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帰国に際して4:邦文学だいすき

 帰国してからちょうど1ヶ月が経とうとしているが、この期間、実家に眠っていた既読の和書たちを耽読している。

 日本語から離れること一年半、勿論、時折家族や友人との会話で日本語を使用してはいたが、大好きで肝心な文章表現にはなかなか苦心している。これらのブログを書いている時も、頭の中のアイデアはもっと明瞭で洗練されているのに、ありふれた言葉をもって、曖昧で抽象的な表現しか出来ないのは、悔しくて堪らないのだが、文章とはもともとこういうものなので仕方ないのかもしれない。

 留学・フランス語学習の最終目標であったDALF C1には帰国直前に無事合格し、さあ母国語の技量を取り戻すべく、一旦フランス語はà bientôt、早速文学のふるさとへ帰郷した。
 憧れの白洲次郎・正子の伝記と彼らの著書から、我が師である小林秀雄と坂口安吾を中心に再読し始め、帰国間際パリで買った谷崎潤一郎の「痴人の愛」が面白かったことから、谷崎の文庫本をいくつか買ったりして、暇があればペーパーブックの愛嬌ある感触を手に確かめながら、時に線を引いたり角を折ったり、熟考したり、はたまたただ読み流したり、だらしのない読書を続けている。

 初見だからであろうが、その中でも谷崎の文学は脳裏に焼き付いて離れない。読んだ順は反対であったが、デビュー作である「刺青」から代表作「痴人の愛」まで、一貫した題材と文体、青山二郎言う所の「叩けばピンと鳴る」思想が宿っている、至高の作家であることはページを開けば直ぐに判った。
 彼に先駆けて文壇に自らの地位を確立していた小説家・永井荷風は、彼の芸術における三つの特徴をもって、「肉体における神秘幽玄的快感」「主材・整頓・語句選択における都会性」そして「文章の完全性」を挙げ、賞賛の言葉を惜しまなかった。
 この分析は的を射ていて(なんて恐れ多いのだが)、狂気の物語の裏で、芸術的日本語の選択とその文章の唄としての響き、語る目線の技巧による臨場感と読者をその狂気の沙汰に巻き込む工夫をもって、彼は文学的にとても純粋であるし、彼の著作を手に取ると、読書をすることの単純な喜びを感ずる。

 自らの西洋美崇拝を自身の作品に反映させ数々の名著を生んだ彼は、1923年の関東大震災を機に関西へ移住し、そこで純粋な日本の魅力を再発見し、後期には伝統的で純日本的なものを追求した。
 実際にその変遷がどのように作品間で繋がっているのか、まだ数冊しか読んでいないため私は未だ核心には至っていない。しかし、陰翳礼讃で見る彼の日本観は、戦後GHQによって文化の色眼鏡をかけさせられた我々今日の日本人にとって、大変有益で興味深いことは間違いない。
 ただ、どんな名著かと思って陰翳礼讃を手に取った者が、厠、つまりトイレにおける彼のこだわりを散々聞かされることになるとは、誰が想像するだろう。彼は大真面目に書いた積りだと想像するが、個人的には実にウィットが効いているように思えて大変面白い。

 戦前の日本で未だ遺されていた純粋な芸術を追求した純文学、その末期である戦時中・平和条約までの戦後文学を愛するといつも人に聞かれて答える私であるが、その身は芥川も太宰も夏目もまともに読んでいないインテリ気取り気触れ文学青年で、口にするのも恥ずかしいことなのだが、学習というものは時間がかかるのが常であるし、忍耐力をもって恥を忍ぶべきものなのである。なので私は今ここに恥を晒して、自らを鼓舞し、日本純文学の文豪たちに向き合ってゆきたい心意気。おすすめの日本文学作品、お待ちしております。

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