見出し画像

辞書を引くと、見える世界が広がる。

こんにちは、上田です。

タイトルにある内容に触れる前に、ちょっと前置き入れてみます。前置きですので、いきなり本題にいきたい方は、目次から飛んでもらっても大丈夫です。

毎日文章を書くことを意識しているが、なかなかできていない。

今年から、ぼくはフリーでコンテンツ編集者として、いろいろ準備をしていく立場なのですが、伝えるということ、今回だと書くということについて、じぶんの文章とどう向き合っていくか、日々試行錯誤しています。

最近、ぼくは文章を毎日ではないですが、少しずつ書いています。書くことで、じぶんの頭のモヤモヤが整理されて、少し浮き彫りになって、いろいろ足りないことが分かったり、逆に分かるどころか疑問がどんどん増えていったり、はっきりとした答えのようなものが出たり出なかったりします。

ノリに乗って、水が溢れ出るようにじぶんの思ったことが出てくる時は、書いていてたのしいと感じるのですが、答えを頑張って出そうとしたり、何か分かったぞと思い書こうとすると、苦しい時があります。

人から聞いたいいなぁと思った話を書こうとして、ただ感心しているだけで、ほんとは分かってないんじゃないか、分かったふりをしているだけなんじゃないか、じぶんの身の丈に合わなさそうな、それっぽいことを書いて、いい格好したいだけなんじゃないかとか、途中恥ずかしい気持ちになって、思い悩むことがあります。

そんな思いをしてまで、なんで書こうという気になるのか、じぶんでも不思議なのですが、一種の覚悟のようなものを、じぶんの中で見出そうとしているからだと今は思います。覚悟という重たいワードを使ってますが、なんとなく、今ぼくを突き動かしているのは、そういうものだと思います。

ここの中で、ぼくが書くということを言っているのは、随筆(エッセイ)についてです。たったヒトリになって、出合った出来事に対して、内省して、あれやこれやと頭の中で考えているうちに、編集行為がなされる過程、人間にしかできない、素敵だけど、それなりに労力のかかるアウトプット手段だと、ぼくは日々感じています。

毎日もしくは、ほぼ毎日書いている(つぶやいている)方のブログやツイートを拝見すると、よく毎日更新できるなぁと、感心してしまいます。

毎日何かを書くということは、なかなか意識的に、具体的に行動しないとできないものだと、じぶんなりに分かってきました。頭の中では、こういうことを書こうと思っていたとしても、アウトプットしたことにはなりません。

とりあえず、机に座って、手帳やノートに何か字を書き始めるか、mac上で、noteの投稿ボタン→テキストボタンを押すことからです。

なので、今このnoteを書いてる時も、あたたかいお茶を入れて、机に座って、macの画面と向き合ってる最中です。きっと毎日書き続けられている方も、その人なりの書くための習慣のようなものがあるのだと思います。

さて、今回は文章が毎日書けないことを書きたいわけではなくて、「noteでこういうこと書こうかな」と思ったことがあったので、それについて、書き始めます。

タイトルにあるように、「辞書を引くと、見える世界が広がる。」についてです。

辞書を引くと、見える世界が広がる。

具体的な話をする前に、一応流れがあるので、最初の余談の話からの続きをさせてもらいます。毎日もしくは、ほぼ毎日書いている(つぶやいている)方のブログやツイートを拝見するの件からさせてもらいます。

他人の文章を読んでいると、ぼくは、じぶんがいいなぁと感じる文体に出合って勝手に憧れたり(妬む方こともあります)、書き手のことばに妙に心を突き動かされたりすることがあるのですが、その度に、じぶんの書く文章を見返してしまいます。そして、だいたい凹みます。

凹むだけ文章を書いているのかと言えば、書いてはいないので、そもそも量と継続が足りていないのは重々承知しているのですが、いざ書こうとすると、筆が進まなかったり、ある程度書いて推敲してみると、「なんじゃこりゃこの文章」となって、ほとほとじぶんの文章に対して、恥ずかしい気持ちでいっぱいになります。

そういう時よくやる行動として、かえって火に油を注ぐように思えるかもしれませんが、ぼくが好きな作家の作品や、ブログを書かれている方の文章を読んで、じぶんの凹んだ心を慰めつつ、著者が書いた文体、切り口、動機、背景など、じぶんなりの解釈で読み解いたりしてます(個人の妄想や深読みに近いので、解釈があっているかは定かではありませんが)。

