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『演技と身体』Vol.30 自律神経の話①

自律神経の話①

現場は普通じゃない

芝居をする時というのは、カメラがあったり、観客やスタッフがいたり、強い照明やマイクを向けられていたりする。つまり、普通じゃない。
そんな普通じゃない状況の中で例えば“自然な演技”を心がけようとしてもそれは“自然風”でしかなく、表面的には成立しているように見えても、意図していないニュアンスや緊張が乗ってしまっていることが多い。
よくあるのは、呼吸が浅くなっているために息を吸いすぎていて、吸いすぎた息を一度フッと吐いてからじゃないとセリフを喋れないという場合などだ。
呼吸を深くしたり、余計な身体の力を抜く方法は細かにあるだろうが、ここではもっと根本的な部分である、自律神経にフォーカスしようと思う。

ありがとう、自律神経

自律神経とは名前の通り、自律的に働くことによって身体の状態を調整してくれる神経のことである。体温を一定に保ったり、眠る時に体内温度を少し下げたり、汗を出したり、排便を促したり我慢したりする働きがる。
つまり、人間としての生活を最も根底で支えてくれているのが自律神経だというわけだ。
自律神経は主に二つの神経から構成されている。
交感神経副交感神経だ。交感神経は、身体の可動化を促す神経で、この神経の働きが優位になると血管が開いて身体中が暑く感じられてくる。いわゆる「闘争か逃走か」の行動を迫る神経で、動物が危険に対処する上で発達してきた神経だ。
副交感神経は逆に、身体を沈静化させる神経で、この神経の働きが優位になると血管が収縮し、肌が涼しく感じられる。

自律神経の誤作動

自律神経は、休むことなく働いている。また、意識しなくても自動的に働いている(そうでなければ、呼吸をし忘れて死んでしまうだろう)。
だが、それは常に正しく働いているわけではない。
本来、自律神経には一日、一年の中でのリズムがある。人間であれば、昼間は活動するので交感神経が優位になり、夜は副交感神経が優位になるなど。
しかし、今や夜でも照明が我々を明るく照らし、エアコンが季節を一瞬で進めたり戻したりする。
こうした生活の中で、現代人の自律神経はうまく機能しなくなっている。
自律神経がうまく機能しなくなると、過度に緊張してしまったり(交感神経の誤作動)、無気力な状態が続いたり(副交感神経の誤作動)する。さらには便秘になったり、抑鬱的な気分が続いたり、過食や食欲の減退が起こったりもする。
自律神経の誤作動は演技の際にも起こりうる。交感神経が過剰に働いてしまっている状態では、呼吸が浅くなり、緊張しやすく、動きに落ち着きがなく、言葉に攻撃的なニュアンスが乗りやすい。
副交感神経が過剰に働いてしまうと、動きが小さく弱くなりやすく、声も小さくなり、相手に届きにくくなる。
逆に自律神経が正しく機能させ理解することで、過度な緊張や萎縮がなくなるだけでなく、演技の技術としても活用することができるのではないかと思う。

ポリヴェーガル理論

その前に、自律神経についてもう少し詳しく見ておこう。自律神経は意思的に直接動かすことができないので、その機能を理解しておかないと使うことができないのだ。
自律神経に関する研究で近年注目されている理論がある。「ポリヴェーガル理論」だ。
ポリヴェーガル理論では、副交感神経をさらに二つの神経経路に分けて考え、つまり自律神経を全部で三つに分類して考える
名前が難しいので、それぞれの自律神経がもたらす身体のモードを紹介し、以後その名前で記すことにする。
まず、先ほども説明した通り、交感神経は外敵に対処するために身体を可動化させ、〈闘争/逃走モード〉にする。
副交感神経のうち、背側迷走神経複合体と呼ばれる経路は、対処不可能な危機をやり過ごすために身体を不動化させ、〈自閉モード〉にする。
副交感神経のもう一つの経路である腹側迷走神経複合体は、安全を察知して身体を仲間との交流を促す〈交流モード〉にする。
細かい理論は省くが、とにかく自律神経は常にこの三つのモードを使い分けて周囲との関係を維持しているのだ。

各モードの発動条件

これがどのように機能するのか説明しよう。
まず、安全な状態では〈交流モード〉の神経が優位に働いており、その他の二つの神経をうまくコントロールしている。〈交流モード〉の神経は自動車でいうところのブレーキであり、踏み込む強さを調整することで身体を適切に可動化させたり沈静化させたりすることができる(これをヴェーガル・ブレーキという)。
このモードが優位に働いている時は、リラックスしていて機嫌も良い。相手の言葉がよく耳に入ってきて、表情でのコミュニケーションもしやすい。身体はほんのり温かく感じられる。
ところが、相手や周囲から何かしら敵意や危険を感じ取ると、〈闘争/逃走モード〉の神経がこれに取って代わり、身体をいつでも動き出せる状態にする。身体が暑くなり、じっとしていると落ち着かない気分になる。人の言葉よりも周囲の物音が気になるようになり、気分はイライラしてくる。
さらにその危険が大きく感じられ、対処不可能であると判断すると、〈自閉モード〉が優位になり、身体は不動化していく。相手から一方的に大きな声で怒鳴られたり一方的な暴力を受けた時、人は全く動けなくなるのだ。もはや相手の言葉は理解できず、低い音への感度が高まる。身体は寒気を感じ、脳に十分な酸素が行き届かなくなって、意識が薄らいでくる。身体は危機がただ通り過ぎていくのをじっと待つことしかできなくなるのだ。

