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『演技と身体』Vol.17 脚本の読み取り① 書かれていることについて 

脚本の読み取り① 書かれていることについて

勝手にしやがれ

まず述べておくと、脚本をどう読み取るかというのは絶対的に自由である。何をどう解釈しようが、何を見出そうが、何を想像しようが、誰もそれを妨げることはできない。全く何も読み取らない自由さえあるかもしれない。
しかし自由だと言われると却ってどうしたら良いのかわからない人もいるかもしれないし、無意識のうちにある一定の読み方に縛られてしまっている人もいることだろうから、ここでは一応僕なりの考えを記しておこうと思う。

物語の範囲

森鴎外の『雁』という小説の最後の部分はなかなか示唆に富んでいる。

読者は僕に問うかもしれない。「お玉とはどうして相識になって、どんな場合にそれを聞いたか」と問うかもしれない。しかしこれに対する答も、前に言った通り、物語の範囲外にある。(中略)読者は無用の憶測せぬが好い。
森鴎外『雁』

「物語の範囲外」。なかなか衝撃的な言葉である。作者としての責任を放棄しているようにも思える言葉だ。しかし、たしかに物語とは人生や生活を切り抜いて意味あるものに編集したものだと言える。そこには「範囲内」と「範囲外」がある。生活の中で物語と関係ない部分(例えばただトイレに行くだけとか)は切り捨てられることになるわけだが、そうした物語の範囲外の部分を全て考えるわけにはいかない。すると、脚本を読み取る際にまず大事なのは、この「物語の範囲」を見定めるところにあるのではないだろうか。
脚本には書かれていることと書かれていないことがある。書かれていることはおおよそ「物語の範囲内」であると見て良いだろう。他方、書かれていないことの中には、単に「物語の範囲外」のものと「書かれていないが物語の範囲内」であるものがある。こうした読み取りの中に、役者の創造性は要求されるのだ。

書かれていることが大事

しかしまず、書かれていることの中から役を創造していくという作業が何より大事だろう。
役者の中には、脚本を読んでまず役の“設定”を構築するという人が少なくないようだ。“設定”というのは職業や出身地、家族構成や血液型などのアイデンティティである。
しかし、こうした“設定”は、脚本に書かれていない場合、あるいは物語と直接関係のない場合は考えてもあまり効果がないどころか場合によっては悪影響すらあるのではないかと僕は考える。
悪影響というのは、そうした“設定”は固定観念と結びついており、そこから役に入るとありきたりなキャラクターに陥りがちになるからである。
例えば「理系の大学生」と言われると人は感情の起伏のない真面目な人物をイメージしがちであるが、理系であることと真面目であることの因果関係はさておき、初めからその人物像を非常に狭い範囲で捉えてしまうことになる。
職業・血液型・趣味・・・などのアイデンティティというのは、本来人をカテゴリーに分けてまとめ上げるためのものではないだろうか。しかし、脚本を読み取って人物を創造するという営みは他の誰でもない“その人”を作る作業であり、こうしたまとめ上げとは逆の方向のものなのだ。
そもそもアイデンティティというのはあくまで社会の側から要求されるものであり、私にとって私は私以外ではないのである。そうした表面的な設定から入ろうとすると却って役は自分から遠ざかってしまうのではないだろうか。
だから、そうしたアイデンティティについては、もし脚本の中に書かれていないのならば、考える必要はないだろう。

行動から「フォーム(形式)」を読み取る

では、脚本に書かれていることとは何か。それは、人物の行動である。
しかし、人物の行動は書かれているならそれはすでに自明であり、読み取るまでもないのではないか。そう思うかもしれない。だがそうではない。人物の行動を丁寧に読み取っていくと、そこには「フォーム(形式)」が見えてくるのだ。
「フォーム(形式)」という言葉は、人類学者のエドゥアルド・コーンが著書の中で用いた言葉の転用であるが、物事の中に働く「自己相似性」「階層性」から生まれる効果を言い表した言葉である。
ブロッコリーやカリフラワーの構造をイメージするとわかりやすいのだが、それらは部分と全体が同じ形をしている。ブロッコリーの先端の部分の形を見るとブロッコリー全体の形と同じなのだ。このような構造をフラクタル構造と言う。そして、フラクタル構造には、自分の中で同じ形が繰り返されていること(自己相似性)とそれが全体から先端へと段々小さくなっていくこと(階層性)という二つの性質がある
そして、エドゥアルド・コーンはこのフラクタルの性質を生命の活動に当てはめることで、人間を越え出た諸自己について考えようとしたわけである。
そして、それは架空の人物の中にもやはり見出せるものなのではないかというのが僕の考えだ。
脚本に書かれている人物の行動を抽象化することで「フォーム(形式)」が読み取れる。そして、「フォーム(形式)」は反復されるものであり(「自己相似性」)、またあらゆるスケールの行為で現れるもの(「階層性」)なのだ。
簡単に言えば、脚本の中に書かれている人物の行動をよく観察し、そこからその人物の行動原理を読み取る(抽象化する)ことで、その人物の箸の持ち方から主義主張まで、あらゆるスケールの行動が自然と見えて決定されることになるのだ。
「店員に横柄な態度を取る男は、自分のパートナーにも同じ態度を取るから気をつけろ」というアドバイスはよく見かけるものだが、これも「フォーム(形式)」である。また、割れ窓を放置しておくとその地域の治安が悪化するという「割れ窓理論」は、この「フォーム(形式)」の増幅によるものだ。割れ窓の放置という小さな形式がやがて大きな犯罪にまで階層的に増幅していくのだ。

