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噺家的大衆文学――直木三十五『槍の權三重帷子』の評へ斬り込む

 本名――植村宗一
 筆名の由来――植村の植を二分して直木、この時三十一歳になりし故、直木三十一と称す。この名にて書きたるもの、文壇時評一篇のみ。
 翌年、直木三十二。この年、月評を二篇書く。
 震災にて、大阪に戻り、プラトン社に入り『苦楽』の編輯に当る。三十三に成長して三誌に大衆物を書く。
(直木三十三『私の略歴』)

 直木三十三、後の直木三十五が自らを語った一文です。
 この後映画界に入るものの、結局小説家の道へと戻り、代表作『南国太平記』を執筆することとなります。彼の人生を振り返るとついてまわる貧乏と借金、同時に時に人の運命をも左右するような影響力や、対極をも内包した性格の多面性を見ることが出来ますが、今回は彼が『三十三に成長して三誌に大衆物を書く』その初陣を飾った一作へと斬り込んでいきます。


1)単行本『仇討十種』菊池寛の序に見る

『槍の權三重帷子』

 大正十三年一月、プラトン社から発行された『苦楽』創刊号。
 そこへ掲載されたのがこの仇討ち物の大衆小説でした。ここから、直木は小説を書いていくようになります。後に本作を含めた十の仇討ちものをまとめた『仇討十種』が大正十三年九月に発行されます。
 記念すべき一冊の序を飾ったのが、文藝春秋社長であり直木の才能を高く評価していた菊池寛です。


「直木三十三は、予の雑誌『文藝春秋』に、匿名の戯文をかいて、忽ちに名を成した男である。金は、砂中に在つて、自ら光ると云はうか、賢名に汲々として、しかも容易に名を成し得ざる徒に比して、覆面の辻斬に、忽ち難劍の武名を天下に轟かした直木の腕の冴口は充分に認めねばならない」

「彼の説話の特色は、その論理明快なる叙述に存すると同時に殺陣と修羅場の活写である。よく、乱戦格闘の状を描いて、一讀手裡汗を生ぜしむるの趣がある。所謂立廻りと修羅場とは、彼に至つて初めて、文藝的描写を得たと云つてもよいだろう」

「新國劇が天下を風靡した所以は、乱戦格闘の状が迫真の妙境に達するからだと云はれてゐる、然らば直木三十三の『仇討十種』も亦、天下を風靡する資格充分である」
(直木三十五『仇討十種』序)


 彼の才能が光るのを菊池が見たのは、小説より前、文藝春秋で毒舌かつキレのいいゴシップ記事を書いていた頃でしょう。勿論文壇文士達を様々な視点で明確に点数によって格付けした『文壇諸家価値調査票』などは、横光利一や今東光の怒りを買うなどした話が有名ではありますが、反面、読者や直木を知る文士達には好評だったようです。
 その一端を見ることが出来るのが『文藝春秋』昭和二十七年四月発行の創刊三十年記念號にある『文藝春秋三十年の思ひ出』という座談会での一幕です。

 この座談会のメンバーは以下の通り。
 小林秀雄・川端康成・永井龍男・吉川英治・宇野浩二・佐佐木茂索の六名(久米正雄も出席予定であったが、体調不良にて欠席。しかしこの座談会の最後にて「本號校了の日、久米正雄氏逝去の報に接しました」と記されている)。
 内容は文藝春秋の創刊から振り返る、というものでした。その話題の中に『ゴシップの名人・直木三十五』があります。そこでの彼等の会話を以下に一部抜粋して掲載します。


