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第3回 誰もが、静かに泣いていた

 『南の島に雪が降る』——タイトルに惹かれて、小学校2年生の時に映画を観ました。どんな話だったのか、すっかり中身は忘れましたが、主演俳優が「原作を書いた人だ」と教えられ、以来、加東大介という名前と顔はしっかり記憶に刻みました。

 その、半世紀以上も前に書かれた本を、いま初めて読んで驚嘆しています。少しも古びていないばかりか、文章はみずみずしく、切々と物語が胸に響きます。太平洋戦争の実体験を描いた作品は、ジャンルを問わず、かなり目を通してきたつもりですが、この本はいま改めて読まれるべき作品だと思います。

 加東大介『南の島に雪が降る』(ちくま文庫)。敗色深まるニューギニア戦線のジャングルで、孤立無援にして、お先まっ暗な兵士たちを慰め励ますための“劇団”づくりを命じられた著者の実体験を綴った回想記です。

『南の島に雪が降る』
(右から2人目が著者)

 「文藝春秋」1961年3月号(2月10日発売)に「南海の芝居に雪が降る」として手記が掲載されます。その号の発売された夜、NHKからテレビ化の話が来ます。すぐさま小野田勇の脚色で、1時間ドラマとして4月30日に放送されます。

 さらに、この記事が第20回文藝春秋読者賞を受賞し(同誌8月号発表)、9月10日には単行本として『南の島に雪が降る』(文藝春秋)が刊行されます。並行して、東宝で映画化が進み、森繁久彌、伴淳三郎、フランキー堺、三木のり平ら、当時の東宝スター総出演の作品が9月29日に公開されます。

 加東大介はテレビ、映画ともに主演をつとめ、本はベストセラーになります。これが7ヵ月あまりのうちに展開します。なんともすさまじい勢いです。

 最初に手記を書くにあたって、著者は「各種の戦記が、いろいろな角度から語りつくされた現在、はたして何人のかたが読んでくれるかと正直なところ危惧が多かった」と述べています(本書「あとがき」)。

 1961年といえば、オリンピック東京大会を3年後に控え、高度成長がまさに上り坂にあった時期です。国民の目は、悲惨な敗戦の記憶より、新生ニッポンの明るい未来に向けられていたようにも思えます。

 けれども、この本は一大ブームを引き起こします。テレビ化、映画化、本のベストセラー入り。文藝春秋読者賞の知らせを受けた際、著者は「なんだかふしぎな気持がした。『なぜ、こんなにこの話に関心をもってくれるのだろう』と首をひねった」(同)と述懐しています。

 やがて、その答えにみずから思いいたるのですが、それを述べる前に、なぜ本書がいま読んでもなお新鮮なのか、という点です。それは明らかに著者の文章の力です。戦地の日常をきめ細やかに描き、いつ来るとも知れぬ死を前にした兵士たちの心情をあぶりだし、ソクソクと人の胸に迫るのも、言葉の魅力があるからこそです。

 たとえば、序盤に「ニューギニア死の行進」とのちに呼ばれる無謀な「転進命令」の叙述があります。

<……まだマノクワリに残っていた日本陸軍の半分に近い一万人に転進命令が出た。転進とは、退却のことを、ていよくつくろったコトバだ。当時の流行語だった。
 命令をくだしたのは首脳部の某将官だったそうである。
 「半分は転進し、残りの半数でここを死守せよ」
 兵站(へいたん)病院の二百五十人のうち、百人が転進に加わることになった。わたしは玉砕組に残された。いってしまう連中を、どんなにうらやましく思ったことだったろう。わたしたちは遺品や遺書を、かれらに託した。
 転身組は南の方——バボにむかって行進を開始した。わたしたちに気がねして、表情を殺してはいたが、内心のうれしさは、ビンビンとこっちの胸に響いてきた。
 が、これが、戦後に知られた“ニューギニア死の行進”であった。>

 難しい言葉はいっさいなく、平明で清澄な表現です。浅草生まれの江戸っ子らしく、カラッとした明るさと庶民性があり、ヒューマンな温かさやユーモアがにじみます。

 生まれながらの役者なので、「わかりやすく、手短に、おもしろく」という、ある種のサービス精神をもった語り口。テンポが良くてリズミカル、そして映像的——。

 「あとで聞いたところでは」とあり、命令を下した某将官が、軍幹部とともに飛行機でサッサと東京に逃げ帰った、という挿話が紹介されます。

<そんなわけだから、転進の計画はメチャクチャだった。地図のうえに線を引いて、その直線距離を、指先でチョイチョイと測っただけである。
 「うん、三日か四日の行程だな。そんなら、食糧の携帯は一週間ぶんで十分だ」
 山のなかをクネクネとたどる道なき道なのだ。まして、ちょっとでもスコールが降れば、すぐに河に変わってしまう湿地帯である。いちばん早いもので二カ月、いや、大部分は永久にバボには着かなかった。飢えとマラリアでやられてしまったのである。
あとになって、その道は歩きよいルートになった。白骨が尊い道しるべになったからである。白骨たちは、足を投げだして木にもたれかかり、あるいは、指で水筒のセンをにぎり……息をひきとったときのままの姿で、あとからきた戦友を手引きしていたそうだ。>

