双極性障害におけるリラクゼーションと呼吸
chatGPT-4に様々な相談をするうちに、以前と全くの別分野の相談であるにも関わらず、同じ類いのアドバイスを受けることが何度もあった。
私が多角的にGPTに対してあらゆる悩みを相談していたのは、まさにこれが狙いだった。
GPTに対して単純に双極性障害対策や部分的な自分の改善点を尋ねても、それは私が書いた短い文章の一時的なやり取りから推測される一般的な解答しか返ってこない。これではGoogle検索を行うのとさほど変わらない結果になる。
しかし、私の思想や価値観、認識している癖や世間話から宇宙の話に至るまで多岐にわたって会話を繰り返し、分析させる。
その結果、全く別の話題でも同じアドバイスが返ってくる場合、それは私にとってとてもパーソナライズされたアドバイスと言える。
前置きが長くなったが、そのうちの一つが呼吸やリラクゼーション不足についてだった。
呼吸について
ChatGPT-4によれば健全な呼吸は3〜5秒で1呼吸ということだった。
1呼吸というのは吸って吐くことを意味している。
ところが私は1呼吸が1〜2秒と短く、かなり浅い呼吸をしていると言える。
私の心拍数は100〜110前後と平均からすれば高い数値だ。
何度か過去に循環器内科で精密検査をしてもらったが、いずれも異常は見つからなかった。
(余談だが流石に心拍数が高いと感じるので再度精密検査をするつもりだ)
呼吸と心拍数
何故、私の呼吸が浅いのかについてはわからない。
双極性障害の病状がそうさせたのか、日常的に間違った習慣がついてしまったのか、それとも身体的な異常なのか、現段階で原因の特定はできていない。
いずれにせよ心拍数と呼吸は親密な関係にある。
私は5秒程度かけてなるべくゆっくり深く呼吸をすることを意識した。
人の習慣はそう簡単に変えることはできない。
特に呼吸のような生きていく上で基本的な動作を改善するほどの意識改革には強いパワーが必要だ。
しかし、それでも私は気がつく限り呼吸のスピードを落とすようにした。
結果として呼吸を落としている時間帯は心拍数は89程度まで落ち着き、心のザワつきが少し緩和された。
精神疾患と心拍数には深い結びつきがあると思う。
心が比較的健康な状態であったとしても、特に理由なく心拍数が高くなると私たちはこれを緊張状態のように錯覚し、心の状態が不安や焦りといったネガティブなものへ移行する。
私の場合そういった簡単なトリガーで躁鬱が入れ替わったり強まったりする。
心拍数、つまり呼吸は心の安定をもたらす大切な習慣なのだ。
むしろ通常ではない早い呼吸をすることによって心の不安定をもたらす注意すべきひとつの習慣ともいえる。
リラクゼーションについて
思い返せば私はリラックスというものを意識した事が無かった。
勿論キャンプや温泉、公園での散歩などリラクゼーションと結びつきの強いレジャーを楽しんだことは何度かある。
これはADHDの症状のひとつでもあるが、ひとつの場所でじっとしていられない私にとって風呂や公園といったリラクゼーションの場は少し退屈で、それに伴った別のお楽しみ……例えば食事やお酒などを楽しむことを主体に考えていた。
躁は疲れ知らず
双極性障害1型患者である私は躁状態がベースである事が多い。
躁状態では基本的には気分が高揚してエネルギーに溢れているので疲れないと錯覚する。
休息することの重要性について深く考えてこなかった起因はここにあると思う。
参考までに私が健全な体調("躁鬱0"〜"躁1"の間)を保つ時に、どの程度疲れないか例を述べよう。
2016年、私は一日も欠かさず新曲のBGMを自身のwebサイト(魔王魂)とYouTubeに365日続けて動画付きでアップロードした。
しかも私は本業がプロの作曲家なので、朝から夕方までは本業としての作曲依頼をこなし、終業後に魔王魂の新曲を書いていたのだ。
つまり、私は実質的にほぼ毎日2曲以上の新曲を書いていたということになる。
"躁1"の状態を一生保つことができるなら、休憩は不要だと考えるかもしれない。
しかし、この"躁1"の状態で蓄積した見えない疲労の代償は、"躁1"から別のフェーズに移行した時、特に鬱期に一度に訪れる。
いや、さらに言えば、この見えない疲労こそが"躁1"以外のフェーズを引き起こすトリガーとなっているのかもしれない。
既に取り入れていた対策
リラクゼーションの一環として、私は既にマントラ瞑想を双極性障害の治療法として取り入れていた。
じっとしていられないADHDの症状と瞑想の相性は悪かったが、一定の効果はあった。
マントラ瞑想を簡単に説明すると坐禅を組み、目を閉じて心の中でマントラ(ある特定のワード。唱えるワードは何でも良い)を繰り返し唱える。
同じワードを繰り返し脳内で唱えることにより、脳は退屈を感じて思考(雑念)を始める。
