いかにOne Last Kissはエヴァの本質を濃縮しているか~歌詞の本当の意味
はじめに
このnoteでは、宇多田ヒカルさんの「One Last Kiss」という楽曲の歌詞について考察したい。同曲は、劇場版シン・エヴァンゲリオンのエンディングソングでもある。「エヴァンゲリオンのラストにふさわしい」という感覚は確かにあるし、だからこそよく聴かれてもいるのだろう。それはなぜなのか。
考え始めると、ちょっと膨大な考察となった。同時に宇多田さんの圧倒的な熱量により緻密に作り上げられている曲であるとともに、エヴァの隠された設定を軸に展開されている曲ということもわかってきた。そのことについて書きたい。
注:エヴァンゲリオンの最終シーンなども出てくるので、結末を知りたくない方は避けてください。悪しからず。
1.碇シンジは冬月コウゾウの息子説
「One Last Kiss」の歌詞を読み解くためには、まずエヴァンゲリオンの一般的な理解を見直すことから始める必要がある。僕の理解によれば、碇シンジは“父親”として登場する碇ゲンドウの実の息子ではなく、実は(生物学的には)冬月コウゾウの息子である。その前提に立たないと、おそらく「One Last Kiss」の歌詞の意味が理解できない。その根拠について述べていきたい。
2.冬月コウゾウがシンジの父であることを示唆する映画の表現
僕の理解は次のようなものである。
もともと冬月とユイはただならぬ関係にあった。そしてユイが妊娠してしまう。しかしおそらくは冬月には妻がいたとか、あるいは教師と学生の関係だからとかそのような理由で、冬月とユイは結ばれることができなかった。しかし子供を産みたいユイはとある一計を思いつく。それは自身が碇ゲンドウと結ばれ肉体関係を持ち、そこでできた子供として冬月との子供を産む、というものである。つまり冬月との子供を、碇ゲンドウとの子供として育てることにした。それがシンジである。
この理解は突拍子もないようだが、そのように考えると映画における違和感に対するすべての辻褄が合う。そもそも冬月はかなり奇妙な人物だ。ゲンドウに協力し、同時にシンジを救おうとするマリにも協力する。おまけになにやらユイに対する特別な感情をもっていて写真までもっている。
シンジが冬月とユイの子供であると考えると、次のように筋が通る。
冬月はゲンドウに対する後ろめたさからゲンドウを手伝っている。ユイへの恨みに駆られ暴走するゲンドウに贖罪のように協力しているのである。しかしそれは自身の息子を破滅させることにもなるので、なんとか阻止はしたい。そこでゲンドウに協力しつつもマリアに協力し、アナザーインパクトを止めさせようとする。それがシン・エヴァンゲリオンの構図であろう。
この説を裏付ける3つの根拠を示す。第一に碇ゲンドウとユイの出会いから恋愛までの異常なスピード、第二にゲンドウの回想シーンの冬月の服装、第三に冬月コウゾウのもつ写真の被写体である。
一つずつ振り返りながら確認していくことにする。
➀碇ゲンドウとユイの恋愛関係までのスピードの異常さ
シン・エヴァンゲリオンでは、作品の最後にゲンドウの回想シーンが登場する。そこでは人とうまく付き合えなかった過去からユイとの出会い、シンジとの関係までが回想されている。ここにいくつか、明らかに気になる箇所がある。まずなにより気になるのは、「なぜイヤフォンで耳をふさぎ外界を拒絶するほどの人付き合いの下手な男が、こんなにもすぐにユイと肉体関係にまで至っているのか」という疑問である。
映画では、ユイとゲンドウが初めてであったと思われるシーンの直後ではまだユイとゲンドウの間に距離が存在することがうかがえる。二人は別々のグループで食事をしていて、親しい雰囲気もない。ユイがやや悪そうなほほえみを浮かべているだけである。それが次のカットでは手をつなぎ、その次には早速肉体関係をもったことが示唆されるカットに変わっている。あまりに早すぎる。
ちなみに本編ではカットされているが、このシーンの絵コンテではもう少し丁寧な描写が存在する。そこではユイは意味ありげにゲンドウを見つめ、ゲンドウが戸惑う次のカットにおいてすでに手をつなぎ、すぐに結ばれている。おそらくはこの食堂でユイがたくらみを思いついたと考えられる。つまりすでに妊娠している冬月との間の子供を、他の男との妊娠にすり替えるべく、すぐに手玉に取れそうな初心なゲンドウをターゲットにした、と読みとれるのである。
