見出し画像

『演技と身体』Vol.18 脚本の読み取り② 書かれていないことについて

脚本の読み取り② 書かれていないことについて

前回は「書かれていることについて」と題して、脚本の読み取りについての考えを書いたが、今回は「書かれていないこと」というテーマで書いていく。まず、前回も述べたことだが、脚本の読み取りは自由で良いと思う。その上で、これから書いていくことが何かヒントとなれば幸いである。

イメージのレイヤーで見る

多くの役者がやってしまいがちなことの一つに、「言葉を言葉通りに読み取ってしまう」ということがあるように思う。脚本に書かれているのはあくまで言葉であるが、脚本に書かれている言葉を意味通りに読み取って演じるとどのようなことが起こるか。
例えば弱々しいセリフをそのまま読み取り、弱々しく演じたとする。するとそれは、ただなよなよとした退屈な演技に終わってしまう。なぜそうなるのか。それは、意味とイメージに重複があるからだ。言葉そのものが弱々しさを表現するものであるのにさらにそれを弱々しく演じると、弱々しさの上に弱々しさを重ねることとなり、過剰に弱々しく見えてしまうのだ。
また例えば、机をドンと叩いて立ち上がり「ふざけるな!」と声を荒げる。ここにも重複がある。机をドンと叩いて立ち上がるという動きにすでに「ふざけるな!」という意味が含まれており、そこにさらに言葉で「ふざけるな」と言う。しかも、字義通り荒々しく。「ふざけるな!(動作)」と「ふざけるな!(セリフ)」と「ふざけるな!(言い方)」の三重奏である。かなりうるさい。ここはせめて「ふざけるな」と言うセリフの言い方をグッと抑制を効かせて言うべきだろう。
つまり、言葉の「意味のレイヤー」と演技の「イメージのレイヤー」があって、その二つの“総合”が演技の印象を決めるのである。「意味のレイヤー」と「イメージのレイヤー」に重複があると、それは過剰な表現となってしまうし、逆にその二つがあまりにちぐはぐだと表現をなさなくなってしまう。

強き・幽玄を心がけるべし

このことは世阿弥の論の中にも見出せる。

能に、強き・幽玄・弱き・荒きを知る事。
(中略)
弱かるべき事を強くするは、偽りなれば、これ荒きなり。強かるべき事に強きは、これ強きなり。荒きにはあらず。もし、強かるべきことを幽玄にせんとて、物まねに足らずは、幽玄にはなくて、これ弱きなり。
(中略)
また、強かるべき理(ことわり)過ぎて強きは、ことさら荒きなり。幽玄の風体よりなほ優しくせんとせば、これ、ことさら弱きなり。
『風姿花伝』第六 花修

僕の解釈を混ぜながら説明すると、まず演技には「力強い演技」「幽玄な(優美な)演技」「弱い演技」「荒っぽい演技」がある。そして、このうち、「弱い演技」と「荒っぽい演技」は避けなければならない。
本来弱く演じるべきところを奇を衒って強く演じようとすると、嘘っぽくなり、「荒っぽい演技」となる。強く演じるべき時に強く演じることで「力強い演技」になるのであり、「荒っぽい演技」とは区別されなければならない。逆に、強く演じるべきところで無理に幽玄さを表そうとすると「弱い演技」となってしまう。
また、強く演じる時に過剰に強く演じてしまうと、やはり「荒っぽい演技」となってしまう。「幽玄な(優美な)演技」とすべきところを、なよなよし過ぎると「弱い演技」となってしまう。
こうした「強き・幽玄・弱き・荒き」というのは「イメージのレイヤー」のことだと思われる。つまり、脚本を読み取る時は、セリフの語義上の意味に流されず、イメージのレベルで強くすべきか幽玄にすべきかを掴み、さらにそれが過剰にならないように留意しなければならない

