見出し画像

 『詩集 みくさのみたから 皆元のすべ』飯田茂実 著

ヨガ教室の生徒さんから、私と同じようなことを述べているということで勧められ、お借りして読ませていただいた本である。
今回このような機会をいただいたということで、紹介を兼ねて解説ならびに所感を述べることにする。

所感を一言で述べると「素晴らしい」。

それはつまり、
生命に余計なものを付け加えて、生命をしばりつける言葉ではなく、生命にこびり付いた余計を素へと晴らし、生命のしばりを解き放つ言葉の数々なのである。

この本は七章443ページに及んでいるが、
第一章の最初に、「第二章から先はことに、入口を身につけてから目を通して下さるよう、お願いいたします(p15)」とあることもあり、
ここでは、
第一章にある言葉で、私的に気の向いたものを抜粋し、私的に解説するに留める。最後に「みくさのみたから 皆元のすべ」さんのリンクを貼っているので、興味を引かれた方は購読されたし。


第一章の前に、まずは「はじめに」の言葉から抜粋する。

みたからと結びあわせる

みたからは、いのちのすべです。いのちのすべなので、どうしても、全人類と関わりがあります。
みたからと組み合わせると、どんな枝葉も根元から、心地よく進化・発展していきます。
人のあらゆる活動と、組み合わせが効く、皆元みなもとすべ。みたからは、全人向けの万能術です。

(後略)

p7

いのちの術は、全人類、全宇宙、全てのすべてと関わりがある。しかしながら、関わりがあるからといって全人向けではない。何事も関心がない者にとっては不向きなのである。
ヨガもまた同じように、全人類に関わりがありながらも全人向けとは言えないのである。

ありきたりな道

みたからは全人向けの、いのちのすべ。いのちはみんな、かけがえなくて、ありきたり。
ややこしい人は ややこしく理屈をつけます。まわりくどい人は まわりくどく騒ぎます。
長く修行したり、お金をはたいたりして、秘宝とか特殊技術を身につけないでも大丈夫。
晴れやかな万人向けの道っていうのは例外なく、たちまち・たやすく・心地よい道です。
あらゆる人に ひらかれた道、たちまち・たやすく・心地よく、皆が辿っていける道です。

(後略)

p10

大方の人は物事の「シンプルな本質」よりも、権威、技術、特別な何かに幻想をいだいて価値を見出し、多くの「複雑な知識」を学びたがるものである。無論、御多分に漏れず『ヨガ』もまたその一つに違いない。。。
それ故に、
「伸び」をするだけで、ハタ・ヨガ教典において特殊な秘宝とされる「三重の締付(バンダ・トラヤ)」を、まったく無理なく自然に行うことになることなど思いもよらないであろう。

この「みくさのみたから」と同じく、私の提唱するヨガもまた、伸び・あくび・ため息などを基盤においており、生命いのちのことは、生命いのちを信頼し、身体いのちが進むべく心地よさに任せるというのが結論なのである。
それはまったくややこしくなく、とことんシンプルであり、誰にとっても開かれており、まったくあたりまえの営みなのである。
ちなみに、「あたりまえを あたりまえに」これが尾山ヨガ教室の謳い文句である。

この本は、幸福や健康を外側の何かから得ようといつもアンテナを張っている方々はもちろん、ヨガを熱心に愛好している方々にとっても福音となり得る。
興味を持って己の心身を生命・自然の観点から読み進めるのなら、きっとヨガやら権威やら名声やら技法やら流行やら……の囚われから自由にしてくれることであろう。

さて。

第一章の終わりに、

たなそえる まことのる ちのみちとおす。みっつでひとつ 皆元のすべ たまちのすべ。

p76

と書かれてある。
私的に、以上の3つを整理すると、

1.たなそえる(胸、感情面、哺乳類脳、慈愛などに関連する)
2.まことのる
(頭、思想面、人間脳、智慧などに関連する)
3.ちのみちとおす
(肚、身体面、爬虫類脳、元気などに関連する)

となる。
つまり、「みくさのみたから」とは、これら3つの測面から総合的に心身いのちに働きかけ、心身いのちにこびり付いた余計を取りのぞき、心身いのちの働き(気の流れ)を整えていくすべだと解釈できる。