②ゲンドウの回想シーンの冬月の服装
この理解を踏まえると、シン・エヴァンゲリオンの回想シーンにおけるユイの登場シーンでの冬月の服装がきわめて不自然に思えてくる。
このカットの冬月は服装も乱れ、髪形もぼさぼさである。こうした教授もいるだろうが、冬月は知略に長け、常に冷静で、とにかくきっちりした男として描かれている。他のシーンでもきちんと服装を常に整え、髪形も整えている冬月が、こうした砕けた格好をしているのはなぜなのか。
おそらくここで、ユイと冬月のただならぬ関係が示唆されているのだろうと思われる。つまり学校の一角で肉体関係をもっていたと考えられるのである。そうした描写によって、冬月とユイの業の深さが描かれるとともに、冬月が慌てるような場面でも冷静に笑みを浮かべるユイのしたたかさが浮かび上がっている。
この前後のカットで、ゲンドウがアイマスクを外す描写があるので、まるで冬月もゲンドウも徹夜明けであるかのようにも見えるが、そのタイミングでユイが紹介されるのも不自然であるし、マリは元気にみえるし、何より元の絵コンテでゲンドウは眠っているのではなく集中して「イメージ作業」をしていると書かれているので、おそらく徹夜ではない。マリが研究室にやってきて慌てて行為を中断した二人が研究室に戻って来た、とも考えられるかもしれない。
③冬月コウゾウの所持しているユイの写真
最後の根拠を述べる。冬月コウゾウの所持していた写真の被写体についてである。
そもそもエヴァンゲリオンでは「写真」が人間関係の重要なモチーフとして登場する。劇場版エヴァンゲリオン破の冒頭シーンでは、ゲンドウとシンジがユイの墓の前で次のような会話をする。この内容が重要なので、少しだけこの内容を振り返っておくことにする。
このやりとりから伺えることは「ゲンドウは、写真は持ってはいたが捨ててしまった」ということである。
一方で、冬月コウゾウはシン・エヴァンゲリオンの最後で、消失の直前にユイの写真を眺めている。「ユイ君。これでいいんだな」という言葉ととともに冬月はLCL化し消える。
最後の場面で冬月がもっている写真は、ユイの単体の写真ではない。よくみてほしいのだが、ユイとシンジが映っており、カメラをみているのはむしろシンジなのである。つまり冬月は「気になっていた女の子」の写真ではなく、「愛した女と自分の息子」の写真をもっているのである。
この明らかに奇妙な描写からも、冬月がシンジのバイオロジカルな父親であることは読み取れるだろう。自責の念に駆られゲンドウには協力しながらも、冬月はなんとかシンジを助けたかったのだろうと思われる。公にはできないなかで、なんとかシンジを救いたく、その願いをマリに託した。
3.ユイへの恨みに突き動かされるゲンドウ
ここまでそもそも冬月とユイがただならぬ関係にあり、2人の間にできた子供がユイの一計によってゲンドウとユイの子供にすり替えられて認知されたと考えられることを考察してきた。ここからさらに考察を展開してみたい。
おそらくゲンドウは、ユイの生前にはユイの裏切りの事実に気が付いていなかったようである。その証拠に、同じくシン・エヴァンゲリオンの回想シーンでは、ユイの死後ゲンドウが花を踏みつけ憎しみの表情を浮かべている。
まるでユイを失ったことを悲劇に感じているようにも思われるが、そうであれば花を踏みつけるのは不自然であろう。花は死の場面においては死者に礼や愛情を示し手向ける象徴的なアイテムである。それを踏みつけているのだから、ここで示されているのは死者、すなわちユイに対する憎しみである。ゲンドウはユイの嘘に気づいてしまったのだ。
4.殺されることによって確かめられた親子の関係性
そう考えると、ゲンドウのシンジに対する複雑な感情がよく理解できるようになってくる。シンジは冬月とユイの愛の象徴であり、ユイに自分が本当は愛されてはいなかったことの何よりの証拠でもある。しかしシンジを育て愛情を注いできたことも事実である。また、この子供がいなければユイと結ばれることもなかったともいえる。そうした意味でゲンドウのシンジに対する感情は実に複雑になってくる。シンジに対する複雑な感情をもてあまし、ゲンドウはシンジを遠ざけることになる。
