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現代人に地図を読むスキルは必要か?

ふと思うことがある。最近の子供たちは、地図を読めるのだろうか。
生まれた時からスマホのマップがあってナビがある。地名を検索すれば経路が出る。地図が読めなくても、生活する上では大して問題無さそうに見える。

では、現代ではもう地図を読むスキルは必要は無いのか!?

僕は、地図を読む能力は依然として重要なスキルであると考えている。さらに、地図を読むこと自体が重要な経験であると思う。

ここから、地図を読むという行為を例にして、神経科学における空間認知の話題にも触れつつ、現代人に地図を読むスキルは必要かどうか考察する。最新技術が活用できる現代で、人間が改めて古典的技術を自らフォローする必要があるのか?
この問いはすなわち「発展した科学技術に対して個人はどう関わっていくべきか」という、より本質的な問いにつながるだろう。

地図を読み理解する能力

そもそも地図を読むこと自体に重要な意味がある。

なぜなら、地図とは単に進むべき方向を示すものではなく、地理的な理解や空間認知能力を養う手段として一種の学習ツールの役割を果たすからである。その経験を通して、結果として地図が読めるようになるのである。

地図を片手に待ち合わせのカフェに向かうとき、おそらく目線は現実世界と地図を行き来しながら何らかの目印を探しているだろう。これは地図に描かれた線や文字を見て、現実世界を想像できるからこそ成り立つ。脳の仕組みから考えても非常に高度な情報処理をしている。

人はどこかに移動する時、深く考えなくとも、地域間の相対的な位置関係や距離感、地形などの地理的特徴をある程度脳で理解している。

「坂道を登る必要があるな」「川を超えてその下流方面だな」「お店はあのビルの裏側だな」
…そんな風に言葉に出さずとも、実は脳では多くの情報を処理して考えている。だから目的地にたどり着ける。

このような俯瞰的な視点は地図を読む過程で必要な能力であり、地図を読むこと自体が良い訓練となる。これには脳の働きである空間認知能力が関わる。

空間の認知能力

空間の認知能力がどのように獲得されていくのかについて、哲学、心理学および神経科学によって長年研究されてきた。

古くは18世紀の哲学者カントが空間認知の議論をしている。
彼は、”物体”の認知は外界の情報をもとに行われるとした。見て触って、リンゴとわかる、といった感覚だ(経験的認識)。一方で、空間の認知は経験に先立って存在するものだとした(生得観念)。つまり空間という概念は既に認識の基盤として我々に備わっているとする説だ(それを示唆する一例として、物体の無い空間は想像できても、空間のない状態は想像できない)。

20世紀の心理学では、実際に自分が歩いて回るというような直接的体験をする前の幼児-児童期に、代理物の操作や観察によって大きな空間認知能力が養われる可能性が指摘されている(参考資料1)。これはつまり、積み木やミニチュアで遊ぶような過程で空間をうまく認知できるようになり、それを大きなスケールで当てはめて考えられるようになっていくのである。

2014年のノーベル医学生理学賞は脳の空間認知機能に関する発見だった。実は脳は、空間の把握に特殊な仕組みを用いている。
我々の脳はもともと”場所細胞”と言う空間認知に特化した神経細胞を持っている。その細胞が脳内で仮想的な空間を作り出し、知識や経験といった記憶、そして運動量の感覚を結びつけ、それによって空間を認識している。
それはさながら脳の中にGPSがあるようだとも表現される(参考資料2)。

つまり人間の脳は空間認知のためのベースとなる神経基盤を生まれながらにして持っているのである。その能力を経験によって広げていくことで自分の位置をうまく理解したり、また空間を認知したりしている。

【よもやま話】
ノーベル医学生理学賞は例年、医療に実用的な発見などの功績を残した研究に贈られています。空間認知に関わる細胞の研究の受賞は、今のところ直接的には医療の役に立ったわけではない点で異例と言えるでしょう。それほど、人間が世界を認知する機能に関して細胞レベルで明らかにしたと言う研究はインパクトがあり、哲学的意味をも多分に含むものだからでしょう。

地図の理解は独自の価値を持つ

ここで逆に、地図が誕生する以前の時代を考えてみる。

前述の通り、地図が無くとも人間にはある程度備わった空間認知能力がある。さらに風景を眺めたり実際に歩く経験を通して、地形の特徴や地理的な理解は可能である。これは「自分の周囲の環境に限定される」という限界はあるものの、人間が生きていくためには十分では無いか?

地図がなくても十分だとすると、地図を読むことで培われる力は、地図の登場以降の人類に必要となったスキルと言える。つまり本質的には必要ない、あるいは現代の技術の進歩によりカバーされるものだろう。

そうだとすると、地図を理解する能力それ自体が「独自の価値を持つ」と考える理由はあるだろうか?スマホのマップやナビに全てを頼り切ってはいけない理由があるだろうか?
それは、ある。

個人が体験できる枠を超えた広い視野、つまり自分の住む地域の外を含める大きな視点は、地図によって拡大され、把握できるようになる。

この大きな視点を持つことは、個々の物事だけでなく全体像を理解するために非常に重要である。それは地理的な位置関係のみならず、社会や文化、環境などの広範なテーマにも関連する。地図を読んだり作ったりすることによって、地元のコミュニティだけでなく、より広い世界とのつながりを理解するようになる。我々は世界の一部なのだ。