勝手ながら、ここから先は 身体面 → 感情面 → 思想面 と人類の進化の過程にそって話を進める。



1.身体面 - はら - 爬虫類脳

まずは、身体的に詰まり滞っている気道を通すという測面からの言葉を抜粋する。
これはハタ(ちから)・ヨガと呼ばれる密教タントラヨガに相応するであろう。身体的な詰まりが通ると、自ずと元気が湧き上がるのである。

のびをして いのちのみちをとおす

緊張を緩めるには、緊張しているところに心地よくチカラを加えて、それから緩める。
出任せの声で、んむぅ!と伸びをすると、体のあちこちに心地よくチカラが入ります。
伸びをして、緩める。また、伸びをして、緩める。心地よくチカラを込めて、緩める。

p27

念仏の如く繰り返しているのだが、ここにも書かれている通り「伸び」は筋伸張ストレッチではない「伸び」はチカラを込める筋収縮シュリンクである

伸びの発声は、文字での表現は難しいものの、私的には「んむぅ!」というよりも、「ふんぐぁぁぁ、ふんぐぃぃぃ、ふんぐぅぅぅ、ふんぐぇぇぇ、ふんぐぉぉぉ」などの表示が分かりやすく思う。
チカラを込めてイキんだ結果、締まった声帯の隙間から漏れる「かすれた音」になる。

ひとたびだけでは物足りない。せっかくなので朝ごと日ごと何度でも伸びを繰り返します。
繰り返すほどに、頭の・くびの・胸の辺りの、コリ、しかり・氣づまりが抜けていきます。
氣分すっきり晴れやかになって、名病なやみが消えてしまう。面白おかしい工夫が湧いてくる。

p27

溢れくる生命の波に乗っかかるなら、事あるごとに伸び、伸び、あくび……などと連続して起こるものである。
ところで、
ここでは『なやみ』を『名病なや』と当てているが、実に、「悩み」とは『名前(思想観念)』によって起こる病気(気の停滞)なのである。

伸びをしたり、欠伸あくびをしたりすると、いのちのみち=ちのみちが、すっきりとおります。
この時、何らかの知識や技術にもとづいて、意識で体を操っているわけではありません。
いのちはよく出来ています。心地よい動きがいつも、いのちから直に湧きだしてきます。

p27

ここでの「いのちのみち」は、ハタ・ヨガでいうところの「気道(ナーディ)」に相応するであろう。

世の中には伸びはもちろん、欠伸も起こらないという方も少なくないようではあるが、欠伸ならば起こってしまう方も、意図的に起こせる方もそこそこいるであろう。
欠伸は出てしまうものであると同じように、伸びもまた体操のように意図することなく反射的に起こる爬虫類脳(本能)の働きであり、意図的に行うものではない。
※ ただし、私自身に関する限り、 欠伸あくび反射を意図的に誘発することは可能だが、意図的に行うことはできない。伸びはある程度意図的に行うことができる。

頭痛・肩こり・首こり

前世紀の東京では、頭痛・肩こり・首こりの専門クリニックが大繁盛していたそうです。
頭を使って頑張って働いていた人たちが、伸びを愉しむのを忘れていたからでしょうか。

(中略)

行列のできるやみの院の待合室では、まず三十分ほど皆に、伸びを続けてもらいましょう。
頭痛・肩こり・首こりだったら、伸びを続けているだけで、たいてい消えてしまいます。

p28

朝ごとに伸びを続ける

目が覚めるたびに、伸びをして ひと日を始めている方がたは、どなたもわりと元氣です。
かたや病院の病室を自宅代わりにしている人たちは、目覚めたとき伸びをしていません。
慢性病と診断された方、精神病と診断された方、みなさん伸びを忘れて、カチコチです。
診断するほうの お医者さんも、日ごろから伸びを忘れていたりして、困ったことです。
いのちの立場を、自然な営みの効力を、医療関係者は、知っていたほうがいいでしょう。

p29

赤ちゃんを観ていると、目覚めぎわになると「ふんぐぅぅ〜あ"ぁぁ〜、ふんぐぁぁ〜あ"ぁぁ〜」っと伸びを繰り返し、やがて「あああーっ」っと泣き出したりする。
※ この「ふんぐぅぅ〜」はチカラを込めて緊張していくとき、「あ"ぁぁ〜」はチカラを抜いて弛緩していくときの発声を表現している。