 著者が、足かけ4年を過ごした西部ニューギニアを離れ、ようやく帰国の途につくのは、終戦の翌年、1946年5月28日です。この体験記を書くまで15年近く、頭の中では何度も何度も、自らの体験が振り返られたことでしょう。その度に、よけいなものが取り除かれ、言葉が磨かれ、物語の本質が――道しるべになった白骨のように――洗い出されていったと思われます。ムダのない、きびきびとした語り口調の文体です。

 ちくま文庫には巻末に、加東大介さんの長男である加藤晴之さんのエッセイが付いています。執筆中の父親の横顔が描かれています。

<ぼくが小学校から戻ると、仕事を家に持ち込まない主義だったのか台詞(セリフ)の稽古すらほとんど自宅でしないような父が、文机(ふづくえ)の前で眼鏡をかけ万年筆を持ちながら原稿に向かっている姿をしばしば見かける日々が続いていた。
 本業の俳優の仕事が猛烈に忙しい父、しかし家にいる時は決まって文机の前にいる。手には万年筆。ペン先が動いている時の真剣な眼差し。ペン先が止まった時の、庭を見るでもなく眺めているような遠いまなざし。今までに自宅で見せたことのないような表情の父がいた。>

 こうして紡ぎ出された文章が語るのは、あの戦争の痛ましさ――なんともやりきれない虚しさ、愚かしさです。運よく生きて帰った者が、亡き戦友たちの冥福を祈る、痛恨の思いがほとばしります。

 たまたまあの時代にめぐりあわせ、遠い戦地に送りこまれた兵士の悲しみ。理不尽な命令や不条理な運命への得もいわれぬ怒りや無念さが、行間にたぎります。解説の保阪正康氏が「地に足の着いた重い反戦書だといいたい」と指摘するのは、まさに至言です。

 一方で、この物語の面目躍如のおもしろさは、著者たちが真剣に取り組んだ「演芸分隊」の活動にあります。希望のない兵士たちに、それがどんなに熱烈に受け入れられたか。ド素人の俳優や舞台のにわか裏方を夢中にさせ、目の色を変えさせたものは何だったのか。それが、細やかに生き生きと描かれます。

 明日をも知れぬ兵士たちは、すがるように芝居を求めます。

<マノクワリにおいてきぼりを食っている支隊の兵員は、どう転んでも、このまま、ここで死ぬにきまっていた。それこそ、ほんとうの“必死”である。命のジリ貧だ。>

 そうした状況下で、「芝居を見ることによってせめて故国をしのび、肉親の面影を見出そうと、足をひきずり、杖をつき、たがいに励ましあいながら集まって来た将兵たち」(あとがき)の残像が、著者を衝き動かし筆を執らせた最大の動機であったことは間違いありません。

 上官から加藤班長は託されます。

 「しっかりやってくれよ。きみたちは演芸をやってるだけじゃないんだぜ。ここの全将兵に生きるハリを与えているんだからね」

 「娯楽じゃない。生活なんだよ。きみたちの芝居が、生きるためのカレンダーになってるんだ。演分(演芸分隊・引用者注)は全支隊の呼吸のペース・メーカーだぜ。そのつもりでガンばるんだ」

 演芸分隊も“必死”でした。

<二十年四月から二十一年五月まで、わたしたちは、例外を除いて、ほんとうに一日の休みもなく、舞台に立ちつづけた。
 マラリアで四十二度台の熱をだしていても、足が立ち、声が出るかぎりは、舞台を勤めた。どうしても動けないものがいた場合は、一人二役でもやって、幕をあけた。>

<いずれにしても、わたしたちは休演などできる筋合ではなかった。こっちも命がけであった。
 しかし、人をよろこばせられる仕合わせが、演分隊員を勢いづけてくれた。>

 女形役者が人気を博したのも、すべて望郷の想いにつながっていました。女形への憧れは、故郷に残してきた母や妻たちへの肉親愛そのものでした。長谷川伸の名作『瞼の母』で、番場の忠太郎を演じた著者が、「上下の瞼をピッタリ合わせ、ジッと考えりゃ、会わねえむかしのオッカサンのおもかげが浮かんでくる。会いたくなったら、目をつむろうよ」とセリフを言って場内をふと見ると、ほんとうに目をつむっている観客が多かったといいます。

 「ワルバミ農場隊」と呼ばれるイワクつきの部隊の話も凄絶です。もともとは東部ニューギニアの独立工兵隊。ところが、「軍は負け戦さの味を知っているこの人たちを内地に帰そうとはしなかった」ため、山奥の「いちばん土地のやせた、気候の悪い場所」に隔離同然に置かれます。

