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日本語教育における「間口」論

これも、Twitterの足し算ですが、言葉を補足しています。

 間口は、家の通りに面している面。そこから、何かをするときのやり方の視野に言及して「間口が広い」とか「間口が狭い」と言う。ぼくがずっと「警告」しているのは、どうもこの「間口」の問題のようです。*以下、「日本語教育」の代わりに「日本語指導」という言葉を使っている。

 間口は、(1)教育企画、(2)教材・リソース、(3)ユニットの教育、(4)個々の授業のいずれにも関わっている。それは、日本語指導を見通すときの視野の広さor狭さ。(1)で、教育内容を、言語事項の教育、さらには文型・文法の教育というふうに間口を設定してしまうと「一巻の終わり」で、(2)以降も間口が狭くなる。

 そのように「即物主義」で日本語指導を考えると、その「物」に指導が集中してしまうのは当たり前。まずは、「物」(言語事項や文型・文法)から離脱しなければならない。離脱の方法は、2つ。(1)実際的な言語活動に行くか、(2)話題の表現活動に行くか、である。いずれも、言語活動を「主」、「物」を「従」にすることができる。

 「物」から離脱した後の次の問題は、「従」を適正に扱うことができるかである。(1)の実際的な言語活動に行くと、「従」である「物」を適正に扱うのは困難。多分、無理です。一方、(2)の話題の表現活動なら、巧みに工夫すれば!、「物」を適正に織り込んで、一定のシステムを持つ「物」を系統的で体系的に習得させることができる。

 活動を「主」、「物」(言語事項or文型・文法)を「従」にしなければならないというのは、早くも1983年にWiddowsonが言っている。(Widdowson(1983)を知っている人、読んでいる人は稀。) こうすると、日本語(言語)指導の間口が広くなって、学習者を活動に「わたし」として従事する当事者にすることができ、言語活動に従事する中で言語を学び取ろうとする学び手にして、言語を本来の形で扱うことができて、本来の形で習得することができる。しかし、・・・。

 これまで「物」を教えることを中心に仕事をしてきた日本語指導者(日本語教師!)は、「『物』の指導ではなく活動をしてください。そして、活動を運営し、活動に学生が従事する中で言語の習得の促進≒「物」の習得の促進をしてください」と言われると、面食らう。「これまで、言語事項を取り上げて言語事項を教えることこそが日本語指導としてやってきたし、そのためには教える言語事項を与えてもらわないと困る!」ということになる。

 一時期、「日本語を教えない日本語教育」というのがはやった。これ、2つ意味がある。1.「日本語なんて教えなくていいんだ!」、2.「日本語を直接に教えはしないけど、日本語は上達させる、です。1は日本語教育ではなくなる。2はOK。ぼくが言っているのは2。

 「物」を手放すことは勇気が要ります。「物」を教えることはしなくなるし、そうなると言語を教えている、言語の習得を支援しているというふうに見えないから。さらに言うと、「物」を手放したら、活動の中で日本語を習得させるということに必ず成功しなければならなくなります。そうでないと、「あんた、なにやってんの!」となる。

 間口を拡げて、「物」を手放す。そして、日本語習得を成功させる。それが、真にプロフェッショナルな日本語指導者に要請されていることです。それは、これまでの日本語教師が知らなかった「荒野」をめざすことです。「青年は、荒野をめざす!」、「Boys/girls be ambitious!」。

 おまけで、付言。教育企画というのは、日本語が上達していく経路を「仮説」として敷設することです。そして、その「仮説」に沿って実際に教育を実践してみて、その「仮説」を検証する。学生たちが首尾よく日本語が上達できたら、その「仮説」は検証されたことになる。教育企画はそのようにするべき!

 最後に、最初の「警告」に戻ると。ぼくの研究は、言語を中心としてコミュニケーション、自己、現実、文化などを、心理学、社会学、人類学、哲学、生物学、記号論などでの研究を参照して考究すること。言語研究以外の分野で言語がどのように語られているかを知ることで、言語そのものを再検討することできる。そんな作業をすると言語教育者がいかに偏狭に言語を捉えているかがわかる。そして、そんな素養を身につけると、言語教育を企画・立案するときのスタンスが変わる。間口は、広くならざるを得ない。

 日本語教師、日本語教育者の知的資産としてそんな素養が普及し共有されないと、日本語教育は相変わらず「無教養」状態となる。日本語教師の資格化関係の法律が一昨日(2023年5月26日)成立したが、日本語教員の養成課程の内容や国家試験の内容は、これまで、つまり過去の日本語教育の「知的伝統」に基づいて用意されるので、間口が拡がるような内容が入る見込みはない。人文学的教養のない人文学方面の専門職なんてあり得ないんですがねえ。せめて、大学での養成課程には、そんな人文学的教養を入れてほしい。

蛇足。そんな広い間口を設定した上で、日本語教師ではなく日本語教育者(日本語教育の専門家)に求められるのは、企画力、計画力、リソース作成・LMS開発力、そしてコース運営力。中でも、トップの企画力が圧倒的に重要で、それ以降は「優れた企画」に従属するもの。


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