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『演技と身体』Vol.36 無意識の話④ 「忘我」と「恍惚」

無意識の話④ 「忘我」と「恍惚」

前回は無意識に、個人的無意識集合的無意識の二種類があることを説明し、演技における「忘我」「恍惚」の状態がそれらに対応するものであることをほのめかして終わった。今回はその続きである。

個人的無意識と超個人的無意識

「忘我」・「恍惚」とは、演技において無意識が表面化した状態を二種類に分けて僕が名付けた呼び方であり、無意識の二つの状態に対応する。
無意識の二つの状態とは、前回説明した個人的無意識と集合的無意識のことである。
個人的無意識とは個人の潜在的な欲望が渦巻く領域で、過去の叶えられなかった欲望や抑圧されている欲望が何かの刺激に反応して暴走することで表面化する。
集合的無意識は、個人を超えたところで普遍的に働く無意識で、自他の区別のない世界である。

「忘我」

「忘我」の状態とは、個人的無意識が表面化した状態であり、「恍惚」とは集合的無意識が表面化した状態を指すと述べた。
すると、「忘我」というのは、我を忘れて個人的な過去の記憶や感情の中に溺れてゆくような状態だと言える。自我というものに深く嵌まり込んでいる状態だ。フロイトの手法が無意識の受けている抑圧を手がかりとするものであったことからも、基本的にはネガティブな感情と結びつきやすいものである。
「忘我」の状態は、負の感情を深いところから力強く表現することができるが、周囲との有機的な繋がりが断たれている状態でもあり、相手の芝居や言葉を刺激として受け取るばかりで、共創関係は生まれにくいだろう。
また、基本的には抑圧を受けた過去と現在が結びつくことによって生まれる状態であることから、役者は個人の過去の体験を役と結びつけることが必要になる。自分の過去の傷や悲しみと向き合わなければならず、一定の苦しみを伴うことになるのではないかと思う。
「忘我」の状態の演技は、活動的でともすれば暴力的でもある。こころの奥底にあるエネルギーが噴火したように力強い感情が周囲を圧倒することになる。
他方、制御がまるで効いていないので、振る舞いやその見た目は表現として整っているとは言えない。
装飾的なものを排除してありのままの姿を提示しようとする自然主義的な表現には有効かもしれない。

「忘我」が起こる原理

個人的無意識は、言語構造に立脚しているのであった(前回の記事を参照)。詳しくは次回以降に説明するが、それがどのようにして表面化するのか簡単に見ておこう。
個人的無意識の表面化(「忘我」)というのは、言語の〈メタファー(隠喩)〉の働きと似たような原理で起こるのではないかと思う。
〈メタファー(隠喩)〉とは、例えば積乱雲が形を変える様を「青空で羊たちの戯れ」と表現するような場合に使われている比喩表現だ。
この時、「雲」と「羊」という本来別々のものが“モクモクした”イメージを媒介に重ね合わさり、置き換わっている
目の前の「雲」が脳内の「羊」のイメージに“置き換え”られる。
個人的無意識の表面化は同じようにして起こる。つまり目の前の出来事と脳内の記憶やイメージの間で、“重ね合わせ”が起こることで、目の前の世界が自分の脳内の記憶やイメージに“置き換わって”しまうのである。
以前ある役者から聞いた話だが、脚本の内容が介護を連想させるものだった時、目の前の相手が介護中の母に見えてきて、思わず怒りが爆発してしまい、演技中に我を忘れてしまったのだという。
この時、目の前にいる相手役の役者が脳内の母のイメージに置き換わってしまった。すなわち、目の前の相手や世界は消えて、周囲は自分の脳内の無意識の世界に飲み込まれてしまったのである。
このように、個人的無意識は“重ね合わせ”や“置き換え”という言語の持つ構造と同じ構造原理によって表面化し、周囲を自己の脳内イメージの世界に変え、自らがそこに溺れてしまうという状況を作るものである。そしてこのような状態を指して「忘我」と名付けるのだ。

