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『演技と身体』Vol.16 演技のドラマ性〜動きが意味を生み出す〜

演技のドラマ性

「シナリオのドラマ性」と「演技のドラマ性」

我々が作る作品のほとんどはシナリオや少なくともプロットがあり、その流れに沿って各シーンの演出や芝居を決めていく。観客も、シナリオ全体の話の流れに注目し、それに感動する。こうしたシナリオの持つドラマ性については多くの人が普段から意識する部分であり、ことさら説明も必要ないだろう。しかし、そうした「シナリオのドラマ性」とは別に「演技のドラマ性」というものがあると言ってピンと来る人はあまりいないかもしれない。これは無意識だが感覚的に取り入れている人か全く意識していない人がほとんどで、意識的に演技の中に取り入れている人はごくわずかだろう。

「演技のドラマ性」とは

まず「演技のドラマ性」とは具体的に何を指すのか。
シナリオには流れ(起承転結・3幕構成など)があるが、その流れから生まれる強い感情の体験をドラマと呼ぶのだとすれば、ドラマは“流れ”から生まれるのだと言える。そして、演ずる時に役者は身体を動かすわけだが、この時ただなんとなく動くのではなく、動きに流れを生み出すことができれば、観る人はその動きの中に感情を見出すことができる。このように、動きに流れを作ることで生まれるドラマ性を「演技のドラマ性」と呼ぶことにする。
シナリオの持つドラマ性というのは、観客が頭で解釈や認識をすることによって成り立つものだが、演技のドラマ性は観客の身体に直接訴えかけるものである。
人間や一部の動物の脳にはミラーニューロンという働きがある。例えば目の前で痛がっている人がいてそれに感情移入する時、我々の脳は痛がっている相手の脳の状態をそっくり模倣している。つまり、この時我々の脳は実際に相手と共に痛がっているのである。これは解釈や認識を超えたものであり、半ば強引に感情に引き込まれる体験である。
つまり、「演技のドラマ性」とは解釈や認識に依らない、より動物的な感動を与えるものなのだ
日本の観客は物語の展開や筋を重視するため、演出家も役者もシナリオというものに安心しすぎている。シナリオのドラマ性一辺倒でやってきた結果、日本では原作主義の独裁となってしまったのではないだろうか。そしてシナリオのドラマ性に頼っている限りは、役者の成功は良いシナリオに出会えるかどうかに懸かってしまうことになり、役者はますます演出家に依存せざるを得なくなってしまう。

「静止」

ここからは、演技のドラマ性を生み出す具体的な技術論に入ってゆく。
究極的に言えば、足を一歩踏み出す中にも「序・破・急」の流れがありドラマがあるべきであり、それを突き詰めたのが能の世界であるが、ここではもう少しわかりやすいものを三つ取り上げる。一つは「静止」であり、二つ目は「振り子」、そしてもう一つが「助走」である。
「静止」とは文字通り身体の動きを停止することである。単純なことに思えるが、自然に動きを止めることは案外難しい。柄本明の演技の妙はこの「静止」から生まれていると思う。彼は、大事な台詞や動きの前なんかにふっと動きを止めるのだが、それによってその次の言葉や動きが非常に大きな意味を持つように感じられるのだ。この「静止」がうまくできるようになるためには、深層筋を使って動ける必要がある。表層の筋肉は動きが大振りなので、急には止まれないのだ。(第7回を参照)

「振り子」

次に「振り子」であるが、これは振り子のようにぶらぶら動くことではなく、動きたい方向に動く前に一度逆の方向への動きを入れるというものである。後ずさる動きであれば少し前に出てから後ずさる。肩を落とすのならその前に少しだけ伸び上がる。怒りで立ち上がるならまず身体をギュッと縮める。顔を背けるならその前に相手をチラッと見る。などなど。
能の動きを観察しているとほとんどにこうした「振り子の動き」が設計されていて、内容や台詞がわからない時でも、感情が際立って伝わってくるのである。