コリ・しこり・氣づまりを抜いて、こわばりを緩めるため、自然な伸びは欠かせません。
肩こり首こり・寝ちがえ・ちょっとした頭痛など、伸びをしたらすぐ消えてしまいます。
このくらいのことは命の常識・本能の常識です。哺乳類みんな朝ごとに伸びをしている。
せっかく命にとって心地よくて効き目のあることなんだから、もっとやってみたらいい。
大好きな人とキスして心地よかったら、もっと色いろ試してみたくなるのが命でしょう。

p29

赤ちゃんを観ていると、名前をつけて色形を分別する「人間脳」はもちろん、喜怒哀楽などの感情を表現する「哺乳類脳」もあまり機能していない様子である。
伸び・欠伸あくびは、本能的に刺激に反射する「爬虫類脳」の働きであり、ヘビやトカゲなどの爬虫類にも起こるでのではなかろうか。

ちのみちとおす

伸び・あくび。生き心地よく過ごすための本能。いのちが自然と晴れやかになる動き。
こうした動きで、いのちのみちをとおすほどに、いのちはますます心地よくなります。
いのちにとって心地よく動くほどに、いっそうすっきり、いのちのみちがとおっていく。
どうせなら、もっともっと心地よく、コリ・しこり・氣づまりを抜いてしまいましょう。
もっといのちの流れをよくして、もっと心地よく、晴れやかに元氣になってしまいます。

(後略)

p30

常日頃から伸び・欠伸をどんどん繰り返し、もっともっと元気になってしまおう。

イケ声を楽しむ(三分くらい試してみます)

誰でも伸びをするときには「んむぅあぁ」と、倍音を含んだ不思議な声を出しています。
重い物をもつとき。温泉に入ったとき。痛みを消したいとき。ついつい出てくる倍音声。
赤ちゃんの声も同じです。誰でも赤ちゃんのころ、意識しないでこの声を出しています。

p38

人間脳は、曖昧な自然音を、明確な人工音へと変換してしまう働きがある。犬は「ワンワン」、猫は「ニャー」、鐘は「ゴ〜ン」、ベルは「リンリン」などなど、日本語なら「あ」から「ん」+ α の発音に変えて自分達に分かりやすく表現するのである。

ここでの「ついつい出てくる倍音声」は、人工音では表現できない声であり、人間脳にとっては分かりづらい曖昧な声であり表現しづらい声である。
加えて、オナラのように誰にも聞かれたくない恥ずかしい声と思う人も、人前では下品で失礼な声と思う人もいることであろう。
何にしても、
さまざまな要因が相まって、人間は伸び・欠伸を意図的に抑え込んでしまうのである。

史上最強・世界最速の 整体法(三分くらい試してみます)

哺乳類が素早く大きく動くときには必ず、いのちのまんなかにチカラが集まっています。
哺乳類の いのちの真んなかははら。思いきりイケ声を出すと、腰肚にチカラが集まります。
イケ声は、素早く・たやすく・心地よく、肚を鍛えて丹田たんでんを強化する方法でもあります。

p39

自身を観ていると、「伸び」は爬虫類脳による背骨の反射動作が基盤にあるらしく、予備動作なく反射的にサッっと素早く動くことができる姿勢をとる。
赤ちゃんを観ていると、「んがぁ」などといったイケ声とともに肚(下腹)から背骨を波立たせて反射的にパッと動くが、爬虫類であれ哺乳類であれ、素早く反射的に動くには、肚から背骨をムチのように波立たせることが必要なのである。

ちなみに、一般的な体操やヨガのポーズではこうはいかない。そこには予備動作が必ず含まれるため、どれだけ早く動こうと意図しても反射に比べてワンテンポ遅いササッとした動きとなる。

話がずれた。
ここでの「イケ声」を出すためには、肚にチカラを集め、全身を協力してチカラを込める必要がある。逆に「イケ声」を出したなら、肚にチカラが集まり、全身が協力してチカラが込められてしまうのである。

