青ブタシリーズ[感想・考察]
※アニメシリーズ13話、映画3作を観た「感想・解説」です。
『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』
「優しさ」とは何か。
その答えが、たくさん詰まっている作品。それがアニメ『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』です。主人公の「咲太」は、思春期の心の葛藤から起きる不思議な現象「思春期症候群」に悩まされていました。
そんな時に出会ったのが、牧之原「翔子さん」です。彼女の言葉で癒やされ、救われた咲太は、彼女のように「優しく生きる」ことを自分に誓います。
誰よりもたくさん悩んで、たくさん傷ついて、たくさん泣いたからこそ、できる生き方だと私は思いました。人格が形成されていく学生時代。そこでなににも疑問を抱かず、親や教師、同級生たちと同じように考えていたのでは、決して「優しくなる」ことなんてできません。
流れに逆らうこともなく、社会の傀儡として生きる人生から、脱却したい。
咲太は、そう強く思ったからこそ、他人から嫌われることを受け入れ、苦しい現実と向き合いながら、自分らしく生きていくことを誓ったのです。そうして、やっと「ありのままの自分」を受け入れられたことで、他人を受け入れられる「優しさ」が手に入ったのだとわかります。
忖度のない、ありのままの言葉。そして、ニュートラルな考え方。言葉だけでなく文脈で会話する柔軟性、理解力。それらが、この作品から「優しさ」として、ヒシヒシ伝わってきます。
「優しくありたい」と思う人は、ぜひご覧ください。
生きる意味って、なんですか?
真剣に人生と向き合っている人ほど、悩み、苦しむ課題があります。それは、「生きる意味がない」ことです。それがゆえに、人生をどのように生きればいいのかわからず、今もなおツラい思いをしている人は多いでしょう。
しかし、いくら探せど、生きる意味は見つからない。固執すればするほどに、そのストレスは増していくばかり。精神科医の樺沢紫苑先生は、「生きる意味がないので死にたい」とよく相談されるそうです。
そこに、ひとつの答えをくれるのが、アニメ『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』(通称『青ブタ』、以下『青ブタ』)に登場する、牧之原「翔子さん」です。彼女は、自身の生きる意味について、このように答えています。
人生は、やさしくなるためにある。
とは、妙に納得させられる答えです。
長く生きるにつれて、人生のツラさや大変さを経験していきます。そこで初めて、他人の痛みが理解できるようになります。「あのとき、あの人はこう思っていたんじゃないだろうか」「それなのに、わたしはなんてヒドいことを行ってしまったんだ」と、自分の発言を反省したりもします。
そうしてようやっと、他人の感情に寄り添うことができるようになっていきます。
だから、やさしさにたどり着くために、今日を生きるのだと。今日、苦しみ、ツラい思いをしている人の心に寄り添えるように。
これほど、愛情の溢れた人を私は知りません。そして、自分本位ではない「やさしさ」に出会ったのも初めてです。そう思わせてくれたのが、牧之原翔子というキャラクターであり、『青ブタ』という作品です。
この世には「生きる意味」などありません。それと同時に「死ぬ意味」もありません。ただ、今ここに生きているという事実があるだけです。だからこそ、「好きに生きればいい」と、私は思います。しかし、翔子さんのように、自分なりに生きる意味を見つけられば、そのときは人間的に大きく成長できるのだろうと思います。
ただ、一方で「好きに生きろ」と、自由を与えられるほうがツラい人がいるのも事実です。
親や教師、世間の意見やルールに従って生きてきた人は、自分と向き合ったことがありません。なんとなく周囲に合わせて、学生時代を過ごします。それが、社会に出た途端、急に、自由になるものですから、パニックになります。
いきなり、自分の意見を求められたり、自分のやりたいことを探せと言われても、これまでやってきたことがないのですから、検討もつきません。しかも、その見つけ方を誰かが教えてくれるわけではありませんから、路頭に迷うわけです。
そんな人のために、翔子さんは「人生は、やさしくなるためにある」と言ったのではないでしょうか。ネタバレになりますが、作中で主人公の咲太が、生きる意味を見失い、路頭に迷っていた先で、翔子さんと出会い、その言葉をもらうことになるのです。
生きる意味に、だいそれたことは必要ない。等身大の自分で、他人を思いやって生きられれば、それでいい。もし、何か生きる意味があるとしたなら、ほんの小さなことでもいい。小さくてもいいから、誰かのためにありたい。
そう思えるだけで、自分の好きに生きられない人も救われるのではないでしょうか。
私は、日頃からコミュニケーションの学びとして『青ブタ』をオススメしていますが、「生きる意味」ひいては「自分自身」と向き合うためにも、オススメしたいと思います。
