2022年6月号羅針盤 第二言語教育の「常識」 ─ 基礎日本語教育を考える(10)
この連載もいよいよ最終回となりました。イントロダクションを1回書いて、その後9編の記事を書きました。今回は最終回ということで「従来の日本語教育から表現活動の日本語教育への移行」というテーマで書きます。
前口上では、以下のように書きました。
つまり、ややこしい理論や理論から演繹した原理ではなく、第二言語教育あるいは日本語教育というものを普通に、ごく常識的に考えてみましょうという趣旨でした。そして、以下のような目次を提示しました。
ざっとレビューしつつ、若干のコメントを書きます。
1では、教育あるいは少なくとも正式な言語教育というのは、目的を定めて教師集団が協働してそれを達成するという営みなので、当然、慎重にそして合理的に検討された教育の企画が必要でしょうということを主張しました。そして、その企画は、言語の習得と習得支援に洞察力を有するプロフェッショナルな教師を縛るのではなく、むしろ教師のプロフェッショナルな仕事を促進しそれと協調して教育成果を上げることができる精妙な企画でなければなりません。これまでの日本語教育では、ニーズ分析とかコースデザインとか言いながら、結局教育の企画が明示的に提示されることなく、ただ「活用法不明の」教材や教科書が制作されて、それが現場教師に手渡されていました。協調するべきものが切り離されてしまい、「教育企画のない教科書」と「教科書と教育実践の断絶」ということが起こっていました。これでは、優れた教育実践を創造できるはずがありません。
2では、第二言語教育に与えられた課題、あるいは責務について、改めて検討しました。課題あるいは責務は、言うまでもなく学習者において日本語を上達させることでしょう。それが、入門・初級から中級前半くらいまでの現行の多くの日本語教育では、文型・文法を中心とした言語事項の教授と習得に矮小化されています。2の2-2から2-4では、これまでの言語事項の知識やその操作能力としての言語技能という見方とは異なる、学習者における向上していく能力の捉え方と、それを伸ばすための「当然の」方略について論じました。
続く3では、趣を変えて、音声指導と書記日本語の指導についての良識のある常識的な話をしました。音声指導に関しては、ごく当たり前の常識さえ多くの日本語の先生の認識するところになっておらず、そのために、きわめて当たり前のごく簡単な指導で、そして有効な指導がほとんど行われていません。そんな常識と有効な指導について論じました。また、書記日本語の指導をめぐっては、目をおおうほどの非常識及び非常識な指導があまりにもまん延していると思います。ぜひ、3-3や3-4をもう一度ご覧ください。
4では、1で論じた精妙で、企画・教材と実践する教師が協調できる教育企画の指針を論じました。日本語教育というのがプロフェッショナルな仕事であるなら、そこで論じられている視点は当然のことだと思いますが、残念ながら共有されていないし、それゆえに実行もされていません。
5では、学習者も含めた教育における協調の話をしました。教育企画、リソース(教材)、学習者、教授者という4つの要因が組織的に協調してこそ、企画された教育のゴールは達成されます。
最後の6では、評価のことを書きました。一般に出回っている評価の参考書等は実際に教育現場で仕事をする教師の関心や実用に少しも応えてくれないと思います。6を見ていただければ、短いですが本来評価がどうあるべきかがわかると思います。
以上、レビューをしました。そして、表現活動の日本語教育の教育構想と表現活動の日本語教育を支える教材(NEJとNIJ)はすでに公表されています。それらは、この連載で論じたことを新しい「常識」として、構想し、制作されたものです。そして、その「常識」が理論に支えられていることは、本(『新次元の日本語教育の理論と企画と実践』)で示しています。つまり、この連載で論じた新しい「常識」の上での、新たな日本語教育の「お膳立て」はすでにできているのです。
新たな日本語教育の「お膳立て」はその価値がわかる先生たちを待っています。あるいは、「お膳立て」の価値がはっきりとはわからなくても、勇気をもって飛び込んできてくれる勇敢な先生を待っています。この「お膳立て」の本当の価値は、このお膳を実際に食してみて初めてわかるものなのかもしれません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?