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日本語教育実践と日本語教育学と教育企画 ─ 日本語教育の変革のために何が必要なのか

 上の3つの関係について論じたいと思います。関心は、日本語教育実践の変革です。
 こうしてぼくが記事を書いているときでも、現行の日本語教育として、現行のカリキュラムと教材の下に、日本語という言語の性質や第二言語の習得や教育についての現在の教師の現行の考え方に基づいて、指導プランを作成し、実際の授業では即興も交えながら具体的な実践が行われています。以上及び以下で言う「現行の」というのは英語ではconventionalで、「従来型の」や「慣習として認められて」などの意味となります。

1.日本語教育のステータス・クオ
 教師養成課程の役割は、現行の日本語教育の良し悪しにかかわらず取りあえずは、こうした現行の日本語教育を将来に担う教師を育成することです。そのためには、現在現役として日本語教育に従事している先生たちが共通して概ね身につけている日本語教育に関する基盤的知識と、それを多かれ少なかれ参照しての概ね共通的な実践技量を身につけなければなりません。実は、現在現役の先生たちの大部分は、2000年に文化庁から出された養成課程の枠組みでの内容を修得するか、あるいは同内容を反映した日本語教育能力試験に合格するかして、日本語学校の先生等になっています。そして、2018年に文化庁から出た「日本語教育人材の養成・研修の在り方について」も基本的に2000年のものを踏襲していますので、これまでも、現在も、養成課程では概ね同じような内容が教えられていることとなります。
 このように現在の先生たちと将来の先生たちが同じような内容を修得して日本語教育を担うのであれば、現行の日本語教育は変わることなく今後も続くこととなります。そして、現行の先生たちの「大変さ」や「うまくいかず成果が出ない感」も現行の日本語教育の一部として続きます。現在の養成課程では、いわゆるコミュニケーション中心の方法や自律的学習などもたいてい教えられます。また、表現活動の日本語教育に触れる養成課程科目も一部で行われています。しかし、そうした「新しい」考え方や方法やアプローチを学んだとしても、教師として教育現場に入ると、学んだ「新しい」ことは「現行の日本語教育」にかき消されてしまって、ただの現行随順の日本語教師になるか、何とか教育を改善・変革したいと「現行」の中でもがく教師になるか、しかありません。こうした「現行の」は、社会学などではstatus quo(ステータス・クオ)と言います。「しっかりと根が張ってなかなか変わらない/変えられない現状」というような感じです。

2.新たなアイデアとステータス・クオを打開する教育変革
 この根深いステータス・クオは今後変わるでしょうか。あるいは、どのようにすれば変えることができるのでしょうか。
 多くの日本語教育の専門家(大学のセンセ!?)は、第二言語教育の新たな見方(plurilingualism、translanguagingなど)や、言語や言語の学びについての新たな見方(対話原理、状況的学習論など)や、新たな教育方法(TBLT、CLILなど)を研究し日本語教育の世界に普及することが、やがて!?日本語教育の変革につながるだろうと考えて、研究活動や出版活動を続けています。筆者もその一人ではあります。そのような研究をし、現役の日本語の先生に向けてそのような発信をしたり、教員養成課程でそのような新しい見方や教育方法を紹介したりすることは重要です。それは、教師に新たなアイデアを提供し、日本語教育をより広い視野で柔軟に「ふところ深く」考えられるように教師や将来の教師の「頭」を豊かで柔らかくするでしょう。しかし、それで授業が変わるでしょうか。日本語教育を変革できるでしょうか。たぶん、若干の授業改善はできるでしょう。しかし、日本語教育を変革することはできないでしょう。

3.教育企画
 教育というものには、企画というものがあります。入門から上級までを1つのカリキュラムと呼び、基礎段階、中級段階、上級段階などを各々コースと呼ぶとすれば、カリキュラムでは、その教育全体の理念やねらい、そして総体としての教育目標や教育内容が示されます。そして、そうしたカリキュラムのねらい等の下に各コースの目標と内容と下位目標を設定してコースが企画され、その後に、段階的にコースの内容を習得し目標が段階的に達成されるように学習や教授(teaching)を支援し促進するべく教材が制作され(←こういう教材は学習・教授リソースと呼ぶのがいいのかもしれません)、実際の学習と教授に賦されます。このように教育企画と教材制作が行われていれば、教師は、教育企画で示されている目標や内容を達成するべく、学習と教授を支援する教材(学習・教授リソース)を活用して、創意工夫をし、目標とつながった即興も交えながら教育を実践することができます。これが、本来の教育企画であり、教育企画と教材と教師による教育実践の関係です。

4.語学教育における教育企画あるいは教材
 しかし、語学教育の場合は、教育企画がその理念から始まってねらいなども詳しく論じられて目標や内容も詳しく記述されるということがあまりなく、結局のところ、全体的な教育目標と教育内容も、下位の教育目標と教育内容も「教科書から逆算する/読み取る」というようなことになっています。そのような状況ですので、授業を担う教師の関心? スタンス? 使命? は、自身にあてがわれた教科書の該当部分を「どう教えるか」(その「ノルマ」の下にどのような授業をするか)というところに帰着してしまいます。端的に言うと、教育企画がしっかりと提示されていないと、教師は「教科書の牢獄に閉じ込められる」ということです。そして、そのように牢獄に閉じ込められている状況では、養成課程や教師研修やセミナーなどで新たなアイデアを聞いて知ったとしてもそれらを十分に実践に活かすことはできません。

5.日本語教育の革新のための教育企画マインド
 日本語教育を革新するためには、教育企画マインド(教育企画が必要だという考え)が必要なのだと思います。そして、以下のような教育企画の提案と実際の教材(学習・教授リソース)と具体的な教育実践が必要だと思います。

1.カリキュラムあるいは長い目で見た日本語ユーザーとしての学習者の日本語生活を見通した教育構想
2.当該の教育構想における日本語の習得と習得支援(教育)の考え方や理念の表明
3.1のような最終のねらい(telos)の下での各段階の教育企画
4.日本語上達の経路を反映した、達成可能な一連のユニットの企画
5.各ユニットで、教師の創意工夫を阻害することのない、学習や教授を支援し促進する教材(学習・教授リソース)

 教育企画マインドの下に、このような教育企画と教材(学習・教授リソース)が提案されて、そして、その趣旨を適切に解釈し評価できる高度に専門的な教師がいてこそ、本当の授業実践の改革、ひいては教育改革ができるのだろうと思います。
 そして、その背後に2で論じたような新たなアイデアがあり、高度に専門的な日本語教育者がそれを専門教養として吸収して自らの「心」と「身体」とすることで、そうした教育改革が成し遂げられ得るのだと思います。

 要は、高度な専門教養とともに、教育企画マインドが必要だ、という話でした。


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