聖地巡礼を終えて
彼らには日常があり、彼らは日常にいる。
アニメ『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』本作品は、神奈川県藤沢市が舞台になっているので、聖地巡礼をしていても「特別な場所」は、1つもありませんでした。普通の駅に、普通の観光地、普通の住宅街と、普通の繁華街。どれも普通です。
どこも「あ、ここなの?」と呆気にとられるのですが、それと同時に、登場人物たちがスゴく身近に感じられるんです。それが、より一層ドキュメンタリーのような感覚を強めてくれます。
登場人物たちが体験する悩みも、特別なものではないと気づかされます。思春期の学生にかぎらず誰でも似たような悩みを抱えて、苦しみながら生きている。もしかしたら、すぐ隣のひともそうかもしれない。もっと言えば、自分自身も気づかないうちに、同じ悩みを抱えているのかもしれないとも感じます。
たとえば「低い自己肯定感」と「高い承認欲求」によって、心が分裂していくことがあります。自分自身が嫌いなのだけれど、それがよくないと思っているので、SNSなど他人からの評価が過剰に気になってしまうという具合です。
そうした気持ちは、このSNS時代においては、多くの人にあるのではないでしょうか。
だからこそ、アニメ『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』を見て、登場人物たちがどのようにジレンマを乗り越えていくのかを学べば、私たちの心も軽くなると思っています。
とくに、主人公の咲太の言葉には救われる人が多いでしょう。まだご覧になっていない人は、ぜひ観てください。アニメが気に入れば、映画『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』も合わせて、ご覧ください。号泣必至です。
『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』
執筆中…
『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』
クリエーターの本気を見た!!!
「完全にかまされた!」それが映画『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』を見終わった感想です。ハッキリ言って、アニメ版『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』を見ていない人には、苦しいでしょう。
初見の人をかなり置き去りにした作り、そしてコレまでとは違って「現象」がなに1つ起きないあたり、完全に冬に公開する『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』の「前フリ」としか思えません。
もちろん、前作の「ここ解決できてないよね」を、スッキリさせた映画ではあります。しかし、全然それだけではないでしょう。
ここまで潔く「フリ」として1作を使える「根性」というか「クリエイター魂」を感じました。本作に、ネタバレもクソもないので、ガッツリと感想を書こうと思います。いや、それでも控えめに書きます。全解説すると、途方もない文量になりますので。
本作の魅力は、完全に「メンタル疾患」を題材にしているのに、そういった言葉を一切に使わない点が素晴らしいのです。つまり「描かれていない点」が圧倒的に多い。しかし、その「潔さ」が、世の中の「残酷さ」や「厳しさ」を描いているとも言えます。
本作においては、「学生」が主人公なのにも関わらず、ほぼ「両親」が描かれません。ちなみに、前作からも確執があった親子関係は解決しないまま、完全に描かれなくなっています。
親であろうと、所詮は「他人」でしかない。そして、自分らしく生きるために障害となるなら、切り捨てていい。そうしたメッセージを感じざるを得ません。また、主人公の母親は、心神喪失状態ですが、その解決もなされません。メンタル疾患になってしまえば、治らないこともある。そうした「残酷な答え」が描かれているようにも思えるのです。
主人公たちは学校に通っていますが、大多数の学生たちは、両親と同様に存在がかなり希薄です。つまり、彼らは「心の葛藤」も持たずに、ただ言われたことを鵜呑みにして、何も疑わず、他人の言いなりや「同調圧力」に従って生きているだけの傀儡にすぎないのです。本作の言葉で表すなら「空気だけを読んで生きている人間」です。
そうした人間が9割9部の世の中で、心の葛藤と闘い、その空気に流されず、自分らしく生きたいと突き進んでいく主人公を軸にした人間関係が素晴らしいのです。
ちなみに、今作のテーマは確実に「ゼロヒャク思考」でしょう。主人公「咲太」の妹、「花楓」は、過去のイジメにより「解離性障害」を引き起こし、やっと「解離性障害」から立ち直ったところ。