「恍惚」

他方、「恍惚」状態とは、例えば相手に見惚れて自分を見失っているようなイメージである。「忘我」と反対に自我というものが一切捨て去られているが故の無意識状態である。この時、自我は相手や周囲の中に溶けて消えてしまっている。自他の区別が非常に曖昧になっているような状態だ。
「恍惚」状態では、自己の振る舞いは周囲によって律せられることになる。見た目としては、周囲との調和の中での反応的な動作となるだろう。
「恍惚」状態では、相手との繋がりが深く感じられる。愛情や共感、悲しみなどが強く表れる場面では「恍惚」状態の方が観客を深く引き込めるのではないかと思う。
というのも、集合的無意識に接近する「恍惚」状態では、観客をもその集合的無意識の中に引き込む回路が断たれていないからだ。
「忘我」がもたらす力強い感情は、観客がそれに共鳴をした時には非常に大きな効果が得られるが、それが常に観客にとって心地よいものであるとも限らない。

脳は他者を真似ている

動物の脳にはミラーニューロンという働きがあって、共感を示しているときには、相手の脳のニューロンの振る舞いを自分のニューロンが真似ているというのだ。
ミラーニューロンの働きから考えると、「忘我」の状態は共感的な観客にもやはり「忘我」に近い状態を引き起こさせることになる。そして、「忘我」は自分の過去の傷や悲しみを思い起こさせるものであった。すると、それはある一定の観客に深く刺さるものになる一方でまたある観客にとっては耐えがたいものだという可能性もある。
それに対して「恍惚」の状態は、自我が溶けてなくなるような状態なので、観客個人の記憶とは関わりがない。ただ“今ここ”において縁起する共感状態である。
僕個人の体験では、観世清和がシテをつとめた『砧』という能の舞台を観たときに、観客としてこの「恍惚」状態に陥った。
“今ここ”における無意識レベルでの共感、あるいは同一化は、全く言葉にできない感動である。非常に深い感動を覚えたにもかかわらず、観ていたときの記憶がほとんどないのである。記憶というのは個人的なものであるから、「恍惚」状態で集合的無意識に触れたときというのは記憶が曖昧になりやすいのかもしれない。
まあ、記憶がないということの是非はともかく、記憶を介した共鳴を必要としない感動があるのだというのは確かである。
そして、役者としてこの観客の無意識について考えてこそ演技が芸術たりえるのではないかと思う。

「こころ」と「心(しん)」

興味深いことに、能の世界でも個人的無意識と集合的無意識に相当する言葉があるらしい。「こころ」と言う時、それは常に揺らぎ、変化するものであり、個人的無意識に対応関係を持つ。それに対して「心(しん)」という言葉が指すのは、時代や個人を超えた人の心であるようだ。
能では、個人の表現は制限されているが、それは矮小な個人の「こころ」を抑制して普遍的な「心(しん)」を表現しようとする姿勢からきているのだろう。
僕としては、演技で個人的な表現をすることはよいと思うのだが、それが単なる思いつきレベルで行われるならば、それは表現を矮小化させてしまうと思っている。古典芸能もそれが生まれたときにはアヴァンギャルドだったはずである。それが古典芸能として残っているのは、それを作った人たちが個人的な欲望を満足させるためだけにやっていたのではなく、普遍的な人類の「心(しん)」を想って作っていたからではないだろうか。
これまでの書き振りから明らかであろうが、僕は「忘我」的な演技より「恍惚」状態の演技に大きな可能性を感じている。

今回は、「忘我」「恍惚」の二つの無意識状態について説明したが、どうすれば実際にこうした状態に到達することができるだろうか。それを考えるためには無意識の構造についてさらに詳しく見ていく必要がある。次回は、言葉との関連から無意識についてより詳しく考えたいと思う。


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