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『演技と身体』Vol.21 離見の見

離見の見


離見の見
りけんのけん
世阿弥が能楽論書「花鏡」で述べた言葉。演者が自らの身体を離れた客観的な目線をもち、あらゆる方向から自身の演技を見る意識のこと。反対に、自己中心的な狭い見方は「我見(がけん)」といい、これによって自己満足に陥ることを厳しく戒めている。現在でも全ての演技にあてはまることとして演者に強く意識されている。

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「離見の見」は世阿弥が残した言葉の中でもとりわけよく知られているものの一つで、上記の通り役者自身の身体を離れた客観的な目線から自身を見る意識のことである。この言葉は能や演技以外にもビジネスの場面でも使われているが、あらゆる言葉がそうであるように広く使われれば使われるほど安易に解釈されるきらいがあるようにも思う。今回はこの「離見の見」についての僕の考えを書いていこうと思う。

観客よりも厳しく自己を見る

世間一般で「離見の見」という言葉を使うとき、いわゆるメタ認知というような意味合いで用いられていることが多いのではないだろうか。自分を外側から眺めて点検する視点ということだ。確かに「離見の見」はメタ認知を含む。しかし、それ以上の意味があるのではないかと僕は考えている。
前回の記事でも書いた通り、世阿弥が「離見の見」の境地を見出したのには、観客の視点を先回りすることで観客の批判をかわしたいという意図があったものと思われる。しかし、注意しなくてはいけないのは観客の目以上に厳しい視線が自らに注がれているということである。先に引用した説明をよく見れば、そこには「あらゆる方向から自身の演技を見る」と書いてある。観客の視線を先取りするだけであれば正面からの見え方だけを気にすればよいはずである。しかし、観客からは見えない背後を含めて「あらゆる方向」というのだ。どうしてそんなことが必要なのであろうか。そして、どのようにしたらそんな意識を持つことが可能になるのであろうか。

「離見の見」=身体的な制限を自らに課すこと

なぜ自身を全方位から点検するような厳しすぎるとも思える意識が必要なのか述べる前に、まず果たしてそのようなことが可能なのか検討したい。
「離見の見」とはいわば「我見」と「離見」の二重状態に入ることであるが、そもそも二つのことを同時に意識することさえ難しく、まして前からも後ろからも横からも自分を眺める意識を同時に持つなんてとても不可能なように思える。そこで問題はこれらの意識をいかにして一元化するのかということになる。僕の考えでは「離見」というものを、自分の体を外側から制限する圧力のようなものとすることでこの問題を乗り越えることができる。詳しく説明しよう。
先ほど「離見の見」とは単なるメタ認知以上のものであると述べたが、それはつまりただ外側から自分を眺めるだけに止まらず、自分の身体に強く働きかけてくるものなのではないかと思う。これは能という芸能の特質とも関わるのだが、能というのはあらゆる動きが型によって決められているだけでなくシテ方(主人公)は面をつけることによって表情までもが封じられることになる。この型や面は演技者の内側から出てきたものではなく、外見上要求されるものである。つまり、能の演技者は決められた動きをする時あらゆる方向から身体的な制限を受けた状態に身を置くことになるのだ。この時、“あらゆる方向から”の意識は“型”という一つの意識に統合されることになる。
つまりこうした身体的な制限を自ら作り出すことこそが「離見の見」の意識なのではないだろうか。
“型”という言葉は現在でこそ古臭く創造性のないもののように思われているかもしれないが、世阿弥が生きた時代というのはほとんどが新作能で、“型”は当然作り出さなければいけなかったわけで、そこには強い創造的エネルギーが要求されたはずである。
すべての動きの型を決めることは現代の映像・演劇の演技には合わないだろうが、その役に入るに当たってある一定の身体的制限を課すことは有効なのではないかと思う。つまり、“ありのままの私”ではなく非常に特殊な身体的状態の中に入ってゆくということだ。具体的には体軸や姿勢、声の出し方などを決めてしまうということだ。こうしたことは、もちろん役柄の表現としても有効なのだが、それだけではない。なぜこれほどまで厳格な「離見」を持つ必要があるのかという話につながる。

