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人文学者と人文科学者(20220908)

Twitterの足し算です。20220908。

 論証=物事の道理を証拠をあげて説明もしくは証明すること。また、与えられた判断の真理性を、理由をあげて証明すること(日本国語大辞典)。実践者の関心に応える研究は、(いわゆる科学的な)実証よりも論証のほうが重要では。そして、関心の現象を総体として捉えて、徐々に細部に行く論証。

 元来科学的な研究は、当該のテーマについて真理を探究しようとする科学的な同輩(colleague)に向けて書かれる。それはそれとして独自の活動で、そういうもの(オタク的活動!←敬意を込めて)として進めればいい。何らかの実践に関与しようとする研究は出発点からそういうものではないのだろう。

 成熟した科学者はそういうことを自覚して、一般の社会的実践や問題に関与しない自身の活動に、うしろめたさや羞恥心を感じている。またorあるいは、自身の研究の限界を自覚した上で、実践や問題に対して「保留付き」で話す。中途半端な科学者は、どうかすると実践者に向けて妙に威張って話す。「中途半端な科学者」というのは、論理矛盾のような気がしますが。「中途半端な」人は「科学者」とも言えない。

 科学者と人文学者は違うと思う。人文学者は人間のことを考究する人で、その意味でふつーの人とも、人を相手に仕事をする専門職とも、教育の実践者などとも、同じ土俵で対話をすることができる。そして、人文学者とそうした人々との対話は、相互豊富化や、協働的な共同豊富化をするでしょう。

 人文学者と人文科学者も違うと思っています。人文科学者は、例えば「『純粋理性批判』における形而上学の残滓」というような論文を書くカント研究者。人文学者は、哲学・思想・科学を総覧した上でさまざまなテーマについて考究する人。日本の哲学・思想研究においては前者は「傍流」のようです。

 端的に言うと、人文(人間や人間が「創造した」社会や現象一般)に関心がある場合でも、特定の研究領域(discipline)に属してしまうと、特定の分野の(人文)科学者になってしまうようです。


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