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科学と哲学

Twitterの足し算です。

 学校の先生はそれぞれの教科の各学年、各学期の「ノルマ」をいかに有効に教えるかに関心が集中する。学習指導要領、あてがわれた検定教科書、受験があるのでやむを得ない。今年度から認定日本語教育機関ができてくるが、日本語教育の場合は学習指導要領のようなものはない。
 そもそも言語は、学校の各教科の学習指導要領のように教科の論理構造に基づいて教える内容を整理して、その体系に基づいて教えれば習得できるというものではない。言語教育をカリキュラム化するのはとても困難。実際の習得支援の実践を通して言語の習得/発達を促進できるカリキュラムの策定が課題。
 そのことは、言語現象をめぐる科学的知見をいくら重ねてもできない。むしろ(1)文化歴史的な産物である人間の特性やそれと言語との関係、人格とは何でそれはいかに成り立つか、現実とは何でそれはいかに成り立つか、などをめぐる哲学的思考と、(2)経験に基づく言語(日本語)発達の概略的な経路と、(3)それらを踏まえた習得支援の方略が必要。
 そして、最後は、先に言ったような実際の習得支援の実践を通して言語の習得/発達の促進を豊かにそして有効にできるような戦略的な教育企画。そして、優れた戦略的な教育企画は、習得支援者のポテンシャルを引き出す。
 伝統ある文学部に所属する先生などを除いて、大学の先生は文化系の先生でも科学的研究に「加担」している。そして、科学的研究に加担していることを自覚していない先生もいる。学問の基礎としての哲学を学ぶこと、哲学によって科学を相対化することが必要。さらに、哲学によって、哲学も相対化される。
 日本語教育学を標榜する大学の先生は、のほほんと科学的研究に加担、科学的アプローチに「擬態的に」依拠している場合ではないのではないか。日本語の習得と習得支援の原理を樹立するための基盤となる哲学的思考を形成しなければならないのではないか。
 そして、教師養成課程においてもそのようなオリエンテーションの育成しておかなければならないのではないか。優れた日本語教育実践の創造の基盤は2つ。教師のポテンシャルを引き出す優れた教育企画と、それに応え得る人間、言語、人格、現実などについての哲学的基盤のある教師です。
 いずれも、むずかしそうに思えますが、そういうこと及びそういうオリエンテーションが普及していないからむずかしいだけで、それほどむずかしいことではありません。今、日本語教師がしていることや、養成講座で教えていることのほうが、曖昧模糊の上の秘術的な日本語教育だと思う。
 

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