佐佐木「(前略)あの時分の文藝春秋は、むやみやたらにゴシップみたいなものばかり載せてね、それも採点表だとか愚にもつかんものを載せたわけだけども、小林君なんか読者として見ていて、ああいうものを苦々しいと思つたかな」
小林「いや、あれが面白くて買つたんだ」
宇野「僕だつて面白いと思つたね」
吉川「あれは面白かつた」
宇野「僕は自分のことが書かれていても面白かつたね」
佐佐木「顰蹙すべきものはだとは思わなかつたかな」
宇野「そんなこと思わなかつた」
(中略)
吉川「ゴシップというやつ、実は書く当人も面白いんだ。書かれた者も苦笑、読者も愉快というのがほんものだ。直木以後、ほんとうのゴシップというものがないね。今もしか、あれ流をやる者があるとすれば、永井くん以外にないな。近頃のゴシップは、むくつけき(むさくるしい、無骨な)ものになっちゃって、味も素つ気もない、あの頃のゴシップには、落首的な、風刺文学的なものがあったね。どうです永井さん、やりませんか(笑)」
宇野「あのゴシップは直木の傑作だね。芥川はあのゴシップを見ただけで才人だねといつてた」
佐佐木「ええ、傑作」
(『文藝春秋』三十周年記念号)


 毒もあるが、洒落っ気もある。そういったゴシップは、年月経て現在を生きる私が読んでみてもコミカルで面白く、また人を惹き込む才を感じ取ることが出来ます。様々な人を魅了する、そういった才を菊池もまた感じ取っていたのではないでしょうか。『文藝春秋』に始まり『仇討十種』で序を寄越してから直木がその生涯を閉じることとなるまで、菊池は彼の近くでその良きも悪きも孕んだ才能を、一番肌で感じた人物となります。
 勿論、こういった序文には所謂「盛る」こともあるでしょう。しかしながら、それがどんどんと現実になっていく様を見ていたのもまた菊池なのです。彼の才を語る、それは彼の未来を垣間見たものだったのかもしれません。


2)『知られざる文豪・直木三十五』における『槍の權三重帷子』評価

 直木の死後、存在は瞬く間に埋もれていくこととなりました。吉川は昭和九年四月に発行された『衆文』直木三十五追憶号の『三十六日後後記』にてそれを予見する一文を記しています。

「(前略)文壇も、社會と共に、健忘症である。もう一年も経つたら、『直木三十五』といふ活字も、めつたに眼に觸れなくだらう。」
(吉川英治『三十六日後後記』)

 まさにこの一文が現実として現在に証明されてしまいます。私自身、直木三十五という人物に触れたのは作品ではなく、ゲーム『文豪とアルケミスト』で登場するキャラクターでした。そして「もっと本人について知りたい」と思い、探し始めたのですが、直木の作品は全集を除き、手軽に手を伸ばせるであろう文庫版などは殆ど絶版となっていました。
 最初に私が直木を知るために、と手を伸ばしたのは一冊の研究書です。
 平成二十六年七月に発行された『知られざる文豪・直木三十五』
 著者は山﨑國紀氏、花園大学名誉教授であり文学博士として、森鴎外や横光利一などの研究著書を書かれております。
 この一冊は、結果的に私にとっては非常に沢山の情報を与えてくれ、また更なる知識欲を刺激するものとなりました。その点においては直木三十五という人物を知るに適した一冊でしょう。
 しかし。
 反面、とある引っ掛かりを覚えたのも事実でした。それが今回取り上げた『槍の權三重帷子』の評価です。


「(前略)この作品は次の文章から始まる。
『谷町のプラトン社から北へ三つ目の停留所、本町の通りは糸屋町、紀ノ国屋へ泊まつてゐた駆落者が二人、夜船で逃げようと高麗橋へかゝる折、夫が現れて成敗すると云ふ、お馴染みの妻敵討『槍の權三重帷子』大近松の作中でも名代の作品、享保二年八月、門左衛門六十五歳のもの、実記に拠ると何ういふ事に成るか――』
 直木の小説第一作の冒頭であるとすれば、興味も沸く。しかし、いきなり『プラトン社』が出てきて、なにか歴史紀行文のような錯覚にとらわれる。またこの事件は近松門左衛門の『名代の作品』と書いていることからして、その考証でもするのかなと思ってしまうが、れっきとした時代小説の短編なのである。
 この書き出しを見ただけで、直木は、やはり小説の書き方に迷っているな、と感じてしまう。つまり、小説の執筆を随筆のような書き出しで始めているところに、まだ小説の書き方がわかっていないなと思ってしまうのである。随筆ばかりを書いていたのでわからないでもないが」

