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『演技と身体』Vol.41 無意識の話⑨ 声の響きと無意識

無意識の話⑨ 声の響きと無意識

前回は脳の活動そのものを低下させることによって「恍惚」状態に接近する方法について考えたが、セリフという言語構造の枠内で「恍惚」状態に近づくことはできるだろうかという点を今回は考えたい。

響き

僕が可能性を見出しているのは声の“響き”だ。
例えば、歌を歌っている時や聞いている時に突然涙が出てきたり、感情が昂ったりしたことはないだろうか。
音楽は無意識の表面化を引き起こしやすい。というのも、音や響きは簡単に自他の区別をなくすからだ。
合唱をしている時や、ライブ会場などで大きな声を出している時、なんとも言えない一体感が生まれる。逆に合唱は全体主義や愛国教育にも利用されてきた。
音の響きは容易く自他の境界を越えて、無意識レベルでの他者とのつながりを作り出す
そしてそれはあまり歌詞の意味を理解できない外国の歌やほとんど言葉を聞き取れない能の舞台の鑑賞においても起こるのだ。

発話の三層構造

言葉を話すということは、「意味・イメージ・響き」の三つの層から成る複合的な行為だ。そのどの一つが欠けても発話というのは成り立たない。

「意味」「イメージ」は、言語構造についての回で説明した言語の〈統語法〉(文法)的働きと〈喩〉的働きが作り出すものである。
「花子は太郎の母親である。」という時、主語・述語などの文法を規定している〈統合法〉の機能と「花子」と「母親」に共通のイメージ(女性)を見出し重ね合わせる〈喩〉の機能によって文は成り立っているのであった。
そして、これをいざ発話する段になると、この文にどのような響きを持たせるのかということが問題となり、それこそが演出・演技のポイントとなるのだが、この時多くの演出家・役者は言葉の意味の方に寄りかかってしまう。
これは歌で考えればわかるが、歌う時には音程に乗せて声を出すことが最も大切だ。意図的に音程から外れることはあるが、それも響きを問題にしている点では同じである。そして、メロディ(響き)は歌詞(意味)とは別に独立して感情を含んでいる
もちろん慣れないうちは歌詞に注意しながら歌うのだが、歌詞を見たり思い出したりしながら歌っているうちは無意識状態にはなりにくい。歌詞をあまり意識せずに歌える状態でメロディに身を任せる時、無意識は表面化するのだ。
ところが、演技になると多くの人は言葉の意味にとらわれてしまう。頭の中を響きではなく言葉でいっぱいにして、抑揚についてはせいぜい「大きく/抑えて」というレベルでしか問題にしない。あるいはセリフを別の言葉やイメージに置き換えてニュアンスを表現しようとする人もいる。こちらは悪くないが、やはり言語構造の枠内に収まってしまっており、無意識を引き出すには十分ではない。
逆に無意識(個人的無意識)を引き出す訓練を受けている俳優は、言葉のイメージを拠り所としていることが多く、セリフを勝手に変更してしまうことが多い。悪い場合にはセリフの意味が変わってしまう。

響きと響きの戯れ

僕が提案したいのは、歌うときのように、声の響きを拠り所にセリフを発するべきだということだ。
セリフの意味は脚本が書かれている時点で担保されており、そのことのついて役者が責任を持つ必要はない。だから、セリフの意味を深読みすることに心を砕く役者が多くいるが、それは少なくとも表現の観点から言えばあまり大きな違いを生み出さない。
問題なのは、ただそのセリフをどのように響かせるのかだけなのだ。そして、それを意味を拠り所に考えようとするから間違いが起こる。ただ、その場の雰囲気や相手や流れの中で適切な響きを持たせることを第一に考えるべきなのだ。
セリフの言葉は反復して覚えることで、無意識化しておくことができる。演ずる時に、セリフの意味を考えながらやっているようでは遅い。演ずる時にはセリフの意味は考えず、響きに集中できる状態を作っておく相手のセリフの意味を受け取るのではなく、響きを受け取る
そうなれば、役者同士のセリフの掛け合いは響きと響きの戯れとなる。そして、響きは簡単に自他の区別を越えて集合的無意識が表れる。
その時、言語構造から自由になったということができる。
言葉の意味にこだわってしまっている場合、意味レベルでは噛み合っているように見える芝居でも、響きのレベルで食い違いが起こっていたりする。そしてこれは観ている側にとっても無意識のことなので、漠然とつまらない印象になり、入り込めないと感じてしまうのだ。
響きのレベルで芝居を合わせてゆくと、観ている側もいつの間にか引き込まれてしまう。たとえ言葉の意味が分からなくてもだ。
能はまさに、響きを拠り所にした台詞回しが行われる芸能である。
能では古語が使われているから、意味は部分的にしか分からないのだが、それでも人物の感情が深く伝わってくるように感じられるのは、響きを通じて観客を引き込むからなのだろう。

