながらえる事は出来る。市場の内外で死線を潜る経験を重ねる内、今や私は、あらゆる命の生成消滅や祝祭に関して何らの感動を憶えず、感涙する事もなくなった。資本主義社会のゲームのルールや商慣習に従う事も、そこから逸脱する事も、別に私にとっては有意なものでない。前述の社会が脱皮し、社会主義を経て共産主義へと至るという見果てぬ夢さえ、私は追う必要が無く、絶え間なく流れつつも停滞した時の中で、涅槃寂静の日が来るのを待ち望むのみである。人の口から語られた呪詛も、人知を駆使して創り出した機械も、私を妨げる効力を持たない。いま私は、都の外れ、足立の庵で、世間の喧騒を傍目に、ただ只管般若心経の写経をし、死出の旅までの暇を潰している。

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