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6. 海 1983年5月号 今月の海外文学 レイモンド・カーヴァー 村上春樹訳 中央公論社

これは一冊の本の思い出と、ひとつの古書店に関する記憶を確認し留めておくものだ。書き留めておかないと、そのうちに忘れてしまうだろうと思う。
この雑誌を見つけたのは東大前にあるヴァリエテ本六という古書店で、その店は確かに、あったではなく今でもある。ただ、店主が体調を崩した後は、知っている限りでは二回しか店は開いていない。ここはギャラリーも兼ねており、展示があるときにのみギャラリーとして開き、その際、ギャラリーだけではなく本も見ることができる。
店主が体調を崩す前は、少なくとも週に二三日は開いていて、何冊も良い本を買わせてもらった。良い本というのは主観に過ぎないのだが、この店の棚は店主の蔵書がそのまま並んでいるような棚で、本と本が結びついていて、そこに並んでいる必然性があるような棚だった。その趣味性は自分の偏狭な趣味にピタリとはまっていて、既に持っている本や、かつて持っていた本や、いつか欲しかった本があった。棚にはあまり動きはなかったように思えたが、何度行っても前回来たときには目に入らなかった欲しい本があった。それでもそれは奥のスペースから補充したり、自宅から持ってきたに違いなく、いつまでも店主の蔵書という印象は変わらなかった。
その中からいつだか見つけたのがこの雑誌で、見つけたときはとてもうれしく、また、この店はいつもそうなのだが、うれしい値段だった。今は絶版となって滅法な金額がついている村上春樹と村上龍の対談集「ウォーク・ドント・ラン」もこの店で見つけて手に取ったが、どこにも値段が書いてなく、その時にいた店主ではない店番の人に値段を聞いたら、裏を返して本の定価を三で割った値段を伝えてくれた。その時、店主がいたら違う値段がついていたかも知れないが、ありがたく買わせてもらい、まだ自分の本棚にある。というのも、この雑誌を会計時に渡して店主がレジを打つとき、ちょっと安いかな、と呟いたのだった。それほど高い値段がつくものではないだろうが、二倍の値段が付いていても買っただろうなと思う。おそらく店主も、自分で買うとしたらもう少し出してもいいなという意味だったのだろう。これもありがたく買わせてもらい、まだ持っている。
この雑誌が貴重なのは、カーヴァーの初出の文献で、それから長く続くカーヴァー=村上春樹のスタートだからだ。また、この雑誌が出たときカーヴァーはまだ生きていた。最初の二冊の単行本が出たときも生きていて、それはとても大事なことに思える。カーヴァーが生きていた時に出ていた本があり、ブローティガンが生きていた時に出ていた本があり、将来的には村上春樹が生きていた時に出ていた本があるのだ。それは死後に出た本とは何か別のものに感じる。そういう意味で、処女作や掲載誌というのはより貴重に感じる人がいるのだろう。
そのように、「ノルウェイの森」以前の村上春樹の掲載・寄稿・インタビューなどがある雑誌を、手元に置いておきたいものは集めている。例えば、ブローティガンをめぐる紀行文を寄せたハッピーエンド通信や、その編集者である加賀山弘が発行者で「ノルウェイの森」を出した直後の村上春樹にインタビューをしたpar AVIONの創刊号や、「TVピープル」の初出の同じくpar AVIONの終刊号などを持っている。
「TVピープル」は雑誌The NewYokerに掲載された初めての村上作品だが、日本での初出雑誌はこのようなものだったと思うと感慨深いものがある。それは、創刊号のインタビューで、創刊する雑誌を潰さないよう頑張って下さいと告げた村上春樹と、それでも7号で終刊とさせてしまった加賀山弘と、その終刊号に人気絶頂の中で今後の方向性を見据えたような短編を載せる、その関係性含めなのだが。
ヴァリエテ本六にはこの海のカーヴァー特集号の他に、「土の中の彼女の小さな犬」が掲載されたすばるが並んでいた。見つけたときに買わなかったのは、そのときは雑誌への思い入れがそれほど強くなく、おそらく次に来るときまで売れないだろうなと思ったからだった。どこかの本屋の棚で、自分を待っている本があるというのは、なんとなく心温まるものだ。それは何かの関連や繋がりである本が欲しくなり、確かあの本屋のあのあたりの棚にあったなと思うときや、発売を待ちわびている新刊はきっとあの本屋ならあのあたりに並べているだろうなと思うときも同じことだ。
それで、ギャラリーが開かれる日を待って訪れた。基本的にはギャラリーとして開いているため、作家や作家の知り合いが店の中に何人もいるような状態だった。本だけを見る状況が気まずいなか棚を見ていくと、やはり前回見たときとほとんど変わりはなかった。それはそうだろう。ずいぶんと日は経っているものの、店としては前回見たときの翌日のようなものなのだから。なかなか手に取る本が無かったが、あそこにはあんな本があったはずだという記憶を辿っていくと覚えているものだった。そこにすばるがあることも確認し、他のものがないか、より詳しく見ていった。
すると、よほど熱心に棚を見ている客と思ったであろう店番の人が、どうぞ奥も見て下さい、と言ってくれた。奥つまりバックヤードは見たことがなかったので、少し興奮してありがたく見せてもらった。けれど、あちこちに乱雑に置かれた本は長い間放っておかれていて、手に取るまでもなく埃が溜まっているのがわかった。高い場所の棚に並んでいた文庫本に手を伸ばして抜いたところ、三分の一ほどが折れ曲がっていた。そっとねじ込むように戻したところ、店番の人が話しかけてきて、店主の状況を語ってくれた。また、何人か本を見に来る人がいたことも教えてくれた。そんな酔狂な人は自分だけだと思っていたので、なんとなく胸が熱くなり、本の管理が悪いことを詫びる店番の人に、本は触られないとすぐに悪くなります、ということを話した。家にある本でも、誰にも触れられない本はすぐに悪くなってしまう。たとえ頻繁に手で触れなくても、目に見えるところにたまに出すだけで、本への影響は違う気がする。それは店も同じで、あまり開いていなくても、そうやって誰かに使ってもらったり、次はいつ開くのかと誰かに思ってもらったり、代わり映えのしない棚をたまに確認されたりするだけで、店として存在し続けることができるのだろうと思う。
結局、そのすばるも何も買わずに店を出た。買ってしまうと次に店に来る理由がなくなってしまいそうで、また店が開く日をホームページで確認しつつ、いつか店が開いた日に買いに来ようと思った。

#本 #古本 #レイモンドカーヴァー #村上春樹 #リチャードブローディガン

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