イケ目・イケ顔・イケ声で、肚にチカラを集めると、いのちに必要な動きが生まれます。
今この瞬間、いのちにとって、もっとも心地よくて、効き目のある動きが生まれてくる。
思い切りイケ声を出すのがコツです。かならず口を開きます。どんな開け方でも大丈夫。

こうしてちのみちとおすのが、もっとも素早く・たやすく・心地よい自力整体法です。
身ひとつで出来る。教え込まれた知識や技術・敬うべき権威などに頼らないで済みます。
誰でも出来る。いのちと直に繋がって、いのちから直に教えてもらえば、こと足ります。

p39

本のなかの「イケ目」の説明では「目の玉をかるく上のほうへ向ける(p23)」とか、「イケ声」の説明では「かならず口を開けましょう(p25)」と書かれているが、そんな決まりを作ることなく本能に任せるのが適切であろう。
また「イケ顔」の説明では「口・鼻・首・肩をおもいきり心地よいほうへ伸ばしてあげます(p25)」と書かれているが、伸ばしてあげるではなく、チカラを込めて動かしてあげるの方が適切な表現といえよう。

自身を観ていると、伸びのさなか、眼球はうわ向かないまま目を閉じ眉を下げたしかめっ面や、目を閉じ眉を上げた表情も盛んに起こるし、もちろん眼球が下向くときもある。口はいびつな形に閉じることも開くこともある(赤ちゃんを観ていると、泣くときに上眼になることは多い)。

まぁ、伸びのときの表情を私的に表現するなら、性的緊張により"イク"ときの表情、アヘ目・アヘ顔である。これは上目にも下目にもなったりする。
また、
ここでいうイケ目・イケ顔を私的に表現するなら、一昔前の不良が?喧嘩相手をにらみつけるときの表情、口を半開きにして下顎をかるくシャクレだし眼球を眉間へ向ける顔である。

何にしても、
眼球がどこを向こうが、口がどこに動こうが生命の流れ、心地よさに従うのが適切である。

もちろん、
ここで眼球を上に向けるという生命の流れを疎かにするという話ではない。やはりこれは、本能を呼び覚ます大いなる術なのかもしれない。

以下、ページを遡るが、著書によるイケ目の効果である。

イケ目になって

(前略)

うつ病と診断された人たちの目線はみんな例外なく、真ん中より下に向いてばかりです。
逆に、日ごと十五分あまりイケ目をしている人たちは、どうしてもうつ病になれません。
イケ目になっているあいだ、命は心地よい方に向かってスイッチ・オンになっています。
いま命にとって心地よい声・姿・動きなどを、イケ目になると命が直に教えてくれます。
目の玉をかるく上のほうへ向ける〈イケ目〉は、あらゆるすべへと通じる大きな入口です。

p23

確かに、眼球を眉間の方へ向けることでも思い切りチカラを込めやすくなる。これは身体的なことに加え、精神的に「恥ずかしい、失礼」など人間脳による社会的ルールのブレーキが外れて思いが切れやすくなり、より本能に従いやすくなるというのもその理由の一つであろう。

イケで生まれる ちのみちの流れ

イケ目になると、ちのみち(この場合いわゆる経絡けいらく)がふたつ とおりやすくなります。
ひとつは、いのちの根元のちのみち。大陸のほうでは腎経じんけいという名で呼ばれていました。
足の裏から内股を通って目まで通じる ちのみちです。根源的なチカラの通り道です。
目玉を下に向けてばかりだと、このみちが塞がれてしまって、時には逆流してしまう。
イケ目で目玉を上に向けると、新しく爽やかで根源的な生命のチカラを汲み上げられます。

(後略)

p24

この「ちのみち」は、ハタ・ヨガでの「中央気道(スシュムナー・ナーディ)」に相応するであろう。

中央気道とは、元気・根源力(クンダリニー・シャクティ)を汲み上げる気道であり、ハタ・ヨガ教典『ゲーランダ・サンヒター』第三章64節の解説には、

眉間を凝視しながら、自我の楽園を見つめるべし。これがシャーンバヴィー・ムドラーであって、すべてのタントラ(密教教典)において秘密とされている。

続・ヨーガ根本教典(p78)

とある。

そもそもハタ・ヨガとは、中央気道に元気・根源力を通すためのすべであり、中央気道の詰まりが取り除かれるのなら、自ずと元気・根源力が湧き上がり、やがては心気の消滅(=ヨガ)へと至る。