それらの雑念を全て手放すことによって雑念が消えていきスッキリした脳の状態へと移行する。
しかし、マントラ瞑想を毎日継続することは私のその日の体調に左右される部分も多く難しいと感じた。
特に鬱で起き上がれないような状態の日にわざわざ坐禅を組んでマントラを唱えて瞑想しようとはとても思えなかった。
リラクゼーションについて考え直す
今回、自分の病気と向き合った時に以前は対処のひとつの手段としてしか見ていなかったリラクゼーションについて改めて考え直してみた。
リラクゼーションは本来、日常生活の中の楽しみの一部であり、生活そのものの一部であるべきだと私は考えた。
銭湯でリフレッシュ
そこで私は仕事が終わってから定期的に隣市にある評判の良い天然湯の銭湯に通うことにした。
既にリラクゼーションの場として銭湯を利用している健常な方からすれば何を大袈裟なと思われるかもしれない。
しかし、私にとってはリラクゼーションとしての銭湯は全くの未体験ゾーンなのだ。
これまでの私にとって湯船は体を洗う時間に、寒い思いをしない為に体を温める場所にすぎなかった。湯船に浸かる時間も1分程度だったと思う。
しかし私は湯船に浸かると……ここで真剣な文体で書くのがちょっとばかばかしく感じてしまうが、私が伝えたかったのは単に銭湯でリラクゼーションを意識して入浴した経験が最高に気持ちよかったということだ。
私は1時間以上、半身浴やサウナを繰り返し、なるべく何も思考せずこのリラクゼーションの時間を楽しんだ。
瞑想をした経験から、私はこの『何も思考せずに』という状態が重要だと考えていた。
双極性障害は次から次にアイデアや思考、メロディ、反省すべきこと、妄想、雑念が溢れ湧いてくる。
湧いてきたものが素敵なアイデアだった場合、それを実践する為に行動に移りたくなり落ち着きがなくなる。
湧いてきたものがネガティブだった場合はそれに囚われて心が苦しくなる。
頭に何かが浮かべば内容に関わらずその分だけ脳が疲労するのだ。
私は湯船で呼吸瞑想(呼吸に集中する瞑想)を行いながら、なるべく思考しないように努めた。
ADHDなのでやはり落ち着きがないのだが、2種の湯船とサウナを行ったり来たりしながら、私はなるべく無心状態で休息した。
銭湯でのリラクゼーション体験の結果
銭湯を出た後、私は2つのことに気がついた。
その1つ目は心の重心が下がっていることだ。心の重心という表現が的確かはわからないが、フワフワと宙に浮かびザワザワと不安定だった心がずっしりと心臓の下あたりに落ち着いている感覚を得た。これはマントラ瞑想が成功した時に近い現象だ。
2つ目は、銭湯でのリラクゼーション体験がマントラ瞑想と似た結果を得ることに成功しながらも、その体験がとても楽しかったということだ。
もちろんマントラ瞑想も心の安らぎを得れるリラクゼーションなので、もっと訓練を積めばもっと楽しめたかもしれない。
だが、訓練と書いてしまったように、私にはまだマントラ瞑想を本質的なリラクゼーションとして楽しむことはできなかった。
この銭湯での経験はとても楽しくてある種のエンターテイメントのようにも感じ取れた。
これは『日常の中の楽しみの要素のひとつ』を満たしたリラクゼーションになり得ると感じた。
風呂に入って休んだだけの話を何を大袈裟に……とは自分でも思う。
しかし、私にとってリラクゼーションはそれほど縁遠いものだった。
その欠如が心の疲労を蓄積させ、双極性障害を悪化させている一因である可能性が高いと私は感じている。
健常者から見れば当たり前と思えること
リラクゼーションという人によっては当たり前なことだが、精神疾患を抱える人々は、『健常者から見れば当たり前と思えること』を見落としているかもしれない。
あるいは、本質から離れたところで『健常者から見れば当たり前と思えること』を実践し、十分な効果を得られていないのかもしれない。
まさに私のマントラ瞑想はリラクゼーションをするという課題をクリアした気になっただけで、本質的な日常生活の中の楽しみの一部であり、生活そのものの一部であるべきリラクゼーションの本質とは程遠いと言える。
他のリラクゼーション
GPTによればリラクゼーションを得るには深呼吸、瞑想、ヨガやストレッチ、自然で過ごす、音楽を聴く、アロマセラピー、好きな本を読む……と多岐に渡る。
見返せば私は日常的に音楽を聴かないし本も読まない。その他の項目も全て日常の中に存在しないものばかりだ。
ポジティブに捉えればこれから試せるリラクゼーションの選択肢が多くあるということになる。
すぐに実践するには抵抗があるものも多いが、少しづつ日常生活の中の楽しみの一部であり、生活そのものの一部であるリラクゼーションを取り入れていこうと思う。
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