内蔵レベルの共鳴

なぜ言葉の意味がわからなくても響きだけで観客を感動させることができるのかというと、声の響きは聴く人の内臓に直接的に共鳴を引き起こすからである。
感情とは内臓反応の知覚である。だから感動は、言葉の解釈(=認知行為)なしに起こりうる。
内臓は不随意筋といって意識的に動かすことのできない器官である。つまり内臓は無意識である。つまり、観客との内臓レベルでの共鳴もすべて無意識の領域で起こることなのだ。

抑揚のスケール

響きと言うとまず抑揚があるが、抑揚もラージスケールの抑揚ミドルスケールの抑揚スモールスケールの抑揚が考えられる。
ミドルスケールの抑揚というのが一般に言う抑揚に当たるが、最近の僕の演出ではこのミドルスケールの抑揚はあまり使わずにラージスケールの抑揚とスモールスケールの抑揚を併せて使う試みをしている。
ラージスケールの抑揚は、音の高さを高音・中音・低音をフレーズやセンテンス単位でつけていく。スモールスケールの抑揚は一つの音の中でも変化するような微小な抑揚である。ラージスケールの抑揚は事前に決めておき、演技の中でそれにスモールスケールの抑揚を当てていく。すると、ラージスケールの抑揚とスモールスケールの抑揚が衝突して、感情的な揺らぎが響きに表れてくる。
ラージスケールの抑揚は事前に設計するものなので、芝居全体としての意図や表現意図を明確に意識しながら決められる。そして、回ごとに変わることがないので、芝居全体の安定感を作り出す。他方で、スモールスケールの抑揚はコントロールできない感情の揺れである。感情の昂りの度合いや質によって出てくるものが都度変わる。
つまり、ラージスケールの抑揚は意識(あるいは離見)で、スモールスケールの抑揚は無意識なのだ。ラージスケールの抑揚にスモールスケールの抑揚を当てていくと、ラージスケールの抑揚に乱れが生じてそれが崩されていくような形になる。これは意識と無意識の拮抗の果てに意識が無意識に飲み込まれていく様の具体的な表現となる。
ミドルスケールの抑揚は、大きくつけ過ぎると芝居が大袈裟に聞こえてしまう。するとミドルスケールの抑揚の中では感情を思い切り出すことが難しくなってしまう。ラージスケールの抑揚とスモールスケールの抑揚を併せて使う場合には、意識と無意識の対決・拮抗がある。だから、ラージスケールの抑揚にスモールスケールの抑揚を思い切りぶつけていっても自然と抑揚が働くことになる。
Vol.21で「離見の見」とは、「離見」と「我見(自我を超えた我見)」の二重状態に入ることであると述べたが、それは意識と無意識の対決であるとも言い換えられる。
その他にも声の響きの要素としては、vol.25声の表情の回で紹介した、声の重心、「横(おう)の声/豎(しゅ)の声」、母音のフォーカスなど、様々なものがある。
これらを感覚的に使えるようになった時、集合的無意識への門は開かれるのかもしれない。


長きに渡った無意識の話はおおよそ以上で終わりであるが、自分で予想していた以上に大掛かりな論考となってしまったので、次回、なんとなく全体をまとめておきたいと思う。



※【公演情報】10/27~30 初の舞台演出作品『相対性家族』が上演されます。


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「うちの夫、わたしから見たらスローモーションなの」
「うちの次男ときたら、まるで逆再生しているみたいだ」
「。よだり送早らた見らか僕、はんさ母」
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劇団一の会
Vol.52  相対性家族
作・演出:高山康平
@ワンズスタジオ
出演: 坂口候一  熊谷ニーナ  玉木美保子  川村昂志  粂川雄大
桜庭啓
大平原也(A) 梅田脩平(B)
10月 27㈭19時(A)
  28㈮14時(B)・19時(A)
  29㈯13時(B)・18時(B)
  30㈰ 13時(B)
ご予約https://www.quartet-online.net/ticket/sotaisei?m=0ujfaee


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