そしてこのとき人は、
自他分離のない元気そのものであり、身体を超えた【根源・真我】として在るのである。


2.感情面 - むね - 哺乳類脳

ここまでは、身体的に詰まり滞っている気道を通すという測面からの言葉を抜粋した。
ここからは、感情的に詰まり滞っている気道を通すという側面からの言葉を抜粋する。
感情的な詰まりが通ると、自ずと慈愛が湧き上がる。

今たなそえるおおもと(十五分ほど試してみます)

目を閉じて、目玉をかるく上のほうへ向けます。これをイケ目と呼んでいます。イケ目のままで、胸のうえに、たなこころ(てのひら)を、ひとつに重ねます。
そして胸の内側から、胸の奥のほうから、たなこころを感じ、味わいます。
これは たなそえるおおもと と呼ばれています。大きなもとかたなので 大元居。
たなそえる大元居を試してみると、ほとんどの方が、心地よさに驚かれます。

(後略)

p19

ここでのイケ目は、ここに書かれている通り眼球をわずかに上向けるくらいが良いであろう。
というより、
目を閉じて至福を味わうような表情になれば後は、自然に眼球は移動するはずである。このとき口は軽く開くかもしれない。
赤ちゃんが母乳を飲んだ後、目を閉じ、至福に浸っているかのような表情になることがある。おそらくこのとき、眼球はわずかに上を向いているのであろう。

おおもとみっつの効き目/たなそえるもと

たなそえる大元居には、みっつの効き目があると、語り継がれてきました。
   ひとつ。胸の飢え渇きを充たす。
   ふたつ。胸のこわばりを緩める。
   みっつ。胸のヤミ(闇・病)を晴らす。
大元居は、このみっつを、もっとも素早く たやすく 心地よく成し遂げてくれます。

(後略)

p20

ここでの言葉をまとめる
1.胸の飢え渇き:不安であろう。その大元には自他分離による孤独の不安がある。
2.胸の闇:無自覚に抑えられた喜びや怒りや悲しみや楽しみの感情エネルギーが停滞している状態であろう。この停滞が、やがては「胸のやみ」へとつながるのであろう。
3.胸のこわばり:これら不安や停滞した感情による胸の緊張であろう。

胸のこわばりを緩める

お母さんに抱っこしてもらえなくなってからは、誰でも日ごとに胸が飢え渇きます。
私の御祖母おばあちゃんが言っていた通り、お腹と同じように 胸だって 日ごと ペコペコになる。
この胸の飢え渇きを、素早くたやすく心地よく、身ずから充たす方法が、大元居です。

充たされないまま渇いた胸を放っておくと、やがて胸がこわばるようになってきます。
大量消費社会では「胸の渇きを充たしてやるモドキ」が、あれこれ販売されています。
もちろん、そうしたモドキで代償行為をしていても、胸が緩むわけではありません。

(後略)

p21

ヒトとは、自他分離を引き起こす自我を抱え"個人"となったときから孤独の不安にさいなまれる宿命にある。
それでも母親に抱かれているうちは安心するのであろうが、根本的に自他分離の認識がある以上、人間の胸は飢え渇き続けるのである。

さようなら グローバル・システム

(前略)

胸が飢え渇いたまま、胸を充たしたくて、足りない何かを充たしたくて、ムダに頑張る。
これまでの、そうした暮らしを振り返って「クソみたいだった」と言った女子がいます。
いますぐにでも、みたからひらけば、そんな大変な暮らし方とは、さようならできます。

p54

様々な物事や知識や人を求め依存したり、人から承認されたり、人と時空間を共有したり共感し合うことが嬉しいのもまた、母親に抱かれる代償行為ともいえ、一時的にこの"胸の渇き(孤独の不安)"が潤うからであろう。