「舞台は江戸時代なのに、『現代』をどんどん入れていく。プラトン社、京阪電車の八幡、久米正雄、菊池寛、里見弴、オスカー・ワイルドなどの実名が続出する。随筆、考証といった性格を色濃く付帯しながら、とりあえず第一作として発表しただけに直木自身は不安だっただろう」

「しかし、いずれにしても、この第一作は小説世界が成立するための一貫性に欠け、精錬度や完成度からみても、やはり稚拙な作品であると言わざるを得ない」
(山﨑國紀『知られざる文豪・直木三十五』)

 書かれていることは間違いはありません。確かに、この作品にはその時代を語るには「有り得ない」言葉の数々が織り込まれていました。処女作であるということは、未熟な点もある、という点においても、粗削りな部分も見られるのは頷けるところではあります。
 しかし、全てを稚拙、不安、と断じていいものなのか。次ではその検証を行っていきます。


3)『苦楽』そして『仇討十種』における『槍の權三重帷子』の立ち位置と相違

 『苦楽』創刊号、そして『仇討十種』。
 二冊の紙媒体における『槍の權三重帷子』の立ち位置の比較から行います。

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 『苦楽』創刊号では、本作は直木三十三の単独の一作となります。
 そして、『仇討十種』では、序、前説等の他、十の作品で構成された、その中の一篇として本作が収録されています。収録は発表順ではありませんでした。『討入』という題名で書かれた大石内蔵助を中心とした討入仇討『忠臣蔵』の次に配置されているのです。順番で言えば七番目の収録となります。

 ここで、問題の「稚拙」と評された件の一文を比較します。

直木槍の權三十帷子資料01

●『苦楽』創刊号掲載分(資料1)
「(前略)社から三つめの停留所、本町の通は糸屋町、紀ノ國屋へと泊まつてゐた駆落者が二人、夜船で京に逃げやうと高麗橋へかゝる折、夫が現れて成敗すると云ふ、御馴染の妻敵討『槍の權三重帷子』大近松の作中でも名代の作品、享保二年八月、門左衛門六十五歳のもの、實記によると何といふ事に成りますか――」※漢字変換不可能な部分有り、平仮名にて入力しています。
(『苦楽』創刊号)

直木槍の權三十帷子資料02

●『仇討十種』収録分(資料2)
プラトン社から北へ三つ目の停留所、本町の通は糸屋町、紀ノ國屋へ泊まつてゐた駆落者が二人、夜船で京に逃げようと高麗橋へかゝる折、夫が現れて成敗するといふ御馴染の妻敵討『槍の權三重帷子』大近松の作中でも名代の作品、享保二年八月、門左衛門六十五歳のもの、實記によると何といふ事に成るか――」
(直木三十五『仇討十種』)

 『苦楽』版の前には、本人曰く「前口上」があり、収録版はその部分は削除されています。そしてこの一箇所を見て頂いただけでもお分かりの通り、手直しが行われています。さて、ここで注目したいのは冒頭です。『苦楽』版は、前にも文章があり、そしてそこから繋げる為か、始まりが「社から~」にとどまっています。そして、手直しをしたであろう収録版では「プラトン社から北へ~」と書き換えてあります。ここから分かることというのは何か。

