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赤ちゃんから習うヨガ【離欲】

ハイハイをする頃にもなると、赤ちゃんはイキイキと元気、喜び、好奇心に溢れ、屈託のない笑顔や声を素直に表現するようになるため、周囲の大人たちはただただその様子を微笑ましく、愛おしく感じ、まるで我々を歓ばせる天使であるかのように思っている方も少なくないであろう。

ここでは、経典『ヨガ・スートラ』の説く2大行法「修習と離欲」のうち「離欲」について習っていくことにする。


赤ちゃんの苦

赤ちゃんであろうと自他の分離感が出てくるとともに、自身の「欲望と恐怖」が生起してくるものであり、そう、それは苦しみの始まりである。

1.叶えられぬ欲望

赤ちゃんは、衝動を表現できず、飲みたいときに飲めず、食べたいときに食べれず、眠りたいときに眠れず、行きたいところに行けず、立ちたいところで立てず、掴みたいものを掴めず、見たいものを見れず…… イライラし、声を荒げ、泣き叫び、両親の慰めを求める。

2.避けられぬ恐怖

赤ちゃんは、よく知られた両親がそばにいなければ不安になり、見知らぬ人がそばにいれば不安になり、見知らぬところにいれば不安になり、見知らぬものがそばにあれば不安になり…… そわそわし、声を荒げ、泣き叫び、両親の慰めを求める。

3.無知・無能・不注意

赤ちゃんは、つまずき転んでは頭をうち、バランスを崩し転んでは頭をうち、不注意にぶつかっては頭をうち、不注意に転がり落ち、危ないことも分からず転がり落ち、危ないことも分からず手当たり次第口にし…… 痛がり、驚き、泣き叫び、両親の慰めを求める。

アップ&ダウンの激動苦

このように赤ちゃんは、自身の意思通りにいかない苦痛に満ちているものである。無論、それらが意思通りにいくときには、ウキウキし、声を荒げ、喜び楽しむ。またホッとし、安堵し、胸を撫でおろす。

赤ちゃんは、欲することの止むことがないため、楽しんでいるかと思えば憤り、笑っているかと思えば泣きだし、そしてまた喜び、不安になっては安堵し……。目新しい物事に興奮し、あることに興味が向いたかと思えば、次には別のものに目が向き……。次々と関心は移ろい、遊びまわろうとする。

ここで。

赤ちゃん先生はその素直さにより、ひたすら浮いては沈み、束の間の苦痛と快楽を絶え間なく繰り返し、その心は落ち着きなくコロコロころころと変化し続け、平らかに安らぐことのない様子を、とても分かりやすく我々大人に見せてくれているのである。

それはつまり、自意識による恐怖と欲望に満ちた世界においてはー 苦痛(悲しみ、憤り、不安)と快楽(喜び、楽しみ、安心)とは絶え間なく交互に押し寄せるしかないため、その心は平安に留まることなく激動し続け、常に苦しみのなかにいるという事実を我々大人に自覚させるための恩寵となりうる現象なのである。

しかし(初めに述べたが)、周囲の大人たちはただただその不安定な様子を微笑ましく、愛おしく感じ、まるで我々を歓ばせる天使であるかのように思っている方も少なくないであろう。

無論、そこに何の問題もない

ヨガを実践するということ

ただし、ヨガを学習し実践する者は、多くの聖賢や、かのゴータマ・ブッダ(釈迦)がこの世(心)の苦しみを滅したように、そんな赤ちゃん先生からこの世(心)に起こるアップ&ダウンの仕組み(苦しみと苦しみの原因)を自覚し、苦しみに満ちたこの世(心)への関心を離れる離欲(無執着)を推し進めていくことが重要なのである。

それがヨガを実践するということの本旨である。


参考:


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