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嘘に潔癖で、真実を求めることに実直で。映画『THE KING』の主人公が抱える葛藤について。

こんにちは。うえぽんこと上田です。

今回は、映画『THE KING』を観た感想(エッセイ)を書きました。

じぶんと他人がつく嘘について。

ぼくは、昔からなのかもしれないが、人の嘘について潔癖なところがある。ここ数年、他人のつく嘘も然りなのだが、じぶん自身がつく嘘にも、あれこれ考えてしまう。

他人との会話で、調子に乗って、つい!、ちょっとした嘘をつくことがある。ある時は、相手への返答に困って、つい!、心にも思っていないことを言ってしまうことがある。だいたい言った後に、「ああ、なんであんないい加減なこと言ってしまったのか、相手が本気に思ってしまったら、どうするんだ」なんて悩むことがよくある。嘘つくじぶんに罪悪感が生まれる。

その嘘は、相手にとっては、些細なことで、たいしたことがないかもしれない(人による)。ついてしまった嘘も、じぶんの心の奥の片隅に閉じ込めて蓋をしておけばいいではないかと思われるかもしれない。もちろん、そうできる時はそうする。

ただ、よくよく考えてみると、「さっき言った嘘のことばは、やっぱ、さっき話した相手に、何かしら影響を与えてしまっているのではないか」と気になってしまうことがある(わざと状況を見て、人を鼓舞するために嘘をつくこととは、また意味あいが違う)。

人への感想を伝えるとき、コメントし返すときが、特にぼくの場合、困る。相手に気を使って、適当に褒めたり、いいねと、ポジティブなことを言うのは、簡単なのだけれど、ほんとうに全部がそう思っているかは別の話だ。こういう時、スタンプやリアクションボタンで伝えることができるのは気楽だと、あらためて思う。

ほんとうにいいと思っているなら、問題ないのだけれど、心では実はそう思っていない時は、さぁどうするか(そういうことの方が多い)。ぼくの場合、伝え方をなるべくポジティブにして伝えるか、もしくは沈黙していることが多い。人によって受け取り方が違うから失敗することもある。あと、ことばが足りなかったり、回りくどく、うまく伝わらないこともある。

波風立てないように、そもそも社交辞令なところもあるだろうから、言われた相手も言っている本人も気にしなければいいと思われるかもしれないが、あまりそれを無意識に当たり前のように使って癖になっていると、気づかないうちに、変な方向に、じぶんが向かってしまうという危機感を持ってしまう。

言ったことばは、過去のものとなり、取り消せない。じぶんの気のすむままに言ってしまった相手に、「あの時、言ったことば、気にしてないかなぁ」と、野暮なことを、あとあと聞いたりすることを一時期やっていたが、なんかその行為自体、じぶんに言い訳をしているような気持ちになる。あとあと聞かなければよかったと思うことさえある。じぶんを綺麗に潔白に見せたいだけなのだ。堂々巡りである。

相手に対しても、じぶんに対しても、嘘ではない真実を求めがちなぼくは、なんとも不器用な人間だと思う。こうなってしまった理由には、過去、じぶんがついた、ちょっとした嘘の積み重ねで、大きく信用を失うことがあったからだ。

また、相手の嘘に対して、敏感なのも、信頼して期待しすぎた故に、裏切られた時の、感情の落差を強く感じて、嫌な気持ちになったからだ。

たぶん嘘をついているだろうなぁと思われる相手を見ると、かつてのじぶんを見ているようで、妙に腹が立つし、そういうことをかつてよくしていた、じぶんを恥じてしまう。

こんな文章を書いている時点で、言い訳がましいのだけれど。

指導者の孤独、嘘と真実の間の葛藤について。

さて、個人レベルでの嘘と真実の葛藤について、指導者レベルになると、話は違ってくる。映画「THE KING」はウィリアム・シェイクスピアの史劇『ヘンリー4世 第一部』『ヘンリー4世 第二部』『ヘンリー5世』を原作として描かれた作品。主人公の、15世紀初頭のイギリスの王様、ハルことヘンリー5世は、嘘に対して潔癖で、真実を求める男だった。

彼の父親(ヘンリー4世)に仕えていた諸侯の反乱の最中、ハルは長子でありながら、父親から王位継承権を外される。父親と子の確執。父親の横暴が、諸侯の反乱および自国に戦火を撒き散らしていた。