 直木は、意図的にこの「プラトン社」を入れたのではないでしょうか。

 収録をするにあたり、まず冒頭に『仇討ちに就て』という直木の仇討についての前説が入ります。従って、『苦楽』版で語られた前口上は、削られることとなりました。そして、十種の仇討ものを収録するにあたり、順番の入れ替えがなされたのです。『仇討ちに就て』の後に入った第一の仇討は『鍵屋の辻』でした。
 ここには、直木の意図が隠されているのではないか、と考えられるのです。

 

4)個人的見解における直木三十五の噺家的才能

 直木の小説の特色のひとつとして「軽快な語り口」というものがあります。まるで噺家のように、流れるような文章で「話す」、それは物語にどんどん引き込んでいく技のひとつと言えるでしょう。勿論、『槍の權三重帷子』は彼の始まりの一作でありますから、粗削りな部分は確かにあります。しかしながら、彼の流れるような「語り」であり「リズム」この最初から備わっていたものであることも感じ取れるのも確かなのです。

 何故時代小説、仇討ものに関わらず、プラトン社、久米正雄、菊池寛等の「現代」を織り交ぜたのか。
 それはひとえに、読ませる相手が大衆、だったからではないか。

 先述で本に収録した際の第一の仇討が『鍵屋の辻』という話をしましたが、実は『槍の權三重帷子』と、ある共通点があります。同じように、仇討の物語に関わらず明確な「現代」が織り交ぜられているのです。
 さて、ここで出てくる「現代」はというと、芥川龍之介です。ふたりでいつの日かの他愛ない仇討論議から始まっている、この話が最初に組み込まれたことには、やはり読み手が大衆である、ということを意識したからではないでしょうか。芥川が名を知られている文士であることも、組み込まれた一因であるのは言うまでもありません。
 そして、大衆に周知された『忠臣蔵』の話の後に組まれたのが、『槍の權三重帷子』になります。順番としては、七番目。人によっては中だるみを起こす頃合いでもあります。そこで、再び本の世界へと引き込む為に織り込んだ「現代」、しかも前口上が存在した『苦楽』で書いたものより強い必要がありました。
 より強い「プラトン社」という表現を『選択』することによって、読者を物語へと引き戻す。その意図が直木にはあったのではないでしょうか。
 読者である大衆が知っている言葉を組み込むことにより、物語に戻る糸口を作る。その手法はまさに噺家、講談師の手法に重なるものがあります。当然、時代物であるに関わらずちぐはぐなものを入れている、全く小説として如何なものと取られることも、山﨑氏に限らず当時でもなかったわけではないと想像に難くはありません。
 しかし彼の原点とは、と紐解いた時、その答えらしきものを彼が自分の人生を振り返った『死までを語る』に見ることが出来ます。

「(前略)貸本屋が出来て、講談本が、棚に陳ぶと同時に『宗一、又、きてけつかる。浜はんへ、行かんか』と、父が怒鳴りに来るようになった。この貸本屋で、いかに、私は多くの講談本を読んだか? 『誰ヶ袖音吉』『玉川お芳』などの大阪種の、任侠物の味は、まだ忘れられない」
(直木三十五『死までを語る』)

 子どもの頃に、胸躍らせた記憶のままに筆を走らせ始めたのだとしたら直木三十五は小説家であり、また噺家でもあると言えるのではないでしょうか。


5)参考資料

『仇討十種』(プラトン社・大正十三年九月発行初版)直木三十五
『苦楽』創刊号(プラトン社・大正十三年一月発行※講談社刊行・日本近代文学館編集『復刻 日本の雑誌』版)
『知られざる文豪・直木三十五』(ミネルヴァ書房・平成二十六年七月発行)山﨑國紀
『直木三十五全集』別巻(示人社・平成三年七月発行初版)
『文藝春秋』創刊三十年記念號(文藝春秋新社・昭和二十七年四月発行)
『この人直木三十五』(鱒書房・平成三年三月発行)植村鞆音編集、尾崎秀樹監修
『直木三十五随筆集』(中央公論社・昭和九年四月発行)直木三十五


 

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