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じぶんのメモ帳を読み返して、調べてみる、考えてみる、耕してみる。

深夜の時間帯に文章を書く頻度が増えてきた。朝方まで、何を書こうか、あーでもない、こーでもないと、繰り返し考えている。「下書き行」になっている書きかけの文章には、手がつかない。今日も気乗りがしない。

フラッシュアイデアとして、こういう状況の時、先日気になったことについて、iPhoneのメモ帳に打ち込んだ、じぶんのメモを見返して、それを書き出してみたらどうだろうかと思いついた。

案外、こういうメモの中に、個人的に、書く動機になりそうなもの、伝えたいと思うものがあるかもしれないからだ(ない可能性もある)。

1/13(日)のメモ。
・ロッテガーナチョコレート 15秒
ピンクバレンタイン

・孤独のグルメ
じぶんで目玉焼きをつくる。食事をじぶんでたのしくする。工夫する。焼肉との違い。めんどうくさいことを、お客さんにしてもらう。セルフ。会計セセルフ。じぶんでお金を管理する。パン屋、オリジン、スーパー
餃子屋のハイボールをじぶんで入れる。

・ソロキャンプ
洗練されてなくてもいい。カレーヌードル。

うん、じぶんで過去メモした内容を、書き出してみても、ちょっと意味不明だ。たぶん、側から見たら、さらに意味不明だと思うだろう。

ただ、咄嗟にメモをしたぐらいだから、当時のぼくの琴線に触れるものがあったのだと思う。


ロッテガーナチョコレート15秒 ピンクバレンタイン」は、Twitter広告でたまたま見つけた動画のことだ。

これから関わる仕事にも関係がありそうな媒体だったので、気になってメモしたのだと思う。で、メモした時は、ちらっと動画を観ただけなので、動画をちゃんと観てみた。YouTubeの方は、30秒verだった。音楽と映像が、テンポとリズムにあうだけで、観ている側のテンションがあがるなぁと、感じた。色使いも、鮮やかで、ファンシーでおしゃれ。


話は変わって、ここ数年、動画の尺が長いと、観ているだけで、お腹いっぱいになってしまうなぁと感じることがよくある。そして、冒頭内容のつまらなかったり、フックになるものがないと、途端に注意散漫になる(もう、スマホが手元になると、すぐ余所見をしてしまう)。ぼくは、最近、映画やドラマを、長時間座って観るのにストレスを感じる(没入感があって、作品世界に浸れるものは別、こればっかりは、好き嫌いがあると思う)。

個人体内の、気持ちいい、不快と感じるセンサー(消費時間感覚)が変わってきているのだろうか。いや、そもそも人は、そんなに長時間、見せられること、時間を拘束されることに、適してないのかもしれない。


孤独のグルメは、先日録画してあったドラマ『孤独のグルメ 2019大晦日スペシャル 緊急司令!成田〜福岡〜釜山 弾丸出張編!』を観た感想メモだ。

『孤独のグルメ』は、主人公・井之頭五郎(松重豊)が、仕事の出張先で、出会ったお店のご飯に対して、ヒトリで向き合う姿が延々と描かれるドラマだ。主人公のモノローグで、ずっと、今まさに食べているご飯について、感じたこと、思ったこと、考えたことを、ドラマ中、喋っている。

ぼくは、井之頭吾郎(以後、吾郎さん)が、うれしそうに食べている表情や本人のコメントに対して、「吾郎さん、今日もよく食べるなぁ、たのしそうだなぁ、いいなぁ」とニヤニヤして観ているのだ。人がうれしそうに食べている姿を観ていると、こころが和む。そして「今日のご飯、じぶんだったら、何するかなぁ」と献立を考えたりして、たのしみが増える。

不思議なのが、吾郎さんが食べたお店のご飯はたしかに、おいしそうで食べてみたいと思うのだが、わざわざ、そのお店に行ってまで食べに行きたいと思わないのだ(もしかしたら、旅先の近くに、そのお店があれば、寄ってみたいと思うかもしれない)。

どちらかというと、あの食べている雰囲気を、じぶんの生活の中でも、演出できないか、空間をつくれないか考えたり、想像したりする。こういう生活つくれないかなぁって。

吾郎さんの生き方、あり方について、共感しているのだ。個人のものさしでつくる生活設計の自由さと創造性を欲しているのだ。情報がたくさんあって、誰かが勧めてくれた、世の中が用意してくれたものさしに、少し飽きてしまった、物足りなさを感じている人にとっては、個人の生活が明るくなるドラマだと思う(これも、1つの生き方で、時代が変われば、受け入れ方も変わってくる)。

釜山編で、吾郎さんがナッコプセ(タコのピリ辛炒め)を、現地のお店で食べるシーンが印象的だった。吾郎さんは、いつも食べているご飯のシメの部タイミングになると、ギアかけ始めて、追い込みモードに入る(ドラマ音楽もそういう演出になっている)。