父親の行為が火種となって起こってしまった戦について、彼の正義感にも似た、真実と向き合う姿勢は、観ていて、潔癖に見えた。その嘘への潔癖は、父との確執からなのか、若さからなのか、そもそも性質なのかは、イマイチわからない(史劇原作で映画作品なので、実際は、ヘンリー5世はどんな人だったかは、わからない)。

彼は、父親と距離を置いて、市民の生活に身を投じていた過去があった。そこで知り合った、かつて戦で名を轟かせて伝説となっていたジョン諸侯(サー・ジョン・フォルスタッフ)と知り合い、彼だけは、主人公にとって信頼に足る友人になっていた。ちなみにジョンは、物語上の架空の人物だ。

物語は、父親の病死、王位を受け継ぐ予定だった弟(クラレンス公トマス)の戦死によって、大きく動く。結果的にヘンリーは、臣下(諸侯)の説得により、イングランド王になる。そして、王になって、しばらくして、イングランド王暗殺計画が浮上する。

臣下からは、フランスのシャルル王の策略によるものだと、ハルに主張。大司教からも、いろんな理由をつけて、開戦に踏み切るように示唆される。ハルは、なるべく父親の過去の行いを反面教師にして、戦にならないように政治を進めようとしたが、臣下からもたらされる王暗殺の証拠をきっかけに、感情的になり、イギリスとフランスの国同士の開戦へと踏み切ることになる。

一方で、臣下たちの中には、フランスと通じる者がいることがわかり、ハルは、忠誠を誓っている臣下たちに対して、疑心暗鬼になる。彼は孤独になっていった。そして、戦にあたり、彼の不安を正直に話せることができて、唯一信頼を寄せていたのが、共に落ちぶれた市民生活をしていた友人のジョンだ。ハルは、彼を戦の指令官に任命する。

そしてハルは、戦場の最中、ジョンからの助言で、葛藤の末、劣勢に置かれている自軍の兵士たちに壮大な嘘をつく。

物語は、ここから面白くなるのだが、ラストのハルが置かれる心境は、なんとも言えない気持ちになる。嘘と真実とは何か。嘘が都合のいい真実になってしまうことさえ、歴史の中でくりかえされる。人の業、本質が描かれている。ことの真実を知った時の、ハルの表情は、冷たかった。

信頼・信用できる仲間について。

この映画を観ていた時、真実を追い求める彼のいきつく現実と、信頼できる相手に依存する態度に、切実さを感じ、人ごとのように思えないところがあった。近親者だから信じれるのか、同じ考えを持っている同志だから信頼できるのか、ことばでは聞こえのいいことを言っている人は、ほんとうに信用できるのか。助言を求めるのはいいが、最後は、じぶんの頭で考えて判断しなければならない。

案外信用・信頼できる人いうのは、その人がどんな考えを持ってどんな行動(いい悪いどっちも)をやってきたか、今何をしているのか、スピリチュアルな言い方をすれば、はじめて見て話しただけでも、その人の雰囲気でわかるものがあるか、そういうことなのだと思う。自戒をこめて。

ただ、これは個人と個人の話でおさまるスケールで、個人と国や大企業だと、おさまらないと思う(関わる人の事情や思惑がたくさん渦巻いているから)。

映画の中で、ハルは、王に即位して、彼の妹(フィリッパ)に言われるセリフがある。「ここ(王宮)では誰ひとりとして真実を語りません。どうぞ賢く道を選んでください」と。

信頼できる仲間がいない中で、賢い判断ってできるのだろうか。結局は、じぶんの頭で考えて信念を貫かなければいけないのか。一方で、信頼をしていない臣下の意見に耳を傾けず、自身の信念を貫くあまり、ひとりよがりと思われ、暴君と周りから罵られて、人が遠ざかっていくのだろうか。賢い判断の中には、そういうものを全て解決してしまうものが、含まれていなければいけないのか。

信念と行動と賢さが求められる人間になるには、なかなかハードルが高い。賢さっていい意味で悪い意味の両面がある。しかも賢いかどうか判断するのは、周りだ。

賢さを身に付けるのは難しいかもしれない(あまり賢い人間にはなりたくない)が、信念と行動と教養のある人間なら、目指せるかもしれない。

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最後まで読んでいただきありがとうございます。久しぶりに、作品の感想(エッセイ)を書いてみました。

今『スラムダンク』のTVアニメシリーズ(全101話)を、Netflixでほぼ連日観ています。今、96話ぐらいまで観たので、もう少しです。気が向いたら、感想(エッセイ)書いてみたいと思います。

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