特に子供の間に地図を読む、あるいは自ら作成すると言う経験は、より大きなスケールでの認知能力を豊かに育むことに繋がるだろう(参考資料3, 4)。

そのことに加えて、地図を読むことは抽象的思考力を養うのに有効であろう。地図とは、実際の風景や地形といった物理的な現実の世界を、記号や線で表現し”抽象化”したものである。これ見慣れてくると、地図記号や等高線からその景観が想像できるようになる。

さらに地図を使いこなすことで、計画力や問題解決能力を養うことも可能であろう。一人旅などをよくする人は経験があると思うが、ナビを使わずに地図を使って目的地に辿り着くまでにはたくさんの過程がある。
まず目的地を探し出して設定し、そのゴールに向かってより合理的な道筋を考えていく。実際に歩き出すと、思わぬ行き止まりや道の変化に遭遇することもある。その都度問題を解決していく必要がある。
その過程はまさに仕事や人生に通じるものがあるのではないだろうか。

そもそも先端技術を活用するにも地図を理解する能力が必要である。
現代ではGPSナビやデジタルの地図が日常的に利用されているが、これらを効果的に活用するためには地図の基本的な読み取りや理解力が求められる。ナビは地図の上で動作するのだ。
あるいは災害時など、通常の通信インフラが利用できない緊急時の対応にも、古典的な地図の出番である。

従って、地図を読んで理解する能力は、現代においても重要なスキルとして維持されるべきだと考えられる。また、地図を読むこと自体が一種の学習ツールであり、広範な視野や抽象的思考力、デジタル技術の活用効率を高めるのに効果的であろう。

現代の技術は地図を読むことを不要にし、地図を読まなくても生活に支障はないかもしれない。しかしここまで書いてきた通り、地図の理解は独自の価値があると言える。テクノロジーが解決している問題を人間がフォローするメリットはこんなにあるのだ。
ナビがあったとしても、地図は読めた方が総合的には良いのだ。

まとめ

「AIが登場したから人間の努力はもう必要ないよね」という類の論理は、その技術が常に利用可能で、正確で、信頼できるという前提でしか成立しない極論である。また、人間としての成長の機会を逃すことになる。

技術はあくまでアシストであり、人間が技術に頼り切りにならずに、スキルを身につける(または身につける過程の)必要はまだある、ということがここまでの考察で示唆できると思う。地図を読んだり作成したりすることは、じっくりと空間認知の能力を養うことにもなるのだ。

地図?読まないでいいよナビがあるじゃん。…と言う人がいたとして、その人が必要としているものは目的地への最短経路。つまりすぐに手に入る最適解のことである。

一方で、人生において誰にでも当てはまる道標や最適解を一つに絞ることは不可能であろう。自分が今必要としているものと、先端技術が与えてくれるもののギャップに迷わないようにしたい。

あとがき

最後まで読んでいただきありがとうございました。

…ここまでほとんど断定形で書いてきましたが、今回も"答えの無い話"です。僕が自分の体験や価値観をもとに今のところ考えていることをまとめました。

なお、今回は”科学技術と個人の関わり”に着目していました。
もっと大きな視点では、”科学技術の進歩と社会の関わり”という問いもあります。

僕の愛読書である漫画ドラえもんではこんなフレーズが飛び出します。

科学がすべてではない!科学は人間の生活を豊かにしたが、 同時に心をまずしくしたのではあるまいか!!

ドラえもん 単行本22巻 「しつけキャンディー」

これは非常に興味深い問いです。
科学は心を貧しくしうるでしょうか?

科学は本来、さまざまな事柄を客観的かつ系統的にまとめていく作業です。それは物事の理解を進め、思考の広がり(つまり貧しさとは逆の)心の豊かさにつながる営みでしょう。

でもなぜかこのドラえもんのフレーズは、ありえそうに聞こえませんか。
例えば直筆の手紙にこそ温かみを感じるのに、手軽だし早いということで電子メールを使ってしまったり。通信技術が発達して誰でもどこでも連絡が取れるようになったのに、そのせいで仕事に追われるようになったり。そんな時にこのフレーズの感覚がありませんか。

僕も幼少期の頃から科学者になった今でも、常にこのフレーズが心に憑いて回っています(生まれて初めて買ってもらった漫画本はこの22巻で、中でも1番印象に残っています)。

どうして、このフレーズのように感じる時があるのでしょうか。その問いには、科学技術と社会や人間の関わり方について、重要なヒントが隠されています。

その考察はまたの機会に。

参考資料

1) Hart, R.A. and Moore, G.T. (1973) The Development of Spatial Cognition: A Review. In: Downs, R.M. and Stea, D., Eds., Image and Environment, Aldine, Chicago, 246-288.

2) 理化学研究所 脳科学総合研究センター, https://bsi.riken.jp/jp/youth/place-cell_and_grid-cell.html

3) Berson, I. R., Berson, M. J., & Snow, B. (2020). A Bird’s Eye View: Wondering with Maps —Teacher’s guide. Newburyport, MA: Bert Snow & Co. Retrieved from KidCitizen, a Congress, Civic Participation, and Primary Sources Project from the Library of Congress

4) Liben LS, Downs RM. Understanding maps as symbols: the development of map concepts in children. Adv Child Dev Behav. 1989;22:145-201. doi: 10.1016/s0065-2407(08)60414-0. PMID: 2480701.

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