ナッコプセのシメにうどんを入れようと考えていた吾郎さんが、他のテーブルのお客さんのシメを見て、こころ揺さぶられる。そのお客さんは、目玉焼きをのせて、ナッコプセを食べていたのだ。観ているぼくも、「これは、おいしいよ!」と思ってしまった。

吾郎さんが、目玉焼きが欲しいからと、お店の人に注文すると、「卵あるんで、セルフでお客さん自身で焼いてください」と言われる。そうなのだ、お店が用意してくれたフライパンがあって、お好みで、お客さん自身で目玉焼きが焼けるのだ。自分でシメのトッピングをつくるって、いいなぁと感心した。よっぽど、焦がさない限りは、誰が焼いてもおいしいと思う。半熟なのか、しっかり火を通すのか、人それぞれの好みでいいのだ。なんか、お店の中で、じぶんのクリエイティブ、たのしみを生み出せるのって、素晴らしいなぁと感じる瞬間だった。

お好み焼き、焼肉も、お客さんセルフで、以前からやっていたが、なんか、そういうものとは、今回違う気がする。お店が用意してくれたトッピングの組み合わせを自分でオーダーしてつくるのとも、少し違う。うまく説明できない。

シメのトッピングを自分でつくるのは、どちらかというと、よりニッチな側面があって、多様性に溢れている。好みに左右されるので、システム化しにくい。今後もしかしたら、お店の人ではなくて、あのお客さんがつくってくれたシメのトッピングが食べたいみたいになるかもしれない(調べてないから分かっていないが、もうすでにそうい役割の人がいると思う)。

たぶん、こういう役割って、キャンプとか、プライベートで友人同士でやるイベントとかだと、各家庭の持ち寄りみたいなので、実現できてしまうだろう。

話がキャンプに移ったので、ソロキャンプ(『ひとりキャンプで食って寝る』)についても触れておこう。これも、『孤独のグルメ』に通じるものだけれども、非日常のヒトリ(時々、複数もあり)になる時間をどうつくるか、どういう時間を過ごしたいか、じぶんのものさしを探す時間だなぁと感じるドラマだ。

キャンプと聞くと、大勢で集まって、バーベキューしたり、大きいお鍋で、たくさん手作りの料理つくって、自然の空気を吸って、みんな(家族や友人)でたのしく過ごすイベントだと思う。そっちの方が、普段お店でご飯を食べたり、飲んだりするよりも、たのしさは倍増するかもしれない。

でも、ソロキャンプは、少し違う(ぼくは、ソロキャンプをやったことがなく、ドラマを観た感想として言う)。別に大勢で集まる必要もない。手の込んだ手作り料理を振る舞う必要もない。スーパーで売っている缶詰やカップヌードルを、たくさん買い込んで、ただ現地で開けて、食べるだけでもいいのだ。人によっては、その缶詰をフライパンでちょっと炒めたり、鍋で煮込んだりするかもしれない。カップヌードルをただ食べるもよし、何かカップヌードルにトッピングするのもよし。

ドラマの物語の主人公(男の子)が、無愛想なんだけど、淡々と、缶詰を開けて、黙々と食べてる姿は、いいなぁと感じた(無愛想だから、そこまで、おいしそうに食べているようには見えない、でも、実際考えごとしながら、ご飯を味わうとは、案外そういうものなのかもしれない)。

ぼくは、キャンプ通ではないから、そもそもキャンプってこういうものとか知らない。ニワカのニワカ。だから、ぼくが今回、新鮮だと思ったキャンプの過ごし方も、キャンプ通の人からみたら、そんなに新しいことではないのかもしれない。

でも、このドラマを素人の感覚で観て思うのは、キャンプの魅力も知ると同時に、キャンプに限らず、普段の生活の中でも、ソロキャンプで得られるような、たのしみは作り出せると思った。

別に洗練されたものでなくてもいいのだ。ほんの少し、普段見ているものの視点を変えるだけでいいのだ。視点を変えるには、じぶんが退屈、たのしいと感じることに、もう少し丁寧に向き合うのがいいと思う。個人的には、今年は、ソロキャンプやってみたいと思っている(手帳のやりたいリストに書いておいた)。


じぶんの気になっているものについて、考えたり、調べてみたりすると、次の行動動機が生まれていくような気がする。言わば、じぶんという大地を耕して、種をまいて育てていくイメージだ。

ある時、種が発芽して、育っていくのを想像すると、たのしみが広がっていく。それには、水を撒いたり、日光に当てたり、いろんな工夫があると、じぶんでも想像しなかった世界へと導いてくれることがある。多少、質の悪い種でも、育て方しだいで、全然変わってくると思う。

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最後まで読んでいただき、ありがとうございます。今日も、じぶんの意見をバシバシ書いちゃいましたが、こういうことを言いたいじぶんなのだと、常々思います(良いか悪いかは、よく分かりませんが)。もう少し、外への伝え方を工夫してみたいと思います。あと、なるべく短く。



サポートありがとうございます。カフェでよくnote書くことが多いので、コーヒー代に使わせてもらいますね。