好きな著者の文章を読んでいると、不思議と勇気をもらえて、「よぉし」と、また書くための気合いが入ります(人によっては、かえって凹む人もいると思いますが、そこは悪しからず)。

で、ここから本題なのですが、好きな著者の作品を読んでいると、思わぬ副産物に出合うことがあります。

それは、読んでいる最中に、書き手が使うことばの中で、見たことがないものや、見たことはあるけどそもそも意味が分からないもの、見たことがあってなんとなく意味は知っているつもりだけどよく分からないものなど、たくさん出合います。

たぶん、これは他の皆さんも、普段そういう出合いを感じているかもしれません。ぼくは、子供の頃から読書に苦手意識があって、絵のない本、つまり文章だけの本は、あまり読んできませんでした。読書量はかなり少ない方だと思います(絵がある漫画は、そこそこ読んでいたと思います)。

先月、一次情報なるものを持っておきたいと思い、国語辞典を買いました。買ってから、文章を書く時に使ってることばが正しいのか確認したり、他人の文章を読んで知らないことばがあった時は、辞書で引くようになりました。

辞書を引くようになってから、2つ疑問・関心を持つようになったことがあります。

①普段じぶんが使っていることばは、正しい使い方ができているのだろうか。分かった気になっていないだろうか。どう解釈しているのだろうか。

②好きな作家やブログを書いている方は、作家自身も知らなかったことばと、過去どのように出合って、自身の血肉として、文章で使うようになったのか。

①は、その言葉通りで、以前からじぶんの中で意味やニュアンスを分かっていると思っていたことばが、調べてみると、実は意味が違っていたりしないかということです。

このnoteを書く前に、米澤穂信さんの小説、古典部シリーズの『遠まわりする雛』を読んでいて、案の定、ぼくの中で曖昧なことばが次々と現れてきました。

試しに本書の1エピソードから、ぼくが理解が曖昧なことばをピックアップしてみました。

すると、かなりの数になりました(10個以上あったかと思います)。元々、そのことば自体の響きから、あるいは誰かがそのことばを使っているシーン(過去のテレビドラマや映画)を観て感じたニュアンスから、漢字の字面から、ぼくは勝手に意味を解釈する姿勢でした。

それで、いざ調べてみると、ぼくが認識していた意味と違ってたりすることばが、けっこうあって、びっくりでした。小中高大と、そこまでことばに注意も払っていなく、関心もそこまでなかったので、あらためて、じぶんのことばへの向き合い方がおざなりだったと痛感しています。

今更ながらお恥ずかしいのですが、ピックアップしたことばの例であげると、「失笑」ということば。

しっしょう【失笑】(名・自サ)
〔失=もらす〕〔文〕〔相手にあきれて〕思わず、ふっと笑いをもらすこと。また、その笑い。「まわりから失笑がもれる・失笑をさそう」
・失笑を買う[句](おろかな言動を)笑われる。

出典:三省堂国語辞典 第七版

ぼくは、このことば、字のごとく、笑いを失うと解釈して、相手の顔から笑いがなくなって無表情になるニュアンスでとらえていて、場が氷つくイメージを勝手に持っていました。

きっと、テレビの芸能人学力測定番組のたぐい(ネプリーグや平成教育委員会)に出場して、この間違ったニュアンスで答えていたら、視聴者や参加メンバーから失笑を買いますね。

②は、ただただ作品を読んでいて、この作家は、よくこのことばを知っていたなぁ、作家自身の文体にうまく当てはめているなぁと、目を見張ってしままうことです。ぼくの興味は、どうやって作家はこの言葉と出合ったのか、経緯が気になりました。

作家が他人の過去作品を読んで、偶然その知らないことばと出合ったのか、それとも、毎日食い入るように国語辞典を読んで血肉にしたのか(そうだったらすごい...)、あるいは、誰かが使い始めたことば(ニュース番組や日常会話の中で)を聞いて初めて知ったのか。

きっと、作家の歩んできた背景によって、いろんな新しい・未知のことばとの出合いがあったんだと想像します。もしかしたら、作家が幼少や若い頃に読んだ過去作品を読んでみると、その作家とことばとの出合いのルーツが垣間見ることができるかもしれませんね。

現に、ぼく自身が、気に入った作家の表現を少し真似させてもらったりすることがあります。正直、身の丈にあっているかは心配なところですが、今は真似でもいいので、じぶんの文章とどう向き合ったらいいか、あがいています。