胸 を ゆるめる 喜怒哀楽

喜怒哀楽よっつの感情は、いのちの立場からすれば、吐息の仕方よっつということです。
いのちはいつも笑ったり、大声出したり、泣いたりして、いのちの機能はららきを高めています。
今どうしたら心地よくなれるか、どんな先生よりも、いのちのほうがよく知っています。

p37

赤ちゃんを観ていると、生後すぐから大声をあげて泣くことや、全身にチカラを込めた伸び・欠伸などは起こるが、感情表現は起こらない。
一月二月過ぎるとようやく笑顔も増えてはくるものの、快・不快にかかわらず笑顔になってしまうかのようで、未だ感情的ではない様子である。しかし何となく怒った感じ?に泣いたり、奇声を発したりなど、表現が多様になってはくる。

思いきり大声をあげているお子さんを静かにさせたら、免疫のチカラが弱ってしまいます。
大人だって大声を出している。夫婦喧嘩で。大音量のバーで。サッカーを観戦しながら。
泣くのを抑えてきた人は、歌や映画の助けを借りて、心地よく涙を流したりしています。

p37

赤ちゃんのように口を開き、大声をあげて、震えるほどに全身を使って泣く真似をすると心地よい。あるいは、大口を開き、大声をあげて、震えるほどに全身を使って怒るのもまた心地よい。
ちなみに、尾山ヨガ教室でのライオンのポーズは、欠伸をするかのように行ったり、大口を開き大声をあげて怒る勢いで行ったりしている。
※ 泣くも怒るも、大声を出さなくても、大声を出す勢いを作るだけでも心地よい。

私のおばあちゃんは言っていました。哀しい時ぁ泣きせえすりゃあ胸がすっとするでな。
腹が立った時ぁ大声あげて地団駄じだんだ踏みゃあいいだ。……これこそ いのちの智恵でしょう。
吐息を頭で制御コントロールし過ぎないよう、いのちの求めるまま、喜怒哀楽を愉しんで参ります。

p37

赤ちゃんは「哺乳類脳」の発達に合わせて、周囲環境が制しない限りにおいて素直に感情を表現していくであろうが、「人間脳」が発達していくに従い、色形に名前を付けて記憶しはじめ、世界を分別し、自我を形成すると……

未熟な自我を成長させていくために"子供"は、社会的ルールを身に付けていき、それに縛られていくことにより、嬉しいときに喜べず、腹が立つときに怒れず、哀しいときに泣けず、好きなことを楽しめなくなったりする。

それでも、
成長した自我を成熟させていくために"大人"が、身に付いた社会的ルールを解いていき、押し殺していた感情を解放していき、凝り固まった自我を"素"へと晴らしいくのなら、自ずと慈愛が湧き上がり、やがては自我の成熟・消滅(=ヨガ)へと至る。

そしてこのとき人は、
自他分離のない慈愛そのものであり、感情を超えた【平安・真我しんが】として在るのである。


3.思想面 - あたま - 人間脳

ここまでは、感情的に詰まり滞っている気道を通すという側面からの言葉を抜粋した。
ここからは、思想的に詰まり滞っている気道を通すという測面からの言葉を抜粋する。
思想的な詰まりが通ると、自ずと智慧ちえが湧き上がる。

まことのる 〜 吐息・声・眞コト・んむ

たまちの入口をくぐるには、イケ目・イケ顔に加えて、イケ眞コトが必要になります。
眞コトというのは、言霊ことたまを育てる言葉永い目でみて命にとって心地よく響く言葉
眞コトを響かせるには、声を出す必要があります。声を出すには、息を吐く必要がある。

p33

ここでの「眞コト」は、ヨガでの【真言しんごん(マントラ)】に相応するであろう。
ちなみに、「言霊」とは発した言葉通りに事象が現れるという言動の働きをいうようである。

ここでの「眞コト」を分かりやすくいえば、生命が求めている言葉といえるであろうか。
それは何か?
それは、「富、権力、名声……」など人間脳による思想的欲求を排除した、より動物的な欲求であり、それは、個人的・局所的・衝突的な欲求ではなく全体的・大局的・調和的な欲求ともいえる。
生命は、のびのびイキイキ心地よく大調和のなかで生きようと流れ働いているのであろう。

吐息に、声で乗る。声に、眞コトで乗る。できることなら、想い描いて、眞コトに乗る。
これを「まことのる」といいます。まことのるうえで、まず、吐息と声は欠かせません。
イケ目イケ顔で、身ぐるみまるごと ちのみち通すと、吐息が、声が、洩れてきます。