シン・エヴァンゲリオンの過去シーンでアスカがシンジらしき男の子を見かけるシーンでは、ゲンドウは暴れるシンジを必死にあやしている。
ここには父親としてシンジと関わろうとするゲンドウの態度が表現されている。つまりゲンドウは子供が嫌いなわけではない。ゲンドウの回想シーンにおいて「子供は私への罰だと感じていた。」とゲンドウが話すシーンがあるが、これは「この子の面倒をみないといけないのは、うっかりユイを好きになってしまったことへの罰」という意味にも思われてくる。そしてゲンドウは次のように続ける。「子供に会わない、関わらないことが私の贖罪だと思い込んでいた。その方が、子供のためにもなると、信じていた」。
これはゲンドウが自身の何かしら行いによってユイを死なせたことへの贖罪にもみえるのだが、実際には「自分は本当の父親ではないから、この子の父親としてふるまうことができない」という苦悩にもみえる。
シン・エヴァンゲリオンのラストシーンで、ミサトがシンジに向かって「父親に息子ができることは、肩を叩くか、殺してあげることだけよ」と諭すシーンが存在するが、この場面の意味もここであらためてクリアになってくる。どういうことか。
「子供だから父親を殺してあげた」というよりはむしろ、シンジは(本人が意識していたかは別として)「肩を叩き、殺してあげる」ことによってゲンドウの本当の子供であることをゲンドウに伝えたのである。少なくともゲンドウはそう感じたはずだ。つまり自分を殺そうとしてくれるシンジを子供として認め、同時に頼もしく思ったのである。ゲンドウは、きちんと自分を父と認め殺してくれるシンジに対し本当の親子としての関係性を見いだすことができた。だからすべて受け入れて安らかな顔をして死んでいく。そこではユイの罪もシンジの悩みもすべて受け止めて消えていくゲンドウの心境が表現されている。
だからユイを後ろからハグしてともに死んでいくわけなのだが、しかしその実、本当にユイがゲンドウを愛しているわけではなくゲンドウの一方向的な愛なので、幻想がとけるとゼロ距離だったはずの2人の距離は実際は離れたものであったことが表現される。このあたりにエヴァンゲリオンの面白さがあるのかもしれない。機械などのディテールもさることながら、ドロドロな人間関係のディテールも細かい。
5.「シンジは冬月コウゾウの子供説」まとめ
改めて僕の理解を示すとこうなる。
冬月とユイはただならぬ関係にあった。ユイは冬月の子供を妊娠した。しかしそのことを公にできないので、うぶなゲンドウを手玉に取り、すぐに関係を持つことで「ゲンドウの子」として冬月の子供を産んだ。それがシンジである。ユイの死後そのことに気づいたゲンドウは、自分が感じた愛情やユイに愛されているということがすべて嘘であったことに絶望し、ユイに愛されている幸せを嘘ではなく現実のものにしようとする。それが一連のインパクトの動機である。ゲンドウはその実現にあたり、恨みの根源である冬月に協力を仰ぎ、自身が本当はユイに愛されていなかった事実の象徴であるシンジをエヴァに載せ、アナザーインパクトを実現しようとした。そうしてすべてにケリをつけ虚構の中に引きこもろうとしたのである。しかし現実をなんとか生きようとする「息子」によって阻止される。親子関係を現実なものとして認識できたゲンドウは安心して安らかに死んでいく。
シン・エヴァンゲリオンの回想シーンにおいてゲンドウはピアノが好きであったことを述べた後で、次のようにも述べている。「調律されたピアノは“正しい”音を返してくれる。そこには“嘘”はない」。ここでつけたダブルクォーテーションマークは、絵コンテにつけられている強調符である。人間関係が苦手で、正しいことや嘘がないものを信じすがり生きてきたゲンドウが、初めて出会った美しい人間関係が実はすべて嘘だった。そのあまりのショックへの反動として始めたのがアナザーインパクトまでの取り組みだったと考えられるのである。
ところで、ユイはずっと微笑んでいる。ゲンドウの前に表れるシーンで冬月があたふたしているときも、悪だくみをしている時も、ゲンドウがシンジをあやしている時も最後シンジを見送るときも微笑んでいる。ちなみに実は巨大なユイの顔面も、崩壊直前には微笑んでいる。その周りでみんなが狂っていく。この表現がとても重要である。
