見出し画像

『演技と身体』Vol.43 観客の身体性

観客の身体性

演技における身体性といえば普通、役者の身体性を思い浮かべるだろう。だが、役者や作り手は最終的には観客の身体性にも責任を持たなければならない。つまり、作品を受け取る側の身体に何が起こるのかについてまで考える必要があるのだ。

観客の身体性の変遷

観客の身体性はメディアの歴史に応じて変化してきた。というか失われてきた。
スポーツ観戦を例に考えてみよう。スポーツを観戦する本質的な気持ちよさというのは、鍛え上げられたアスリートの身体に観客が自分の身体を同調させることによって、日常の身体感覚を抜け出た超人的な身体と一体化するところにある。めちゃくちゃ速く走るアスリートのその跳躍力に見惚れ、感動するのだ。
ところが、記録技術とマスメディアの発達によって、観客の感動の対象は変化した。私たちの多くは今、アスリートの身体に対してだけではなく、それに付随する“記録”や前後の“ドラマ”を含めて感動している。
つまり、ただ目の前のアスリートとの物理的な交感では飽き足らず、そこに意味を求めようとするのだ。そして意味は身体というより脳の領域に属する。観客はスポーツを身体で受け取るのではなく、脳で読み取るようになっているというわけだ。
そしてその傾向は、映画や映像作品の鑑賞においても見られる。

脳で観ることの弊害

芝居の鑑賞においては従来から身体のレベルの感動と意味(ストーリー)のレベルの感動の両方が存在するが、観客が脳で作品を受け取ろうとする傾向が強くなると、作り手も観客の身体性については考えなくなり、アップの画を多用するに至る。(表情ももちろん身体に含まれるが、感情を意味として表現する記号にとどまっている場合が多い。)
そうなると、観客はますます作品に意味を求めるようになり、意味が分かれば面白いし、意味がわからないものは拒絶するようになる。これは観客が作品を身体で受け取るということを忘れたからである。
もちろんどのような楽しみ方をしようが観客の勝手なのだが、脳で受け取るばかりになると問題がある。
脳の働きには個人差が大きく、したがって作品の意味の理解にも個人差が出てくる。非常に単純なものしか理解できない人もいれば、細かい点にまで注目して深読みをする人もいる。ある言葉の意味が人によって違うように解釈されたりもする。(それはそれで面白い。)
作り手の多くは、こうした物語やセリフの意味の面で観客に責任を負おうとするのだが、実際にバラバラな観客の理解力を把握するのは難しいそこでとりあえずできるだけわかりやすい方に合わせて作品が作られることになるのだ。そのような作品が増えることによって観客はますますわかりやすい作品しか理解できなくなっていく。悪循環だ。

身体的=物理的に考える

開き直ってしまえば、観客の意味の理解に責任を持つということなんてできないのだから、その点についていえば役者や作り手は自分の理解力に基づいて作ればよいのであり、物わかりの悪い誰かのためにわざわざわかりやすくするべきではないのだと思う。
しかし、身体については別だ。
もちろん身体感覚にも個人差はある。しかし、身体の構造がほとんど同じである以上それは程度の差でしかなく、およそ同じメカニズムがほとんど全員の観客の身体に作用すると考えてよい。それは物理的な作用であり、科学の領域である。
科学といえば冷めた気持ちになる人も多いかもしれないが、(僕は科学に詳しくはないが)科学ほど感動的なものはないと思う。例えば、不安定な分子と分子が結合するという事実。これほどシンプルで動的な感動があるだろうか。孤独な人間同士が結びつくのはこの科学現象のアナロジーであり、そこには意味以前にまず物理的な力の作用があるのだ。
では具体的に観客の身体のどのような側面が問題となるだろうか。ここでは脳神経、自律神経、内臓感覚の3つ観点を取り上げよう。