現在は、まだまだメンタル的に不安定で、どう見ても社会不安障害です。なので、常に「ゼロヒャク思考」に囚われています。好きなのは「過去の自分」か「今の自分」か。そもそも「好き」なのか「嫌い」なのか。進学先は「全日制」なのか「定時制」なのか。
そのアンサーに「どちらの自分も好き」「好きでも嫌いでもなく普通」などの選択肢があることを本作は示しています。
そうした解答を連発するのが、主人公の咲太です。メンタルに詳しくない人が見れば「達観しきった学生」としか思わないかもしれませんが、私からは「精神科医」や「アドラーの申し子」くらいに見えます(笑)それくらい作者はメンタルに精通しているのでしょう。
また、ゼロヒャク思考を生み出した原因「同調圧力(ストレス)」から逃れ、「自分らしくあること」「ありのままの自分を受け入れること」の大切さを本作は教えてくれます。
逆に言えば、自分を受け入れられないだけで、どれだけ恐ろしいことが起こるのかを暗に示しているのです。自分の生き方を受け入れるということは、他人の生き方も受け入れるということ。つまり、前者ができないと後者もできない。だから、狭く偏った考え方になり、どんどんメンタルを悪くしてしまいます。その残酷さが、本作の描かれない部分にあります。
それ以外にもあらゆる視点で、本作は見ることができますので、多くの人が共感できる作品ではないかなと思います。しかし、普段から人間関係について、深く考えたこともない人にはまったく理解できない作品ですので、絶対にオススメしません。
逆に、心理学や精神医学に興味のある人や、心の悩みを持つ人や、メンタル疾患の人には、ぜひとも見ていただきたい作品です。
まずは、アニメ版『『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』と前作『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』を「Netflix」か「Amazon prime」で見てみてください。とにかく泣けます。アニメから映画を連続で見た私は、嗚咽が漏れるほど泣きました。ぜひ。
絶対に観ないでください。
映画『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』を鑑賞してきました。これは人間関係に悩んだことがない人は、絶対に理解できない作品です。また他人の感情の機微に疎い人、つまり想像力の乏しい人にも理解するのは厳しいでしょう。
なので、映画を何も考えずに観たい人には、絶対にオススメできない作品です。
逆に言えば、人間関係で悩んだことがある人や、人間の心理を深く考察したことがある人にはうってつけの映画です。
とはいえ、本作は次作の「前フリ」でしかありません。そして、アニメ『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』と前作『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』の続きです。
アニメ版や前作とは違って、何も起きません。
なので、期待して観に行くと、かなり退屈な映画になってしまいます。しかし、アニメ版と前作を観た人にとっては、どのシーンも思い出のシーンとして楽しめます。そして、気になっていた「かえで」ではなく「花楓」の心情がリアルに楽しめます。
嘘がない。ドキュメンタリー映画を観ているような、そんな作品。綺麗事もなければ、忖度もない。そんな素晴らしい作品は、『青ブタ』以外にはないでしょう。
ですので、アニメ版と前作を観た人は、絶対に観てください。
『青ブタ』人気は、スゴい。
先日、観に行った映画『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』で「これぞ青ブタだ!」と思ったところは、映画ではなく、劇場のグッズ売り場でした。
公開日なのに、劇場内はガラガラ。ほとんど認知度がないようです。しかし、グッズ売り場は、完売している商品ばかり。これには驚きました。なんとも『青ブタ』らしい、作品の内容とダブる出来事なのでしょう。
「否定してくる多数派よりも、肯定してくれる少数派を大切にすればいい」「自分の大好きなたった1人に認められればそれでいい」「信頼できる人が1人でもいれば十分」そういった価値観が散りばめられているのが本作ですが、まさしく『青ブタ』ファンはそういう考えの少数派が集まっているように感じました。
なんともステキな体験でしょうか。顔も名前も知らない、どこかの誰かと、同じものを愛し、似た価値観で生活をしている。「自分だけじゃない」そのように作品以外からも伝わってきます。
少数派の人間だからこそ、寂しさはあります。しかし、同じように悩んでいる人がいると感じられることで、寂しさを受け入れることができて、多数派よりも強く生きられるようになるのでしょう。
やはり、『青ブタ』は素晴しいですね。
『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』
アニメ版を観てこそ、楽しみが最大化される!
