見出し画像

「いき」の構造とフレンチタッチ 1

1  「いき」の構造に就て

最近、九鬼周造さんの「いき」の構造という本を手に取った。これが、たいへんに難しい言葉の回しながら、面白い切り口で日本民族独自の美意識である「いき」を説明していて、なかなか印象的であった。

1930年に京都大学の一教授が「いき」についてこれだけ熱狂的な論文を書いたのは、単純に彼が「いき」という分野を専門に研究していたからというだけではなく、もしかしたら、例えば谷崎潤一郎が同時代に「痴人の愛」の中で描いた、日本人の外国人(特に白人)称賛の傾倒に対する危機感を感じていたからかもしれない。それから凡そ100年経った今、更に失われつつある「いき」の本質について、今改めて見つめ直すのはとても良い機会のように思える。


さて、九鬼さんは「いき」という趣味について、「内包的構造」と「外延的構造」という二つの視点から、その本質について言及している。「内包的構造」に於いては、「「いき」を定義して「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」ということ」とまとめている。

一方、「外延的構造」、これがなかなか面白く、「いき」に近しい趣味を挙げた上、それぞれの相対関係を六面体で表し、その中で発見される様々な価値観と対比しながら、「いき」の本質を見つけ出すという、たいへん数学的で合理的なアプローチを試みている。
彼が「いき」に関係を有する趣味としてあげたのが、「上品」、「派手」、「渋味」であり、それぞれの対義語として「いき」の反対は「野暮」、「上品」は「下品」、「派手」は「地味」、「渋味」は「甘味」とし、これら八つの趣味のそれぞれの関係値を以下のような六面体で表した。


この図形の中で隣り合わせの趣味は何らかの対立関係を表していて、「上面と底面において、正方形の対角線によって対立する頂点はそのうちで対立性の最も顕著なもの」であると、彼は相関関係を設定している。ここで言う対立関係とは、対義的にぶつかり合うというよりは、どちらかと言えば、同じものではない、というくらいのニュアンスのように思える。

例えば、「上品に或るものを加えて「いき」となり、更に加えて或る程度を越えると下品になるという見方がある」ことから、上品と下品という一直線上に「いき」を配置する時、「いき」はその中間点に見出すことが出来る。つまり、六面体の中で隣り合わせる「いき」と「上品」は決して同じとは言えない。このような柔らかい対立のニュアンスも含めて、隣り合わせの趣味はそれぞれ対立関係を示していると言える。


次に、上下の両面は「趣味様態の成立規定たる両公共圏」を表し、「底面は人性的一般性、上面は異性的特殊性」を表す。言い換えるならば、底面の「上品」「下品」と「派手」「地味」という趣味は、その対象がその人間自身やその人柄に向かっているのに対して、上面の「いき」「野暮」と「甘味」「渋味」はその趣味の存在意義が異性を対象とした上にある。

例えば、「上品」であることは異性へのアピールというよりもその人の人となり自体から生じる反面、「野暮」であることは異性との交流が少ないことから生じる。「派手」であろうと「地味」であろうと、それらの趣味の存在意義が異性を対象にしているわけではない一方、「渋い顔」で他者との交流を避けるか、「甘言」で他者を惑わすかは何らかの異性へのまなざしが向けられている。


九鬼さんは更に、四本の垂直線にも意味合いを含め、「いき」と「上品」を結ぶ線は有価値的で「野暮」と「下品」を結ぶ線は反価値的、つまりそこにはプラスとマイナス、良と不良の価値が存在する一方、「甘味」と「派手」を結ぶ線は積極的で、「渋味」と「地味」を結ぶ線は消極的であるだけで、そこに良・不良の価値は存在しないとしている。

その上で、九鬼さんはこの六面体の中に含有する他の様々な趣味を紹介している。例えば、
「さび」とは、O点、「上品」、「地味」の作る三角形と、P点、「いき」、「渋味」の作る三角形とを両端面に有する三角柱の名称である。
「雅」は、「上品」と「地味」と「渋味」との作る三角形を底面とし、O点を頂点とする四面体のうちに求むべきものである。つまり、「さび」のなかで「いき」の要素が全く含まれない領域に「雅」が求められるということになる。
「味」とは、「甘味」から「いき」を経て「渋味」に至る運動とその三角形を示す。
「乙」とは、この同じ三角形を底面とし、「下品」を頂点とする四面体のうちに位置する。
「きざ」は、「派手」と「下品」を結びつける直線上に位置している。


「いき」の外延的構造に就ての章はここまでで終わっているのだが、ここまで見てきたことを纏めるならば、「いき」とは、「甘味」ではないが「渋味」でもなく、「上品」ではないが「下品」でもない、「野暮」ではなく、「派手」でも「地味」でもない、異性を対象とした有価値的な趣味であると言える。

言い換えると、「いき」は、「野暮」との対義に位置し、「派手」と「地味」に対しては消極的にその中間に位置し、「甘味」と「渋味」、「上品」と「下品」に対しては積極的にその中間者として両趣味の要素を微かに含んでいる。

ここまで、九鬼さんが凡そ100年ほど前に数学的体系を用いて言語化を試みた「いき」の構造について要約してきたが、次回はここから見出されうる「いき」とフランス文化、特にフレンチタッチと呼ばれる独特の美的感覚について、その関係性を追及してゆく。

フランスを代表するファッションスクールであるInstitut français de la modeのある教授が、フレンチタッチを2単語でSophisticated Nonchalance (洗練されたノンシャランス=無頓着さ)と定義した。ビスポークのイギリスとサルトリアのイタリアの間に位置し、クチュールをはじめ女性を中心に栄えた美的感覚が、「いき」とどのような共鳴を見せるのか、迫ってゆきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?