(後略)

p33

伸びや欠伸は声を出すのではなく、チカラを込めた結果、締まった声帯の隙間から声が洩れるのである。

思い込みを広くあらためる

あたまのなかの思い込みがちっぽけなほどに、人はいのちを縛って苦しめてしまいます。
ちっぽけな思い込みがあるせいで、飢え渇き・名病なやみ・氣づまりが生まれることも多い。

世のなかで言葉を用いて暮らすかぎり、人は誰でも、頭のなかに固定観念を持っている。
自分とは何なのか、世界とは何なのか、自分なりに、どこかで思い込んで決めています。

p45

飢え渇き:感情的な停滞・不安
名病み :思想的な停滞・苦悩
氣づまり:身体的な停滞・緊張

自分とは何なのか? 世界とは何なのか?

ヨガでは、個人的に信じ込んでいる思想観念の一切を否定し、聖典、聖者による真実に基づいた言葉である【真言】を信じ、あるいは確かめることにより、個人的に思い決め込んだ信念を破壊する
※ ちなみに、真言を信じることは信愛バクティ・ヨガ、真言を確かめることは智慧・ジュニャーナヨガと呼ばれる。
古来ヨガとは、基本的にはこの2つの内どちらかであろう。

まことのりとは 身ずから生みだす

イケ眞コトで、イケ声に乗せる、末広がりな章句は、まことのりと、と呼ばれます。
この章句は、それぞれに、身ずから生みだして、身ずから憶え、身ずからります。

(中略)

まことのりとの中身は、人それぞれです。皆で同じひとつの言葉をったりしません。
ちのみちとおすとき、動き方や、声の出し方が、みんなそれぞれなのと、にています。

(後略)

p47

ここで「みたからをひらく」と表現しているが、「みくさのみたからを実践することを「みたからをひらく」と言います(p9)」とある。
そして第一章の終わりには、「みたからの入口をくぐれるようになったら、みたからをひらくまで、もう少しです。まずは身ずから、まことのりとを三十三ほど生みだして、始めから終わりまで憶えます。日ごとに、まことのれるようになったら、日ごとに、みたからをひらくことができます(p76)」とある。

その一方、

【真言】とは「聖典・聖者の言葉」である。そして、「身ずからの思想こそが真実を覆い隠している妄想・盲信である」というのもまた【真言】である。
故に、唱える言葉を身ずから生みだすことはあり得ない
【真言(妄想・盲信を除去するための言葉)】とは、妄想・盲信の一切を除去した聖者が、各個人に適した言葉を授けるのものであろう。

世界三大まことのりと(繰り返し声に出して憶えます)

今すぐイケ眞コトが出来るよう、まずは仮に「世界三大まことのりと」を憶えてみます。
みっつとも、まことのりとを身ずから生みだしていくうえで、佳い参考になる章句です。
世界中で繰り返し唱えられてきた、まことのりとみっつ。ふたつめは、ふたつあります。
   ひ。 ひごとすべてがよくなっている。
   ふ。 こんなにしあわせ。こんなにすこやか。
   み。 みんな みんな ありがとう。

p48

1つ目は「日ごとすべてが悪くなっている」などという思い込みを除去するため、2つ目は「こんなに不幸で、こんなに不健康」などという思い込みを除去するため、3つ目は「誰も 彼も 嫌になる」などという思い込みを除去するための言葉といえるであろう。

3つ目の「みんな みんな ありがとう」は、現状への抵抗(不平不満)をとめる言葉であるが、成長途上の未熟な自我はこの言葉を嫌い、ある人には感謝するが、ある人には不平をもらしたがる。何かしらの現状に不平不満を洩らし、衝突・抵抗を好むのである。
なぜなら、
恐怖への抵抗、欲望への希求、「あいつは少しもありがたくないだろうが!」という抵抗こそ、自我を維持・拡大する働きだからである。
つまり何でもかんでも「ありがたい」と思っていては、自我の働きそのものを縮小させ、その存在意義を維持できなくなるのである。

このように、
未熟な自我は本性をさらされ解体・除去されることを最も恐れているが、成熟へと近づいた自我は、本性を死守することから離れ、その解体から解放へと向かう。

ヨガ(聖典・聖者)は、例えば【全宇宙はあるがままであり、すべてはあるがままで良い】などという【真言】を伝え、あるがままの現状への抵抗(不平不満)をとめ、自我を解体していく手助けをするのである。