書かれていることにまずぶつかってゆけ

能は600年続く日本の伝統芸能であるが、能の魅力は実に不思議なものである。動きは型によって完全に決められており、顔も面で覆ってしまう。能の役者というのは、自分というものが完全に封じられているのである。じゃあ、能の動きがまるで人形のようなのかと言えば、全く違うどころではない。むしろ、その人間の実在というものが非常に強い力で観るものに迫ってくるのだ。なぜだろうか。それは、おそらく役者が型や面に思い切りぶつかってゆくからだ。役者の生命が、自我を封じる様々な制限を突き破ってそこに現れるのである。
これが、何も制限のない自由なところで為されるとどうであろうか。それでは役者の「やってやろう」という気持ちが見えすぎてしまって、つまり役者自身が見えすぎてしまって却って役のリアリティを損なってしまうことになるのだ。これを一般化すると、「自己を強く制限するところのものに自分を思い切りぶつける」ことで自分と役が一体となった表現が可能になるのだということが言える。自己を制限しようとする力に対して自然に沸き起こる反発を利用すると言っても良いかもしれない。
さて、このことを映像演技に置き換えて考えてみよう。
映像や演劇の演技において、役者自身を強く制限するものとは何か。それは脚本に書かれたト書きや台詞だ。ト書きや台詞は役者の身体にとって異物である。このことをまずしっかり認識した上で、そこに思い切りぶつかってゆくのだ。
ト書きや台詞に対しては従順で、そこに自分なりの動きを付け加えることで自分を表現しようとする役者がいる。彼らは、決められた動きの中には自己表現はないと無意識に思い込んでいる節がある。しかし、まずト書き・台詞に従順であるということは、そこに役者自身の存在がなく、役と役者が分離してしまうことになる。そして、自分なりの動きを付け足すことは、今度は役者自身の存在が出過ぎて、そこに役の存在がなくなってしまうことになるだけでなく、動きの手数が多くなることによって一つひとつの動作の持つ意味が相対的に少なくなってしまう。

絶対矛盾的自己同一

そこでまず脚本を読み取る最初の段階では、ト書きや台詞に書かれていること以外は絶対にやらないように、強く自分を制限するべきである。するとここには二つの制限が出てくる。一つは、ト書き・台詞自体が役者に強いる制限、それからそれ以外のことを自ら禁ずる制限だ。こうした制限によって自分の中に自然と生まれる反発のエネルギーを決められたト書きや台詞にぶつけてゆく。自分の中で、自分を制限する力とそれに反発する力という相反する二つのエネルギーを作り出すのである。「自分を制限しながら思い切り演じる」という逆説的な状況(絶対矛盾的自己同一)の中でまず脚本の「イメージ」を掴み取ってゆくのだ。
「自分を制限しながら思い切り演じる」時、一つには思い切り演じてもそれに対して制限が常にかかっているので、それは見る側にとってもある程度抑制の効いた表現に見える(つまり大袈裟に見えない)という利点がある。また、心の動きがその制限を突き破って出てくる時には尋常ではないエネルギーが感じられることになる。

脚本と対決せよ

まとめると、まず脚本そのものと対決するということだ。脚本に書かれていない設定を考えたりそこに書かれていない動きを付け足すということは、脚本との対決から逃げたり始めから降伏しているようなものだ。まずは決められた動きを決められた通りに行うところに思い切り自分のエネルギーをぶつけてゆき、その中で「イメージ」や「フォーム(形式)」を獲得してゆくべきだ。これは、脚本についてあれこれ考える前にまずそれに沿って動いてみるということでもある。脚本をもらったらまずそれを声に出して読んでみる。それの通りに動いてみる。考えるのはその後だ。
こうした手順については後にまとめるつもりである。

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