青ブタシリーズ最新作『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』を公開初日に楽しんできました。
本作は、どう考えても「心の病気」を題材にした作品。それを「不思議な現象」に置き換えて「思春期症候群』と名付け、登場人物たちがトラブルを乗り越えて行くことで、心の問題も克服していきます。
それが「心理学」や「精神医学」の知識がない人や、難しいことがわからない人にもわかりやすく描かれています。
映画版の一作目『青春ブタ野郎は夢見る少女の夢を見ない』は、アニメ13話の伏線すべてを回収した最高の作品であり、かなり複雑な内容になっていました。理解に苦しむ人も多かったのだと思います。
しかし、本作で、そのアンサーがエンドロールで語られるなど、かなりわかりやすく描かれていました。6月に公開された『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』も同様に、かなり親切にわかりやすく描かれていました。
本作の魅力は「緻密な伏線」と「繊細な心理描写」です。なので、アニメ版を観ることで、「登場人物たちの背景」や「セリフの意味」などがわかって、より一層楽しめる作品なのです。そして、原作はラノベですから、そちらを見るとより一層楽しめるのだろうと思います。
今作も「謎の登場人物」がいて、アニメ版のみ観ている私には「次の伏線きた〜!」と歓喜しておりましたところ、なんとアニメ新シーズンの制作が決定したとのこと。ヤバい!
はい。ということで、アニメ版13話は「2話で1つの物語」になっているので、展開も早く、どんどん引き込まれますから、何の苦もなく一気に観られます。そこから映画版の『青春ブタ野郎は夢見る少女の夢を見ない』まで続く怒涛のストーリーは、涙なしには観られない「号泣必至の作品」です。
アニメ版を観る際は、ティッシュまたはハンカチをお持ちのうえ、ご覧になってください。
私が青ブタシリーズを好きな理由
マジックショーを見て、気づいた…。
『青ブタ』シリーズが好きなのは、マジックと同じだからだと。当たり前ですが、マジックでは「不思議な現象」が起きます。人間というのは、「不思議な現象」が起きると「理由」を探す生き物です。それは、おそらく「知らないこと」は「危険」と直結するからでしょう。ほら、このように理由を詮索するのです。
なので、「タネ」の詮索が始まるわけです。しかし、すばらしいマジシャンは「不思議な現象」に「理由づけ」をおこないます。すると、観客は「納得感」があるので、「タネ」の詮索をしなくなるのです。
『青ブタ』は、まさしくコレと同じ。「思春期症候群」という「不思議な現象」が起きるのには、もっともらしい「理由」が必ずあります。だからこそ、違和感を感じることなく、藤沢にいる普通の高校生に起きているドキュメンタリーのように感じられるわけです。
こうした気づきがあるたびに、「遊び」はミックスしたほうがいいなと感じます。「マジック鑑賞」に「アニメ・映画鑑賞」さらに「野球」や「サウナ」など、混ぜれば混ぜるほど、いままで気づかなかったことが、ふと浮かんできたりしますね。
遊びは、すばらしい。
私の親友は、咲太。
先日、友人と映画『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』を観に行った。その後、食事をしながら感想を話していたら、主人公「咲太」の交友関係が理想だという話になった。
そして、友人は「咲太みたいな人間は俺くらいやな」と言った。
あまり言いたくなくて、本人には言っていなかったが(笑)、以前からその通りだと思っていた。彼は咲太のように、柔軟な思考を持っていて、とにかく忖度がない。懐が深い。いつも自分らしくいるし、無理をすることもない。
しかし、友人のためなら時間もお金も労力も使って、遠くまで会いに行ったりする。私が福岡にいる時に「キャッチボールをしよう」と連絡したら、大阪からキャッチボールをしにやってきたくらいだ。
多くの人は、自分かわいさに他人のために、そこまではしない。「お金がかかる」「休みが取れない」「めんどくさい」などの「些末な理由」で、何よりも大切な人間関係を蔑ろに扱う。
アニメシリーズ『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』の1話で、咲太は桜島麻衣から「きみ友達いないでしょ」と言われる。それに対して「友達なら2人もいます」と言うシーンがある。続けて「そいつらと一生、友達すればいいんだし」とサラッと言ってのける。
アニメでは、なにげない会話なのだが、非常に重く突き刺さる。「2人も」と「一生」このセリフは、私にとってスゴく響いた。まったく同じ考えだからだ。私の場合、そう考えるゆえに、人間関係に対する姿勢は、シビアにならざるを得ない。
しかし、咲太にはその気負いがない。どうすれば、その領域にまでいけるのか。スゴいとしか言いようがない。
そして、どうやら私の友人にも気負いはないようなのだ。
なので、私はこの映画を観て改めて、友人の素晴らしさを実感した。誰にでも紹介したくなる、自慢の親友だ。
さて、私の人生史上、最も大好きなアニメ『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』は、「Amazon Prime」でも「Netflix」でも観られる。もちろん、映画『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』もあるので、続けて観てほしい。
観ていただければ確実に、「人間関係の大切さ」を改めて実感できるだろう。
好きな作品は、絶対に聖地巡礼しろ!