頭のなかに埋め込まれていた制度


   わたしは、しあわせになり たい。I want to……
  でも、わたしは、しあわせでは ない。But I am not……
 だからわたしは、頑張って努力して、しあわせになら ねばならない。So,I have to……

現代社会で暮らす人たちは頭のなかに、いのちを損なう奇妙な制度を抱えていました。
この奇妙な制度は、右記(上記)の三行の文章で、わかりやすく言いあらわすことができます。
三行の呪文が刻まれた超小型チップが、頭のなかに埋め込まれていたようなものです。

しあわせになりたい、と言葉にしたとたん、今しあわせではないという事実が際立つ。
自動的に、次に生まれてくる文章は「でも しあわせではない」という定義になります。
「ではない」と、自分を定義してしまったままで、いくら頑張って努力してもムダです。

p52

簡単にいえば、「私は〇〇である」という自己定義からの解放、これがヨガである。例えば「私は身体である」などという自己定義がある以上、四苦八苦から逃れる術はない。その逆に、この自己定義が外れたとき、そこに苦が起こることはあり得ないのである。

ヨガ(聖典・聖者)は、例えば【あなたは意識内に現れては消えていくあらゆる対象(感覚・感情・思想)を見守る意識であり、あなたは身体ではない。あなたは対象ではない。あなたは観照者である】などという【真言マントラ】を伝え、「私は〇〇である」という自己定義を除去していく手助けをするのである。

まずは言いきるところから

人のいのちも、暮らしも、能力も、頭のなかで定義して思い込んだ通りになります。
自分は〇〇ではない、と無意識に定義してしまったらもう、〇〇になることはできない。

p53

現実とは個人的な思いであり、個人的な思いが現実である。「幸せではない」と思っていればそれこそが現実なのである。

しあわせになりたい。ゆたかになりたい。すこやかになりたい。かわいくなりたい。
こんなふうに唱えていた人は、ひどい間違いを犯していたことに氣づいていなかった。

ぼく〇〇したい、なんて口癖があるうちはまだ、奴隷制度に氣づいていない子供です。
自分を檻に閉じ込めたまま、檻の外に出ようとあがいて、一生を終える人もいます。

わたしは〇〇しています。こんなに〇〇ありがとう。日ごと〇〇になっている。
このように、まことのります。このように、既成事実として、現在形で言い切ります。

p53

慣れない言葉を唱えていると、自我の幼稚な習慣により抵抗は起こるものである。それでも唱え続けることで古い観念は徐々に洗い流され、新しい現実へと開かれ、素直に自我が成長していくのなら、やがて自ずと智慧が湧き上がり、思想にすぎない現実・自我の消滅が起こる(=ヨガ)。

そしてこのとき人は、
自他分離のない智慧そのものであり、思想を超えた【実在・真我】として在るのである。


おわりに

以上、身体的、感情的、思想的に詰まり滞っている気道を通すという3つの測面からの言葉を抜粋した。
最後に、「いのちのチカラが弱るとき(p68)の言葉を載せて締め括ることにする。

いのちのチカラが弱るとき

いのちの専門家が誰か出てきて、知識や技術を広めると、周りの人のいのちが弱ります。
いのち以外の何かに寄りかかるほどに、いのちは元もとの自然なチカラを失ってしまう。
知識・技術・権威がはびこるほどに、いのちは迷惑をこうむり、生きる喜びを失います。

そんなわけで、大勢のいのちにおせっかいをやいた末、私は治療行為から離れました。
私の友人で、国家資格をふたつもっているお医者さんも、同じように医療行為をやめた。
彼は今、山里で狩猟・自然農・ダンス芸人をしながら、四人のお子さんを育てています。

癒してやろう、助けてやろうとした結果、相手のいのちを損なうことはよくあります。
相手を引っ叩いて、蹴飛ばして、叱りつけたほうが、いのちのチカラは高まったりする。
みたからは いのちひとつで ひらきます。いのちひとつから、始められる人になります。

p68


参考

ヨガ空間


みくさのみたから 皆元のすべ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?