見出し画像

『演技と身体』Vol.48 内臓一元論① 内臓・無意識・共感・呼吸

内臓一元論① 内臓・無意識・共感・呼吸

この連載は今年の1月から始めて毎週欠かさずに更新してきた。
続けることが一つの目的ではあったものの、案外書く内容に困ることもなく続けてくることができた。しかし、もう1年やれるかと聞かれたら「めんどくさい!」という言葉が反射的に出てくる。それくらい面倒なのだ(まあ、好きでやってるんだけどね)。
まだ世阿弥の芸論など紹介しきれていないものもあるので、不定期に更新はするにしても、定期連載は今年いっぱいでおしまいにしようかと思う。
残りの記事はこれまでの内容を総合する試みに費やしたいと思う。

これまでここで書いてきた内容は多岐にわたるもので、それを一つの体系にまとめあげるのは困難にも思えるが、”内臓感覚”の観点から眺めた時、ある一つの方向性を獲得できるのではないかという気がしている。
非常に頭の中がごちゃついているので、書いてみないとわからないがとにかく書いてみようと思う。

感情は内臓に由来する

僕が展開してきた演技論の主軸となるのが、“内臓感覚”である。
科学の分野では感情と内臓感覚との関連の強さがかなりはっきりとわかっている。感情は内臓反応に由来するのだ。(詳しくはVol.8感情と内臓
感情はしばし言葉で表現されるし、演出上のコミュニケーションにおいても言葉を介して感情を解釈することが多い。しかし、言葉では感情を汲み尽くすことができない。言葉にした途端、それは解釈でしかなくなってしまう。
そして実際、多くの役者は感情を再現しているというよりも解釈を表現しているだけになってしまっている。また言葉は身体の律動性を削ぐものであり、身体表現のダイナミズムを損なうものである。(詳しくはVol.10身体の脱植民地化
では、逆に言葉を徹底的に排して演技している時の衝動や漠然とした感覚に身を委ねれば良いかといえばそうでもない。なぜならそれは技術ではないからだ。ただ本能的に振る舞うのであれば、変に経験があるよりも素人である方がずっと有利だ。最初のうちはそうした感覚的な演技で評価されても、経験を重ねるうちに却って行き詰まっていく役者も少なくないように思うが、それは単にそれが技術になりにくいからである。
内臓感覚を使った演技は、感情を言葉に置き換える必要がなく、また技術的な体系化や先鋭化が可能だ。

内臓と無意識

内臓はそもそも意識的に動かすことのできない部分であり、自分の身体でありながら自我のコントロールの及ばない、いわば無意識の領域である。
無意識についてはVol.33~Vol.42で詳しく解説したが、演技に限らずあらゆる芸術にとっての永遠のテーマである。
内臓に感覚を澄ませることは、無意識の活動を引き出すことにつながる。
無意識について考える時、観客の無意識についても考えてきたが、そこでは内臓レベルで観客と共鳴することによって観客の無意識を引き出すのだと述べた。
共感にもシンパシー(Sympathy)エンパシー(Enpathy)の二種類がある。
シンパシーが感情的なレベルでの一体感を指すのに対してエンパシーが指すのは認知レベルでの共感である。相手の気持ちはわからないけど相手の置かれた立場を想像してそこに理解を示すような共感の仕方だ。
そのどちらも大切なのだが、観客のエンパシーを呼び起こすのは登場人物やストーリーの設定や展開に拠るところが大きいのでどちらかといえば脚本家や演出家の責任領域ではないかと思う。
しかし、この二つは混同されがちである。先に述べたような役者は言葉による解釈を開陳して観客から共感を引き出そうとするやり方は、認知レベルに属するもので、エンパシーを呼び起こすものなのだ。それが不要だとは言わないが、そのためにシンパシーの方が抜け落ちてしまってはいけない。
感情レベルでの共感、それは言葉(認知)を介さないものであり、役者の内臓と観客の内臓が共鳴し合う状態なのだ

内臓と呼吸

しかし、観客にとっても内臓は無意識である。そこでより意識されるのが呼吸である。(呼吸についてはVol.32間と呼吸
呼吸はやはり不随意に行われるものだが、ある程度意識が届く領野でもある。すると、呼吸は内臓に意識的にアプローチする唯一の方法であると言える。あるいは、意識と無意識を繋ぐ橋であると。
観客は役者と呼吸を合わせる(これも半ば無意識であるが)ことによって、内臓レベルでの共感を呼び起こしやすくすることができるのではないだろうか。

では、演技において内臓感覚を先鋭化する技術とはどのようなものなのか、また内臓がカバーする演技領域は思っている以上に広いのだということを次回示そう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?