「伝達モード」と「生成モード」

前回の記事では、まずト書きに徹するべきであり、それ以外の動きは封じるべきであると書いた。そしてその目的は、自分に強い制限をかけることによって却って強い心の動きを引き出そうとするものであった。しかし、世の中良い脚本ばかりでもないというのが実情だ。脚本を信じて、それ通りにしてもなんだか表現として物足らないということもある。だから、まずト書きに忠実に、ト書きに自分を思い切りぶつけて表現してみる。それでも物足りなさが残るのであれば、何か動きを付け足す(あるいは削る)のは良いと思う。しかし、ここでも「強き・幽玄・弱き・荒き」を区別し、過剰にならないように気を付けるべきだろう。
とにかく気を付けるべきなのは、「意味の過剰」に陥らないようにすることだ。「意味の過剰」に陥らないようにするためには、その前提として「意味の伝達」「意味の生成」を区別しておくことが大切だと思う。この区別は伊藤亜紗『手の倫理』に登場するコミュニケーションの「伝達モード」「生成生成モード」の区別から借用したものである。「伝達モード」というのが発信者が自分の意図を一方的に伝えるもの(スピーチのような場合)であるのに対して、「生成モード」においては双方向のやり取りの中で意味が生成されるもの(おしゃべりのような場合)である。「伝達モード」の場合には受け取り手に誤解の余地がないことが望ましい。だから、表現には“わかりやすさ”が求められることになる。他方、「生成モード」の場合には、むしろお互いの認識や価値観のズレこそが意味の生成の土台となる。自分の意図と違う受け取り方を相手がした時に、新たな物の見方を獲得するのである。
さて、演技は「伝達モード」と「生成モード」のどちらに分類されるのだろうか。ずばり、両方だというのが僕の考えである。大抵の場合、演技中に観客との双方向的なコミュニケーションは行われない。だから、役者は「意味の伝達」に主眼を置き、わかりやすくしようとする余り「意味の過剰」に陥ることになるのだ。
もちろん、内容や場面によっては「伝達モード」で演じられるのが好ましいこともあるだろう。しかし、演技とはどんな場合でも観客の存在を前提としており、その意味が役者や作り手の中だけで完結するということはない。そこには少なからず生成的な要素があるのだ。観客が見ることによって「意味の生成」が起こる。だとすれば、役者が演じる時点では意味として完成していなくても良いということが言える。

自分の中に収めてしまわない

「役者が演じる時点では意味として完成していなくても良い」。改めて読むと無茶苦茶な気もするが、ここからさらなる提案が導き出される。こうだ。「役者は脚本を理解し切っていなくても良い」
少し大胆に聞こえるかもしれないが、説明させて欲しい。まず役者は、当然ながら脚本をよく読み込んでおくべきである。しかし、同時に矮小な解釈に収まってしまうことの危険性もよく知っておくべきだ。自分が演じるに当たってそれを理解しておきたいというのは人情である。しかし、それゆえに矛盾や困難にぶち当たった時に、適当な理屈をつけてそれを安易な解釈に落ち着けてしまうという場合もしばしある。脚本に矛盾がある場合、単に脚本の欠陥である場合もあるがそうでない場合もある。世界や人生は本質的に矛盾に満ちている。しかし、言葉の世界では矛盾は許されない。だからそれが脚本になった時にとても気になるのだ。そうした矛盾や理解を超えたものを、自我という矮小なものの中に閉じ込めるべきではないのだ。こうした意味でも字義通りに演じてはいけないのだ。つまり言葉というものを信じ過ぎてはいけないのだ。言葉は世界をそのまま表すことはできないのである。だから、矛盾があれば矛盾をそのまま引き受ける。理解できないものを無理に解釈せずに、理解できないままそこにぶつかってゆく。それらが意味を帯びるのは観客が作品を見た時なのだ。
一応注意しておくと、「理解し切っていなくても良い」というのは「意味のレイヤー」のレベルの話である。脚本の言葉上の意味を理解していなくても、そこからイメージを作り上げることはできる。少なくとも「強き」か「幽玄」かというイメージを持って役に臨めればそれは表現となる。逆に、いくら言葉の上で脚本を理解していても、ここのイメージの部分が何もなければそれは表現にはならないのだ。

イメージの飛躍

さらに、ト書きに付け加えるものとして、物語と全く関係のないイメージを投げ込むという方法もある。繰り返し述べているように、脚本にすでに書かれていることと意味が重複する動きは付け加えるべきではない。しかし、逆に関係のない動きを投げ込むことでイメージの飛躍を起こすというやり方はあるのかもしれない。わかりやすい例としては、黒澤明監督『用心棒』で三船敏郎が肩を回す仕草をよくやるのだが、あの動きは物語の筋書きとは何の関係もない。だがいい。とてもいいのだ。物語に関係のあるイメージだけで構成された作品というのは退屈である。なぜならそこには「意味の生成」の余地がないからだ。映画や演劇というのは、意味と意味の空隙を観客が想像力によって埋めることによって成立する。だから、筋書きの中にあえてイメージの飛躍を忍ばせることは、場合によっては「意味の生成」に複雑味をもたらすこともある。

さて、今回は脚本に書かれていないことというテーマで書いたが、一言にすれば「字義通りに演るべからず」ということになる。「言葉のレイヤー」とは別に「イメージのレイヤー」を考えることで「意味の過剰」を避け、観客を項に含めた「生成モード」の演技をするということだ。
前回、今回と脚本の読み取りについて書いてきたが、なんとまだ終わらない。次回は、前回と今回の内容を総合して、具体的な読み取りの手順を書こうと思う。

※『演技と身体』の実践的ワークショップの5月分の申込を現在受け付けております。お申し込みはこちらから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?