<餓えて栄養失調、あるいはマラリアにかからせて、ジワジワと死滅させるつもりだったらしい。その方針どおり、この隊の減りかたは飛びぬけていた。>

 それだけに、生き残った人たちは人一倍、演芸への執着が強く、山奥から間道を抜け、野宿し、河を泳いで渡り、疲れ切った足どりでトボトボと芝居を見に来たのです。著者は彼らにできる限りの便宜をはかります。

<命がけで見にきてくれる。あんなにもよろこんで……。このとき、わたしの胸をしめつけたのは、役者とは、なんとありがたい仕事なのだろうという幸福感であった。
 わたしは、つくづく、こんなにも人によろこばれる役者稼業を、一生つづけよう――と心にきめた。>

 集まったにわか役者たち、裏方の多彩な表情も、著者が鮮やかに描き分けます。それぞれが真剣に芝居に取り組み、心意気のほどを示します。

 そしてハイライトは、言うまでもなく、舞台に「雪」を降らせる場面です。

 「ターザン映画を想像していただけばいい」という熱帯のジャングル。「高い樹が、ビッシリ繁った葉をつけて」頭上に覆いかぶさり、昼間でもほとんど陽は差しません。

<地面はいつもぬれていて、歩くと足をとられた。梅雨どきのドロンコ道みたいなものだ。ドス黒い、イヤな色の土である。
 一年じゅう、暑くてジトジトして、肌がサラッとするときはなかった。>

 司令官が加藤班長に語ります。「ここは一年じゅう、いつもこんな気候だ。兵隊たちは秋や冬をほしがっていると思うのだよ。雪を見せてやってもらいたいんだ」

 今わの際に「なにか、ほしいものは?」と聞かれ、かすかに首をふりながら、かすれた声で、「雪をみたいなあーッ」と言って死んでいった病兵の記憶が、加藤班長の中にありました。

 パラシュートを何枚も敷いて雪景色をつくり、病院の脱脂綿で木やカヤ葺き屋根に雪を積もらせ、降る雪は三角に切った紙で――。演出にも工夫をほどこし、雪の効果が最大限に発揮されるように知恵を絞ります。

 そして、舞台の大詰の幕があきます。

 「雪だアッ!」――叫びがいっせいに爆発し、「ガアーンと、大きなドラでも鳴ったような」どよめきと歓喜の声があがります。懐かしい内地の雪景色に恋い焦がれていた客席は興奮の頂点に達します。

 ところが、何日目かの公演で、大詰の幕があがりきっているのに、いつものどよめきがさっぱり起こりません。いくら待ってもしんとしている。不審に思って、舞台の袖から客席を見ると、

<みんな泣いていた。三百人近い兵隊が、一人の例外もなく、両手で顔をおおって泣いていた。肩をブルブルふるわせながら、ジッと静かに泣いていた。
「きょうの部隊は?」
「国武部隊ですたい」
「どこの兵隊ですか?」
「東北の兵隊とです」
 聞いたとたん、わたしもジーンときてしまった。篠原さんもソッポをむいた。>

 やがて終戦の日が訪れます。けれども、帰国のその時が来るまでは、仲間がひとり減り、ふたり減りしていく中で、7000人の将兵の心をつなぎとめる術(すべ)として演芸はますます重要になります。

 著者の実姉である俳優・沢村貞子さんが「後記」の文章を寄せています。復員して、家族のもとまで、どうにか辿りついた加東さんは、倒れてそのまま人事不省に陥ります。悪性マラリアの再発でした。

<十日ほどして、やっと危険な状態から抜け出すことの出来た彼は、のぞき込む家族たちに、嬉しそうな声で言った。
 「ボク……ニューギニアで、芝居してた」
 まだ、熱があるらしい――と皆、顔見合わせて不安だったが――日がたつにつれて元気をとり戻した彼は、戦地の飢えの辛さより「マノクワリ歌舞伎座」の話に夢中だった。私たちは、感動して――声も出なかった。>

 沢村さんの『私の浅草』(平凡社ライブラリー)でも、「役者バカ」と呼ばれた加東大介。1975年7月、「姉の私をさしおいて……」64歳で逝ったこの弟を偲び、「後記」はこう締めくくられます。

『私の浅草』


<彼のただ一冊の回想記「南の島に雪が降る」を、いま読み返してみると、弟・加東大介が精いっぱい歌った鎮魂歌のような気がして……胸が、いたむ。>

 いまこそ読まれるべき一冊なのではないでしょうか。

*加東大介さんは、『羅生門』 『生きる』 『七人の侍』 『用心棒』など黒澤明作品の常連です。『七人の侍』では、ラストシーンで志村喬がつぶやく「今度もまた、負け戦だったな」「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」の有名なセリフの受け手になります。生き残った3人の侍のひとりでしたが、最初に鬼籍に入りました。名脇役として鳴らし、東宝の「社長シリーズ」「駅前シリーズ」の軽妙な演技、大映の「陸軍中野学校シリーズ」(この草薙中佐も忘れがたい!)などはDVDで視聴可能ですが、最高の当たり役、主人公「株屋のギューちゃん」をやって大ヒットした獅子文六原作『大番』がDVD 化されていないのは、残念です。

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