大好きな作品、青ブタシリーズ。この作品の聖地巡礼がスタンプラリー形式でやっていたので、今年の6月末に大阪から「神奈川県藤沢市」まで行ってきた。
こちらのアニメでは、事あるごとに登場する「七里ヶ浜」はもちろんのこと、アニメの聖地はほとんどすべて回っただろう。なにせ二日間で4万5千歩も歩いていたのだから、驚きだ。
そうするとアニメの見え方がまったく違う。より一層リアルなものであり、登場人物の1人1人がすぐそこにいるように感じるのだ。つまり、共感しやすくなる。
おまけ
「スーパーカップ 炎の豚野菜ラーメン」は、うまかったです。辛い食べ物が得意ではない私ですが、美味しく食べられる「ちょうどよい辛さ」でした。そして、スーパーカップのスープが美味しかったです。
思春期症候群とは?(執筆中…)
作成中…
なぜ、咲太だけが麻衣さんを認識できたか?(執筆中…)
それは、すでに咲太が「思春期症候群」を経験していたからでしょう。妹の花楓に起きた事象と向き合い、苦悩していた咲太だからこそ、野生のバニーガールと出会うことができたのです。
苦悩を乗り越えたことのある人だけが、理解できることってありますよね。それは「病気」も同じです。健康を気にもかけない人は、病気にならないと、健康のありがたさに気づくことはありません。なので、多くの人にとって、恵まれた環境にいる麻衣さんが、苦しんでいるとは思えないわけです。だから、無意識に空気を読んだ行動を取り、ツラい思いをして苦しんでいる麻衣さんに助けることはおろか、認識すらできないのです。
また、「ツラいのはわかるよ」などと軽く言われると、メンタル疾患を経験した人はとても嫌がる人が多いです。それと同様に、麻衣さん自身も、他人から簡単に理解さたくない思いもあったのでしょう。悩んだこともなく能天気に生きている人に、「気持ちはわかるよ」なんて、誰も言われたくないですよね(笑)
咲太にも麻衣さんが見えなくなった理由は?
麻衣さんの諦め。他人に頼れない弱さ。咲太を苦しめてしまうと思っていたこと。
田舎出身がコンプレックスな古賀(執筆中…)
執筆中…
空気を読む
・社会の傀儡
古賀朋絵
・他人に迎合
→その根源が「嫌われたくない」
・現状の否認
・その場しのぎ
・世間体と体裁
・田舎と都会とイジメ
・今の自分と本当の自分
・自己イメージの時間軸
・目の前で起きている事象よりもスマホが大事
咲太「一人は一人でラクだぞ」「周囲に合わせる必要はないし」「なってみれば思ったほど寂しくない」
古賀「一人は恥ずかしい」「みんなからアイツいつも一人だって思われるのはイヤ」
咲太「ウソが終わったら友だちになってくれ」
古賀「しょうがないから親友になってあげる」
古賀の恋心。
咲太「よくがんばった」
すべて巻き戻る
桜島麻衣
・ほっぺキス(交際)
麻衣さんとの相合い傘。咲太の肩が濡れている。
→コタローはひとり暮らし
→翔子ちゃんとの出会い。
双葉のテーマは「孤独」と「承認欲求」(執筆中…)
執筆中…
双葉のテーマは「孤独」と「承認欲求」
孤独の終着点は「死」
咲太「自分のことは嫌いでいい」「まっこんなもんだろ」
咲太への甘え、国見への好意と不安
咲太へ強く当たる理由
自分と同じように1人の人がいて、安心できた。そして、咲太にはコミュニケーションにおいて気負いもなければ、他人に対して「先入観」や「期待」がない。だからこそ、双葉も自然体を見せることができたのでしょう。
そして、その関係に甘えるがゆえに、キツい口調になってしまう。距離感が近いからこそ、そうなっている。ちょうど、親子関係に似ている。そして、本来、キツい態度を取ってしまう場合、自己防衛の意味がある。それは、距離感が近い咲太だからこそ、自分の「隠し事」を見破られたくないと思っていたからなのかもしれない。
実際には、思春期症候群が改善したあとも、咲太にはキツい口調だが、それは「甘え」によるものだろう。
嫌われる勇気
「他人に嫌われないようにしよう」「迷惑をかけないようにしよう」がコミュニケーションの主軸になった人は、他人に迎合するしかなくなります。その結果、「嫌われたくない気持ち」と「自分らしくありたい気持ち」、「孤独への不安」と「が衝突して、思春期症候群になってしまいます。
「量子もつれ」とは?
