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【短編小説】九十九里浜(作:小林亀朗)

 波の音が聞こえる。鼓膜を震わせて、俺の腹にまで響く。俺はその音をホテルのテラスで聴いている。ロッキングチェアの背もたれはやけにひんやりしていた。
「お待たせ致しました」
 ウェイターが一礼してお盆からグラスを取り、目の前に置いてくれる。注文したカルーア・ミルクだ。
「ご苦労さん」
 俺はウェイターにチップを渡すと脚を組み直した。
 このホテルに来るのは2回目だ。1回目は8年前の夏。当時の恋人とくつろぐためだった。
 彼女のことはもうよく覚えていない。付き合った期間はたったの2ヶ月で、好きだった筈なのに名前しかまともに思い出せない。顔も霞み始めている。どういうものが好きで、どんな人間だったか。どこを好きになって、どこを嫌いになったのか。もう俺の記憶には残っていなかった。
 このホテルにも、もう来ることはないと思っていた。俺の記憶の海の底深く沈んでゆく運命にあった筈なのだ。だがどういう訳か、俺は今彼女と座っていた席に座り、彼女が飲んでいたカルーア・ミルクを飲んでいる。不思議だ。この国ではこういうどこまでもつきまとうもののことを、縁の巡り合わせと言うのだったか。
「昼間っから酒か?」
 驚いて見ると、戦友のKがニヤニヤ笑いながら柱にもたれていた。
「まぁ。別に飲んだくれようって訳じゃあない」
「だろうな。明日にはトウキョウに攻め込むんだぜ。深酒なんてしたら身体に響く」
「わかってるよ。この一杯だけだ」
「そうかい。ま、せいぜい楽しみな」
 Kは肩をすくめると俺の肩をポンポンと叩いてジャズを演奏しているロビーの方へ消えていった。俺はその背中を見送り、カルーア・ミルクを口に含む。やけに甘ったるい。彼女はこんな甘いやつを目を輝かせながら飲んでいた気がする。やはり味覚というものは人によりけりだ。
 俺はそのままグラスを傾けてカルーア・ミルクを流し込むと明日の進軍に備えて部屋で寝ることにした。波の音が変わらずに鳴り響いている。
 彼女はトウキョウに住んでいると言っていた。もうとっくに逃げ出しているかもしれないが、もし、もし、明日トウキョウで会うことがあったら、彼女はどんな顔をするだろう。俺はどんな言葉をかけるだろう。
 もっと間近で波の音が聴きたくなって、俺は柄にもなく走り出した。砂浜の方に向かって。待っている恋人の元へ向かうかのように。朽ちようとしている大きな流木のところで振り返ると、ホテルの屋根の上を鴎が一羽飛んでいた。

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