①身体的共感

まず脳神経の観点からミラーニューロンという働きに注目しよう。ミラーニューロンについてはすでにVol.36「無意識の話④」の記事で説明しているが改めて説明すると、動物の脳は共感を示しているときには、相手の脳のニューロン(神経細胞)の振る舞いを自分のニューロンが真似ているというのだ。例えば、すごく痛がっている人を見ると自分まで痛い感じがしてくるあの感じだ。
身体的な共感と言ってもよいだろう。このことを考えると、感情的な場面で役者自身の中で感情が高まっているだけでは不十分であることがわかる。感情に身体性が伴ったとき、ミラーニューロンは働く。だから役者の中で感情と身体が常に一致していることが大切だ。また、これは経験上のことであるが、ミラーニューロンの働きにも程度があり、心理的な共感が先行していることによってその働きは大きくなるものと思われる。
心理的、身体的な共感を引き起こす上で重要なことは、小さく始めることだろう。映画にしても演劇にしても、観客は日常生活の合間に見ているのだ。日常の感覚から作品の世界に入り込む上で、いきなり激しい感情や大きな動きを見せられてもうまく乗れないだろう。それを考えると、役者は物語の序盤のシーンでは少し抑えめに演技をするのが良い。あくまで観客と一緒に感情のプロセスを進んでいくことで、見せ場やクライマックスの引き込み具合が変わってくる。

②映画・演劇は大規模な「いないいないばあである

次に自律神経の観点から考えてみよう。自律神経についてはVo.30Vol.31で詳述したが、自律神経の観点から考えると映画や演劇が一体なんの役に立つのかがはっきりとわかる。それは観客にとってバーチャルなレジリエンス(回復)の体験なのだ。
映画や演劇を観るとき、観客は客席という身体的な安全が保証された場所にいながら、精神的な深みに潜り込んで行って、そこからまた戻ってくる。自律神経的には神経エクササイズとしての効果がある。
神経エクササイズとは安全の確保された状況で不安→安心という神経プロセスを経験することで、実生活上の精神的な回復力を高めるエクササイズである。馴染み深いものとしては、幼少の頃に誰もがやったであろう「いないいないばあ」が挙げられる。「いないいないばあ」は、相手の顔が見えなくなるという小さな不安(いないいない)の後で、その相手と再会(ばあ)することで安心の中に戻ってくる神経エクササイズなのだ。
映画や演劇にもやはり同様の効果を観客にもたらす。すると大事なのは、安心に戻ってくるところの「ばあ」の部分である。役者によっては、感情的な揺れの大きいシーンにばかり力を入れてしまうことがある。作品としてはそのような激しい感情が見せ場となることが多いからだろう。しかし、それは「いないいない」のところばかりを張り切って、「ばあ」の部分を蔑ろにする態度であり、観客に対してはいささか乱暴な態度である。そのような演技は役者の自己満足と受け止められてしまうだろう。

③観客の内臓を動かす

次に内臓感覚だ。内臓感覚はミラーニューロンとも自律神経とも無意識とも関係が深く、どの観点から考えても最終的には内臓感覚に行き着くことになる。というのも、感情それ自体が内臓感覚と非常に深い結びつきを持つからである。観客の感情を動かすということはつまるところ観客の内臓を動かすということなのだ。
だが、ここではより直接的なアプローチについて考えたい。観客の内臓感覚を直接引き出すものとして、呼吸声の響きの2点が挙げられる。呼吸とはそのまま内臓を動かすことになるわけなので、呼吸を通じて観客と一体になること、呼吸をずらすことで観客の予想を裏切ることで観客の内臓に直接働きかけることができる。詳しくはVol.32の記事で取り上げているのでそちらをご参照いただきたい。
もう一つは声の響きだ。これについても詳しくはVol.25「声の表情」Vol.41「声の響きと無意識」で取り上げているのでそちらをご覧いただきたいが、声の響きは直接的に内臓の共鳴を引き起こす。目を閉じて、内臓感覚に注目してみると、周囲の音に対して内臓が微細に反応していることがわかる。音楽なんかを聴いていると、音の高さや質感によって内臓の反応の仕方や場所が変わるのがわかる。
やたら張りのある音や硬い音に対しては身体は防衛的になる。適切な声の高さや響きが内臓レベルでの共鳴を呼び、観客の心を動かしやすくするのだ。

以上あげた事柄は、観客が作品を鑑賞する時には無意識に働く部分となる。
この他にも、舞台公演ならば昼の観客と夜の観客の違いなどにも注意を払うべきだろう(昼の観客は交感神経が優位に働いていて落ち着きがなく、一体感が生まれにくい)。
こうした無意識の部分にまで気を配ることで観客も作品に入り込みやすくなるし、役者の表現も際立つ。作品は鑑賞者なしには成り立たないものであるだけでなく、作品を通じた観客との交歓こそが演じる喜びの最も大きな部分ではないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?