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おじいちゃんとおばあちゃんと、今日買った5年日記の話

 ピンピンコロリ寺という人類の希望を聞いてくれる寺があるらしい。それほどまでにピンピン生きてコロリとお迎えが来ることは万人の願いだということが、超高齢化社会で顕著なのは、健康寿命と命そのものの寿命がイコールではないことだと思う。
 5年前に92歳で他界した父方の祖父は、亡くなるその日まで入れ歯も杖もお世話になることなく、ボケもなく、おむつも流動食も知らぬまま、ご飯をたくさん食べたからちょっとお風呂に入るまで寝ると言って、寝室で文字通り眠るように息を引き取った。ちなみにその日の夕食は、このへんではちょっと名の知れた寿司屋の寿司折りである。それに、料理上手なおばあちゃんのお吸い物と漬物がついて、なんて完璧なラストスパー、これ以上の終焉があるだろうか。周りの人たちは、あんなに元気なおじいさんが、突然!と驚いた。それと同時に、ピンピンコロリ、素晴らしい、続きたい、と不謹慎なようでいや、でもそんなお迎えが来たら理想だと言える最期だと、参列者達から葬儀場でも火葬場でも、切実に持て囃された。
 確かに介護認定も受けず、最期まで自足歩行で元気な祖父だったが、週2、3回立ち寄っていた私は、亡くなる1週間くらい前の祖父の手の冷たさに驚いたのを覚えている。敬老の日の贈り物に、私がひ孫全員を集合させた写真を送ったのだが、私の息子を指差し、名前を言って、周りは全員息子の友達だと思ったようだった。きっちりした性格で、孫ひ孫全員の誕生日を把握していた祖父らしからぬ発言で、「おじいちゃん、これは○○だよ!これは誰々だよ!」といっても、頷いだがあまり興味がある様子ではなかった。
 様子がおかしいのは、いつも背もたれの後ろに紐を通して掛けている官公庁で働いているときから同じシステム手帳にお風呂から上がった5時頃開くのが習慣だったのに、まったく書かなくなっていたことも挙げられる。おじいちゃん、今日は書かんと?と私が聞くと、今日は疲れたけん、いいや、と。同じ敬老の日の出来事である。なくなった後に手帳を振り返り見ると、9月に入ってから毎日5〜6行書いていた日記が、大きく弱々しい字で2行程度になっていた。そして、16日を最後に更新されていなかった。
 決定的におかしいことがあった。習い事のサッカーを終えて立ち寄ったとき、息子がお腹が減ったというので、おばあちゃんが手早くおにぎりを握ってくれたのだが、息子がうえっと言って、吐き出した。甘いというのだ。おばあちゃんが、塩と砂糖を間違えた。すると耳は遠かったおじいちゃんが、そのやりとりには気づかずに、机の真ん中に置かれたおにぎりを気にせず食べた。私と息子が、顔を覗き込んで、「いつもと違わない?」ときくと、なぁんも、と言ってそのまま食べてしまった。味覚がだいぶ鈍くなっていたのだと思う。亡くなったのはその2日後だった。ピンピンコロリの部類には大いに該当することは間違いないが、少しずつ衰え、鈍っていったのだ。悲しかったが、私は驚かなかった。驚かずに済んだ、と言ったほうが近いか。おじいちゃんの肉体は、いくつも私達にお別れが近いことを教えてくれていた。

 母方の祖母は、83歳まで現役の日本舞踊の講師をしていて、背中もシャンとして、着物のよく似合う気丈な女性で、私の憧れだった。地震でやむなく閉講せざるを得ず、住まいを失って、隣県で母たちと同居するようになって、年相応の佇まいになってきたように見えた。それでも4年近くは、母と家事も分担し、楽しく暮らしているようで、安心していた。2度ほど入院したことがあったが、その入院さえ「合宿」と呼ぶ、パワフルなおばあちゃんだった。この2年ほどだろうか、もともと弱かった肺をこじらせ、入退院を繰り返しているし、足腰もいよいよ自由が効かなくなり、歩行器と車椅子の生活になった。痴呆ではないようだが、幻聴や幻覚が多いようで、いつもくたびれているような表情が増えたり、夜中に私の両親を起こしては泣きじゃくったり、子どものようにおとうさん、おとうさん!と叫んだりしているらしい。私の顔を見ると安心する、と言ってくれるが、私と会ったらトイレに行く、という記憶が強いらしくて、こいちゃん、トイレに連れて行って、というので今トイレに行ったばかり、と横から母がチャチャを入れて、引き止める、といった具合だった。体が動かず、頭はまだ冴えている、というのは、想像以上に悲しく惨めそうで、見ていて辛い。起きているときも、寝ているときとの境がつかないと言っていて、ずっと夢現が続いている様子で、時々うなされているようにも見えた。
 このおばあちゃんも、私が子供の頃からだから、ずっと分厚い5年家計簿を綴っていた。お金の記録とともに、誰が来たとか、何をもらったとか、どこに連れて行ってもらったとか、マメに記帳していたのを覚えている。何をしてもおこならいおばあちゃんだったが、その日記に触れると、手をペチン!やめさせるのだった。先日、おばあちゃんの入院道具の中から、同じ赤い5年家計簿が見えた。おばあちゃんは、病室のベットの上で、いろいろ書いていた。私は驚いた。入退院を繰り返して、意識が朦朧とする中でも、書こうとしている。実際に書いている。多分見たら、ペチン!と怒られるので見ないが、何がおばあちゃんの原動力なのだろうか、おばあちゃんは何を書き留めておきたいのだろう。

 おばあちゃんがまたこのお正月に救急搬送された。今回は、今までの病院では対応不可で、大きい病院に運ばれている。肺の機能がだいぶ低下しているとのことだ。おばあちゃんの生命力と底力を信じつつ、私はどうか、痛くないようにだけ、もう90年近くも頑張ってきたのだから、それに相応しい最期でありますように、おばあちゃんがおばあちゃんの運命を生き切れますようにと、応援に近い祈りを捧げることしかできない。

 今日、仕事初めの外回りの途中、おじいちゃんが亡くなった後に、残されたおばあちゃんが愛おしそうに日記を見返しては、私に「おじいちゃん、こんなことまで書いていたよ、マメだね」とか、「こんなこと覚えている?」という話題が耐えなかったのを思い出した。おそらく戦中から書き残していた手記、就職してからつけるようになった日記は、1年も抜けることなく、本棚にびっしり残されている。
 今日おばあちゃんが転院して今私や私の家族がこんなにも不安で、こうやって仕事も気がそぞろなことを、残しておいて数年後に笑って読み返したい、おじいちゃんとおばあちゃんが書き残したように、私も子や孫に文字と記憶を残したい。なぜかそんな気持ちになって、5年日記を買ってみました、という話でした。おばあちゃん、頑張れ。無理はしないでほしいけど、帰ってきてほしいよ。


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