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尾崎豊 永遠の胸

実に私的な話ではあるが、私は10代の終わりから20代の始まりにかけてであったろうか、尾崎豊氏の楽曲を聞いていた。それは彼が1992年4月25日、26歳でこの世を去ってから4、5年ほど経ってからのことだったのだろう。
それまでの私は、音楽や歌手などに特に関心を抱くこともなく、積極的に聞くことも歌うこともあまりなかった。しかしどういった訳か、その情感溢れる歌声やメロディーに魅かれたのか、いつしか彼のアルバムを買い、聞いていた。

随分と遅れたモラトリアム期にあったその頃の私は、彼への憧れや真似からであろう、自身の心内にうやむやに滞っている、本心、思うところ、決意、生き方、伝えたいことなどを言葉にして書き綴り、そこにメロディーを乗せ、ギター片手に歌ったものだった。
結局のところ私は、意識的にも、無意識的にも、彼の外面的なところに加え、内面的なもの、彼の人生に対する問い、疑い、信念… に対して共感し、魅かれていたのだろう。

一般的に「尾崎」といえば、『I LOVE YOU』『15の夜』『卒業』など、彼が10代のときに手がけたものがよく知られていると思うが、ここでは彼が20代に表現した楽曲『永遠の胸 ETERNAL HEART』について書いている。
これは以前、カラオケで歌っていたとき何故だか突然、情感とともに涙が湧きあがり… 途中で歌えなくなった覚えのある印象深い曲でもあるのだが、それはまさに、彼が「人生に対する問い、疑い、信念」を直接的に表現しているものと思っている。

永遠の胸
作詞/作曲 尾崎豊

一人きりの寂しさの意味を 抱きしめて暮らし続ける日々よ
見つかるだろうか 孤独を背負いながら生きていく
心汚れなき証示す道しるべが
色々な人との出会いがあり 心かよわせて戸惑いながら
本当の自分の姿を失いそうな時 君の中の僕だけがぼやけて見える
ありのままの姿はとてもちっぽけすぎて
心が凍りつく時君を また見失ってしまうから

人はただ悲しみの意味を 探し出すために生まれてきたというのか
確かめたい 偽りと真実を 裁くものがあるなら僕は
君の面影を強く抱えて 何時しか辿り着くその答えを
心安らかに探し続けていてもいい いつまでも

所感
生きれば生きるほど、経験を積めば積むほど、人生のなかに見えるのは「幸せ」ではなく、悲しみだ。
それでも、「幸せ」という真実への道標と呼べるものが確実にあるのならきっと、僕の心は安らぎ、孤独を背負いながらだろうと日々を生きていけることだろう。

受け止める術のない愛がある 消し去ること出来ぬ傷もある
忘れないように 全ての思い出が与えてくれた
心の糧を頼りに生きることを
そこには様々な正義があり 幸せ求めて歩き続けている
欲望が心をもろく崩してゆきそうだ
人の心の愛を信じていたいけど
人の暮らしの幸せはとても小さすぎて
誰一人 心の掟を破ることなど出来ないから

今はただ幸せの意味を 守り続けるように君を抱きしめていたい
信じたい 偽りなき愛を 与えてくれるものがあるなら
この身も心も捧げよう それが愛それが欲望
それが全てを司るものの真実 なのだから

所感
ー 愛 ー きっとそれこそが決して疑うことも、除外することもできず、「幸せ」に導いてくれる求めるべき唯一の真実なのだろう。
けれど、その道標の見つからない僕は、自分の小さな幸せ、自分の小さな正義を守ることに必死になってしまい、本当の自分、愛を、欲望に奪われているようだ。
それでも、ー 愛 ー を与えてくれるものが確実にあるのならきっと、自分が大切に抱きしめているものだって手放せるだろうよ。

断崖の絶壁に立つ様に夜空を見上げる
今にも吸いこまれてゆきそうな空に叫んでみるんだ
何処へ行くのか 大地に立ち尽くす僕は
何故生まれてきたの
生まれたころに意味があり 僕を求めるものがあるなら

伝えたい 僕が覚えた全てを 限り無く幸せを求めて来た全てを
分け合いたい 生きてゆくその全てを
心に宿るもののその姿を ありのままの僕の姿を
信じてほしい 受け止めてほしい
それが生きてゆくための愛なら 今 心こめて

僕はいつでもここにいるから 涙溢れて何も見えなくても
僕はいつでもここにいるから

出典:『尾崎豊 ギター弾き語り全曲集』|発行所:株式会社ドレミ楽譜出版社

所感
幸せに辿り着けていない僕だけど、ひたすらに幸せを求め続けてきたその中で、僕なりに理解してきたその全ての心内を君と分け合うから、だからどうか、この僕を裁かないで欲しい、責めないで欲しい、許してほしい、愛して欲しい。
人は誰もみな、孤独の悲しみを見つけるためにではなく、幸せに辿り着くために生まれてきたはずだろうから。

友へ…

尾崎、「幸せ」という真実への道標が確かにあるんだ。僕は、君が命をかけて求め続け、探し続けてきたであろうその道標に出会ったんだよ。それはブッダが説き、キリストが説き、また多くの聖賢が説いてきただろうことなんだよ。
君の言う通り、真実を指し示す言葉を聞き、それを信愛するだけでも心は安らかになり、僕らの目に映る世界はひとつの愛に向かって変化していくよ。だから僕である君よ、そして僕であるすべてよ、どうか安心して欲しい。

ある意味では、人は悲しみの意味を見つけるために生まれて来たとも言えるし、幸せに辿り着くために生まれて来たとも言えるんだろう。けれども、僕らの本質は生まれていない、死んではいない。今日は"君"の命日なんかではない。
僕らの本質は身体ではなく、心ではない、そう聖賢たちは繰り返し語っているよ。そして、僕らが大切に抱きしめている「偽り」を手放したのなら、そのとき「真実」は明らかになるのだと、この一人きりの寂しさから解放される道を指し示してくれているんだ。

つまり、ー 偽り ー とは、「 僕らが生まれて来た」などというー 思い ーであり、「僕らは身体である」などというー 思い ーであり、「僕らは分けられた孤独な存在である」などというー 思い ーであり、真実に反している信念、心の作用のことなんだ。
僕らは今ここで幸福だ、平和だ、自由だ、永遠だ、愛だ。そうさ、僕らは永遠の胸、エターナル・ハートそのものなんだ。

だから友よ…

僕らは安心して、この身も心も捧げよう。それが真実なのだから。ソレはいつでもここに在るから。涙溢れて何も見えなくても。

ソレはいつでもここに在るから。

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