出合いのルーツを知ることは、既に読んだ作家の作品を、あらためて違った角度でたのしめると思います。あと、作家の過去に想いを馳せるのも、ちょっとロマンがあっていいですよね。途中で本を閉じて、この想いに馳せている時間は、個人的にはたのしかったりします(本を読むのが遅い理由は、こういうところにあるかも)。

よくよく考えると、こういうアプローチって、考古学者や芸術評論家の方がやるようなことに近いのでしょうかね。

またお恥ずかしい話なのですが、ぼくが今回、米澤さんの小説で初めて出合ったことばが、「微に入り細を穿つ」です。調べてみると、

微に入(イ)り細(サイ)をうがつ[句]
〔文〕ひじょうに、こまかい点にまでおよぶ。微に入り細にわたる。微に入り細に入る。

出典:三省堂国語辞典 第七版
うがつ【(穿つ)】(他五)
①〔文〕〔穴を〕あける。「点滴(テンテキ)石をー〔「点滴」の[句]〕
②〔文〕ほる。「トンネルをー」
③〔多く「うがった」の形で〕
 a 表面に出ていない、ほんとうの姿をとらえる。
 b 深読みする。「うがった見方をする・それは うがちすぎだ」
④〔文〕手足を通す。〔はきもの〕はく。〔手ぶくろ〕はめる。

出典:三省堂国語辞典 第七版

今まで、見て聞いたことはなかったのですが、これらのことばって、どういうタイミングで著者は出合ったんでしょうかね。やっぱり、本をたくさん読むようになると、自然といろんな作品からことばが自然にインプットされていくものなんでしょうか。

実際、これらのことばを日常の会話の中で、使っている人にぼくは出会ったことがありません。おそらく、文の中で使われることばです。

このことばが使われることで、古典部シリーズの主人公の高校生・折木奉太郎の知的で理性的なキャラクター像と作品の世界観(推理ドラマ)に、うまく作用していると思いますし、作家の個性が著しく作品の中から滲み出ていると、ぼくは思います。

ちなみに、「微に入り細を穿つ」ということばを使っている高校生に、当時のぼくは出会ったことがありませんが、居たら居たらで、斜に構えて、ちょっと会話するのには、接しにくい同級生と感じることでしょう。フィクションの中だから、成立するキャラクターだなとあらためて思いますし、読者であるぼくとしては、この折木奉太郎は好きなキャラクターです。

ぼくの妄想による解釈も、もちろん大きく起因するのは否定しませんが、辞書を引いたことがきっかけで、好きな著者の作品へのたのしみ方は、一層深まりますし、じぶんの見る世界も、少し変わってくると、ぼくは思います。

解釈はあっているかはとりあえず置いといて、自身の想像力が刺激されることに、素直に従って、いろんな角度で作品を味わうことができるのは、うれしいです。たぶん、辞書を引いて気づいたことで、ぼくが、このnoteで一番伝えたかったことは、この発見を通して、少しじぶんのことが分かったことへの喜びです。ぼくと同じようなことを感じている人が1人でもいてくれたら、さらにうれしいです。


一方で、分からない言葉を辞書で調べるのと並行して、他人の文章を読んで行くのは、正直時間がかかります。ある程度読み飛ばして、分からなかったことばはメモっておいて、後で調べたらいいのですが、たぶん、調べないと思うんですよね。ものぐさなぼくも、後回しにして、結局調べなかったことが、よくあります。

よっぽど好奇心が続く、執着がある人、真面目で物事を中途半端に終わらせたくない人、ことばを知ることに思いっきり楽しんでいる人たちでない限りは、後で調べればいいじゃんと思ってても、大概調べなくなると思います(試験勉強だとまた違うと思いますが)。なるべく、その場でささっと調べてしまうのがいいですが、慣れないうちは、ちょっと億劫です。

新しく知った、再認識したことばは、血肉となって、もしかしたら、今後じぶんの書く文章にも、何かしら影響を与えるものなのかもしれないなぁと思います。

じぶんの文章をほぼ毎日書き続けていくことと並行して、もっといろんな作品に触れてみたい、今はそんな気持ちです。


最後まで読んでいただきありがとうございました。国語辞典の小型版を買って、いつもかばんに入れて持ち歩いてると、やっぱ重いんですよね。でも、電子よりも紙で辞書を引いてみたかった気持ちが強かったので、今のところ、紙の辞書を買ったことは後悔していません。



サポートありがとうございます。カフェでよくnote書くことが多いので、コーヒー代に使わせてもらいますね。