「助走」

三つ目が「助走」である。
例えば机をバンっと叩いて感情を表現すると、観ている側は確かにびっくりするのだが気持ちがついてこないことが多い。それまで机なんて注目していなかったものだから、何が起こったのかということがよくわからず置いてけぼりを食ったまま役者の方だけが演技を続けているような瞬間があるのだ。
このような時、まず机を叩きたいという気持ちを抑える必要がある。でもやっぱり気持ちとしては叩きたい。そうやって抑える気持ちと叩きたい気持ちを拮抗させて叩く。すると形としては、思い切りではなく控えめに叩くということになる。それを一度なり二、三度なりやった後で、いよいよ気持ちを解放させて思い切り叩く。バンっ!と。
この時、最初の控え目な動きが最後の動きの「助走」として働く。助走の時点で観客は机を叩く動きに注意が向くが、それを繰り返すと観客は無意識に次も同じ音が来ると予測する。そこでいきなり大きな音が鳴る。観客の側はある程度それに対する準備がありながらも予測が裏切られた驚きを感じる
助走をつけることによって動作に流れがを感じることができるようになるのだ。

分節化が流れを感じさせる

さて、上記のような動きが動きに流れを作り、ドラマ性を生み出すのはどうしてなのだろうか。ここには三つの働きがある。
まず、次の動きに入る前に「静止」することや「振り子」の動きを入れることによって動きが分節化されるという効果がある。歩いている人がそのまま走り出すよりは、一度止まってから走り出した方が走り出す瞬間の意味合いははっきりする。静止によって歩くと走るの間に切れ目を入れ、意味のある動作をその他の動作から切り離し、際立たせることができるのだ。流れを感じるのは流れが変わった時である。「静止」や「振り子」はそうした流れの変化を明確化し、感じやすくさせる効果があるのだ。

注意を引きつける

また、「静止」や「助走」を入れることで単にそこに注意を引きつけることができる。動いていた人間が急に止まったら次に何をするのかという点に自然と注目が集まる。また、動きの助走をつけておくことで事前にそこに注目をさせ、動きに唐突さを感じさせないようにすることができる。「振り子」の動きを入れると、例えば一度伸び上がってから落胆するような動きをすると、その落下の幅が大きくなり、不自然さを感じることなく動きを大きく目立たせることができる。

強い感情を引き出す

さらに、これらの動きは役者自身の中で強い感情を引き出す効果もある。「静止」も「振り子」も「助走」も共通しているのは、動きたい衝動を一度抑制するという点だ。すぐに動きたくなるところを一度止まる、動きたい方向と反対の方に動く、動きたい動きを抑えて控え目に動く。こうして感情を抑え込む運動を加えると、感情はかえって反発してより強い力でその抑制を押し返そうと湧き上がる。感情は引っ張り出すものではなく、むしろ抑え込むことで反発を促して湧き上がらせるものなのである。そのようにして湧き上がってきた感情に自分をうまく乗せることができれば、非常に強い感情表現が可能となるのだ。

是風と非風

もちろんその場で感じたままに動くことも大事だし、僕はそのような瞬間がとても好きだ。しかし、感じたままに動くというのは技術ではないということは心に留めておくべきである。
能の大成者・世阿弥によれば、芸には「是風」と「非風」があるという。「是風」というのはいわば正当な芸であり、「非風」というのは正当から外れた邪道な芸のことである。興味深いのは、世阿弥が「是風」だけでは面白くないと言っている点である。「是風」の芸の中に「非風」の芸が入り込むことによって面白味が増すのだと。もちろん、「非風」は「是風」ができた上で初めて取り組むべきものであり、「非風」ばかりの芸は素人芸である。
これに照らし合わせると、まず動きに流れを作ってドラマ性を持たせる確固とした技術を身につけることが「是風」であり、その上で感じたままにめちゃくちゃに動く「非風」があるというのが良いということが言える。

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