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日本語授業は改革・革新できない!


日本語授業の改革・革新はできません。
 日本語授業の「改善」は相応にできる。しかし、授業の「改革・革新」は、そもそもできない。なぜなら、日本語授業は、その授業が置かれているアプローチやカリキュラムや教材などの要因に常に/いつも、多かれ少なかれ「拘束」されるからです。文型・文法積み上げ方式のアプローチに基づくカリキュラムや教材はそうした「拘束」が強い例です。つまり、「この文型・文法をしっかり教えて習得させろ!」という「強い拘束」があり、教師はその「拘束」から逃れるのがむずかしいです。ですから、現在のパラダイム/アプローチの下では「日本語授業の「改善」は相応にできる。しかし、授業の「改革・革新」は、そもそもできない」となります。現在のパラダイム/アプローチから解放されないと、決して授業の「改革・革新」はできません。別の言い方をすると、授業の改革・革新は教育の改革・革新とともにある!
表現活動の日本語教育は教師を「拘束」するか
 では、教育の改革・革新の提案としての表現活動の日本語教育は教師を「拘束」することはないのか?! 「ない」と思います。あるとすれば、コースのねらいとして、文型・文法などの知識を習得させるのではなく、実用的なコミュニケーション力を習得させるのでもなく、むしろ表現活動の技量を身につけることを中心に置いていることくらいです。「文型・文法を教えたい!」、「実用的なコミュニケーションを教えるべきではないか!?」と思っている先生には、それは「拘束」に映るかもしれません。しかし、それは「拘束」ではありません。「日本語を堅実・着実に上達させるためには、何をコースの中心に据えるのが適当か」の判断の問題です。表現活動の日本語教育では、(a)文型・文法などは言葉遣いの習得に「付いてくる/随伴する」、(b​)実用的なコミュニケーション力の指導は表現活動の日本語教育で適度に日本語ができるようになってから随時に「追加」して指導するのが有効、というふうに日本語上達の「全体」を眺望しています。文型・文法派や実用的コミュニケーション派は、日本語上達の「全体」をどのように眺望しているのでしょうか?
 一方で、表現活動の日本語教育では教師に対して「各ユニットのテーマについて、ユニットの終了時に、各々の学生が話す、聞いて理解する、会話をすることができるようにしっかりと指導してください」と強く要請します。これは「拘束」でしょうか? いいえ、これは「拘束」ではなく、お仕事・お役目の「方向づけ」です。そして、それは、達成不可能なお仕事・お役目ではありません。フツーにうまくやれば達成可能です。そして、その「ユニットの終了時」に至るルートや方法は、実際に授業を実践する教師(たち)に任されています。つまり、端的に言うと、表現活動の日本語教育では、日本語が堅実・着実に上達する経路を設定して、その経路を学生たちが順調に前進できるように「いい仕事をしてね! やり方はご自由に」と教師に言っているだけです。これは、合理的な仕事を教師に委託しているだけです。これは「拘束」でも何でもありません。
3.改革・革新の「勇気」
 2のようなことを考えると、結局、現在の日本語の教師に「期待されること」は、改革・革新をしよう!という「勇気」であるように思います。多くの日本語の先生は、いい代替案(自己表現の日本語教育のような!?)を知ったとしても、自分が改革・革新の先頭に立つことを「避けて」います。
 勇気! ゆうき! ユウキ!

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