「局所実在性の否定」とは、物理学、特に量子力学の分野で使われる概念です。この考え方を素人にもわかりやすく説明するために、少し身近な例えを用いてみましょう。
まず、「局所実在性」という言葉を分解して考えてみます。「局所」とは、物事が特定の場所に限定されていることを意味します。例えば、あなたが自宅にいるとき、あなたはその場所に「局所的」に存在しています。「実在性」とは、何かが実際に存在し、確かなものとして認識される性質のことです。
従って、「局所実在性」とは、ある物体や現象が特定の場所に実際に存在し、その性質や状態がその場所に依存するという考え方です。日常生活では、ほとんどの物体や現象がこの「局所実在性」の原則に従っています。例えば、リンゴは木に実り、その場所で色や形が定まります。リンゴの状態は、それが存在する場所によって決定されるのです。
しかし、量子力学の不思議な世界では、この「局所実在性」の概念が通用しません。量子粒子(例えば、電子や光子)は、特定の場所に限定されず、いくつかの異なる状態を同時に持つことができます。これは「重ね合わせ」と呼ばれる現象です。さらに驚くべきことに、量子粒子同士が「もつれ」という特殊な関係を持つと、それらの粒子の状態は、たとえ離れた場所にあっても互いに影響し合います。これは「非局所的」な現象と考えられ、局所実在性の概念に反します。
「局所実在性の否定」とは、このような量子もつれの現象が示す通り、粒子の状態や性質が特定の場所に依存しないこと、そして離れた場所にある粒子同士が瞬時に影響し合うことが可能であることを意味します。これは、日常の直感や常識とは大きく異なる、量子力学独自の不思議な特性の一つです。
簡単に言うと、「局所実在性の否定」とは、量子粒子が特定の場所に限定されず、予想外の方法で互いに影響を及ぼすことができる、という量子力学の基本的な原則のことです。この原則は、私たちの日常経験とは異なる量子世界の奇妙な振る舞いを理解する上で重要な役割を果たしています。
上方比較が人を不幸にする(執筆中…)
姉との比較。常に他人と比べられる。相手の土俵での勝負。一生勝てない。学習性無力感。無価値感。生きる意味を見失う。最悪の場合、自殺。
豊島のどか
執筆中…
・パニック障害・発作
・他者視点
・両親の代理戦争
・入水自殺(咲太の前)
花楓とかえで(執筆中…)
・解離性障害と記憶喪失
・なぜ、「思春期症候群」ではなく「解離性障害」とハッキリと描かれているのか?
・自己受容
・他者からの容認
・母親のメンタル疾患
・咲太の胸のキズ
・翔子さんとの出会い
・親世代の理解不足とメンタル疾患の闇(偏見と差別)
・こみちゃんとの再会(キッカケ)
・咲太のジレンマ
・かえでを失った悲しみ。
翔子さん「人生は優しくなるためにある」「昨日のわたしよりも今日のわたしがちょっとだけ優しい人間であればいいなと思いながら生きています」
かえでノート
咲太「今ここにいるのは今のかえでだから」←最高
父「かえで ゆっくりでいいんだぞ」←最悪
咲太と父親は対比的存在
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