「離見の見」が強い感情を引き出す

ここまでで述べてきたように、僕の考えでは「離見」とは自己の身体を自ら強く制限しようと外から働きかける圧力のことである。しかし、それによって役者の身体は全く自由を失うことになるのだろうか。そうではない。と僕は思う。人間の心は圧力を感じたらそれに反発を感じるからだ。むしろ何かに反発を感じる時、人間の心はとても強く動く(このことは第16回にも通じる)。すると「離見の見」とは役者が心の強い動きを引き出すために自ら課した制限なのではないだろうか。
身体に強い制限をかけつつもそれを突き破るようにして心の動きが身体に表れた時、その動きはそのまま「心の動き」なのである
つまり、「離見の見」によって「身体即心、心即身体」という境地が開かれることになる。制限を受けた身体が動くということは、「離見」と「我見(心)」が対決をするということに他ならないのだ。そしてその結果生まれる動きはどのようなものになるか。
世阿弥の言葉に「動十分心 動七分身」というのがある。“心の動きは十分に、身体の動きは七分に止めよ”ということだ。心は圧力(離見)に反発して十分に動き、身体の動きは「離見」と「我見」に拮抗により七分に抑えられることになる。役者自身は思い切り演じていながら、表現としては抑制が効いて大袈裟にならない。非常に厳しい「離見」を持つことによって、役者は思い切り演じることができるようになるのだ。「離見の見」とは決して冷めた態度を指すものではない。

意識は「離見」に持ち、心は世界に委ねる

ここまでを一度まとめると、「離見の見」とは外側から自分の身体を強く制限しようとする態度のことであり、そのことによって却って内部から強い心の動きが生まれる。その心の動き(我見)と制限(離見)がぶつかり、あるいは心が制限を突き破ることによって、訴えかける表現が生まれる。
ここで気になることが一つ出てくる。役者自身の意識は「離見」と「我見」のどちらに持つべきなのだろうか。最初にも述べた通り、二つの意識を同時に持つことはおよそ不可能である。
僕なりの考えを述べると、意識は「離見」の方に持つべきである。というのも、心は“動かすもの”というよりも“動かされるもの”あるいは“動いてしまうもの”だからだ。自分の心を意識的に動かそうとすると逆に冷めてしまったり嘘くさく感じられたりしてしまうものだ。冒頭に引いた定義には「我見」とは、“自己中心的な狭い見方”とあったが、それはこのように矮小な自我が一生懸命に自分の心を動かそうとする態度のことではないかと思う。
他方、僕は自己中心的でも狭くもない「我見」の在り方が可能だと思う。自分の都合で勝手に心を動かそうとするのではなく、世界(あるいは相手)に対して自分を開き“動かされてしまう”感じやすい自我の状態を作るのだ。逆説的だが、自我を捨てることによって、矮小な自我を超えた強い心の動きが生まれる。そして、自我を超えた自我が身体を通して表現された時、それは普遍性を獲得し、多くの人に届くものとなるのだ。しかも、またしても逆説だが自我を超えた存在は「私」ではないがそこには「私」が含まれている。だから自我を超えていながら同時に「自己表現」でもあるのだ。
ではそうした自我を超えた「我見」はどのようにすれば可能か。一つには第9回「関係的に考える」で述べたような相互アフォーダンスによって“動かされること”によってであり、一つには第8回「感情と内臓」で書いた通り“腹を開くこと”によってである。
すると、「我見」と「離見」の対決とは、自我を超えた「我見」を矮小な自己意識による「離見」が 抑え込もうとすることなのだ。全体としては「離見」によって抑制が効いていながら、大きく心が動いた時には「我見」は「離見」を突き破って身体全体に表現として表れるのだ。
だから自己意識は基本的には「離見」の方に持っておき、それが心によって突き破られた時には意識を手放してしまえばよいのだと思う。


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