〈交流モード〉は進化の産物

興味深いのは、危機に応じて〈交流モード〉→〈闘争/逃走モード〉→〈自閉モード〉と言う順序で切り替わっていくことは、生物の進化を逆戻りしていく過程でもあるという点だ。
進化の系統発生的には、まず〈自閉モード〉の神経系が発達した。人間がまだ原初的な魚だった頃だ。
それから進化して、顎(あご)ができると獲物に噛み付いたりする(闘争)ようになり、噛み付かれる側は逃げなくてはいけなくなった(逃走)。それにともなって〈闘争/逃走モード〉が発達し、地球は活気付いていった。
さらに進化して哺乳類になると、群れでの行動が発達し、仲間との交流や個体の識別が不可欠になった。その過程で発達したのが〈交流モード〉だ。
つまり、我を忘れて怒ってしまう人というのは哺乳類の誇りを捨てているということであり、ひどい暴力やハラスメントにさらされた人というのは生命としての尊厳を脅かされているのだということである。

再び自律神経の誤作動について

しかし、そうした〈闘争/逃走〉反応や〈自閉〉反応というのは、生き延びるための防衛反応であり、生命として適切な反応である
そのような危険や危機にさらされて攻撃的になってしまった人・逃げ出してしまった人・抑鬱状態になってしまった人は、それが自分が生き延びるための防衛反応だったことを理解する必要がある。自分を助けるための対処だったのであり、自分を責める必要はないのである。
問題なのは、そうした安全/危険に対する評価を誤ってしまうことである。
人によっては〈闘争/逃走モード〉が優位に働きやすい人、〈自閉モード〉が優位に働きやすい人もいる。そういう人たちは、リスクを過大評価する傾向がある。
〈闘争/逃走モード〉が優位に働きやすいと、活動的でキビキビしている反面、安全なはずのものや相手を誤って危険だと判断してしまう恐れがある。敵意のない相手に対してイラついてしまったり、些細なことで怒りやすくなる。いつも落ち着きがなく、相手の欠点やミスにばかり目がいってしまう。
呼吸が浅くなり、ストレスがたまりやすくなってしまう。
〈自閉モード〉が優位に働きやすいと、あらゆるものをネガティブなものと誤って評価してしまう。無気力な状態に陥りやすく、相手に心を開くことができずにコミュニケーション不全が起こりやすくなる。世界は危険に満ちた場所であり、自分は歓迎されていないのだという気分に陥る。物事を悲観的に捉えて、行動をしなくなる。自己意識が希薄になり、精神的な危機に陥りやすくなる。

現場は修羅場じゃない

一応、演技の話に戻ると、現場というのは〈闘争/逃走モード〉になりやすい場所であり、そのために落ち着きのない演技になったり、セリフのニュアンスに刺々しさが出てしまったり、無意識に共演者に対して威圧的な演技をしてしまったりすることがある。また、そうした相手の威圧を感じて〈自閉モード〉になってうまく自分を出せずに終わってしまうこともある。
現場が〈闘争/逃走モード〉になりやすい場所であるというのは製作者や監督の責任でもある。そして彼ら自身も現場では非常に怒りっぽくなるのだ。
良い作品にしたいのなら、まず現場が安全を感じられる場所である必要がある。安全を感じられる状況の中、〈交流モード〉に基盤をおいた演技をするのが表現であり技術なのである。
先ほども説明したが〈交流モード〉にはヴェーガル・ブレーキという、制御機能があるので、〈交流モード〉に基盤を置いた上で、動きや激しい感情を表現したり、静けさや閉じた感情を表現することは十分に可能なのだ。
ポリヴェーガル理論では、安全は個人が作るのではなくお互いが友好的なメッセージを送り合い、お互いの〈交流モード〉を引き出すことで作られるという(これを協働調整という)。誰か一人でも攻撃的な人物がいると、安全が感じられなくなることがある。世阿弥も「諍識(じょうしき=争い心)はなかれ」と述べている通り、現場とはそれぞれの役者が自己主張をしたり監督が自分の権力を誇示する場ではなく、互いに協働調整をして皆が自分の居場所を見つけられる場でなければならない。争いに生きる修羅のための場ではないのだ。

では、これらの三つのモードを演技において使い分けることは可能なのだろうか。これまでワークショップで実践してきた感覚では、可能である。
さて、どのような身体意識によってこれらを使い分けるのか、次回説明していきたいと思う。

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