長くなったが、エヴァンゲリオンのこの構図をまず理解することがOne Last Kissの歌詞を理解するのに必要であると思われたので、ここまで書いてきた。ここからやっとOne Last Kissの歌詞の考察に入っていく。
6.エヴァの設定と物語の濃縮版としてのOne Last Kiss
One Last Kissの歌詞は次のように始まる。Aパート。
この歌詞に違和感を覚えた人は多かったのではないか。「なぜ急にルーブル?なぜモナリザ?」と。
モナリザが、鑑賞者にとってまるでモナリザにみつめられているかのように感じさせる絵であることは有名である。絵画の中の人と目が合うことを「モナリザ現象」とまで呼ぶ。絵画はある意味で虚構である。つまり自分をみているようで、本当は全くみていない美しい虚構の中の存在がモナリザである。整理すればモナリザとは、「自分をみているようでみていない、絵画という虚構の中の美しい人」のことであり、まさにユイのことである。
「私だけのモナリザ」とは、ゲンドウにとってのユイのことである。本家のモナリザよりももっと美しく、もっと自分をみているかのようにふるまい、その実、それはすべて嘘であるというユイの特性がここで表現されている。
(おそらくシン・エヴァンゲリオンの冒頭シーンがフランスのパリの復旧作業から始まることともかけて、フランスにゆかりのある表現から始まるこの構成となったのだろう)。
「初めてあなたを見た」ときメロメロになってしまったゲンドウは、ユイの嘘に気づくことを通して、「自分が愛されている」という事実や「シンジと自分は親子である」という事実など、様々な美しい現実の事実を失っていく。その次では歌詞はこう続く。
つまりゲンドウは様々な喪失(=Last Kiss)を経験し、「最後の喪失=現実そのものの喪失」へと向かおうとする。そのことが歌詞のこの部分で表現されている。「忘れたくないこと」の一つには「ユイに愛されているという事実」がある。しかし「忘れたくない」と思ってみても、それはそもそも存在しなかった嘘の事実でしかない。虚構の世界に入り込み、嘘を真実へと捉え直すことで、もう一度「ユイに愛されている事実」の中に閉じこもろうとするゲンドウの心境がここからうかがえる。続いて2番。
One Last Kissの歌詞ではその後、エヴァンゲリオンの重要なモチーフとなった写真についてふれられる。写真は事実を映すようで、嘘の笑顔も記録する信じられない存在である。自分がみた事実だけを信じようとするゲンドウの心境がここで綴られているように思われる。
「寂しくないふりしてた まあ、そんなのお互い様か」とは、ユイはユイで冬月が好きだったことに触れているように思われる。つまりゲンドウはユイが好きで、ユイは冬月が好きで、お互い寂しかったんだね、と互いを理解しあっているかのように語りかけているのである。
そのあとに続く「誰かを求めることは すなわち傷つくことだった」には、ゲンドウの諦めの気持ちが読み取れる。やはり誰かを好きになろうとすることは、傷ついてしまうものなのだという諦め。ユイがゲンドウを求めたことで、ユイや冬月も破滅に向かうことになる。互いに求め合うことは、ゲンドウにとってもユイにとっても冬月にとっても、みんなが破滅に向かう恋だった。そのことがここで示唆されているようにも思われる。
ここで、1番ででてきた「絵画」と「燃える」が対比されている。絵画は燃やしてはいけないものだ。それなのに「燃える」ようなキスをするわけだから、絵画を燃やすわけである。つまり現実のなかで経験した「嘘」を燃やし、虚構の世界に入り込もうとするゲンドウの決意が表現されている。そこでは強く生を実感できる「燃えるようなキス」も可能になるのである。
「忘れたくても忘れられないほど」とは、一つの嘘の現実しか存在しない虚構の世界に入り込むことを意味する。つまり「ユイに愛されている事実」以外存在しない世界にいくわけだから、「忘れたくても忘れられない」ほど「リアル」なのである。
重要フレーズの繰り返しとサードインパクトまでの展開の一致
このあとから、曲は一気に盛り上がりに入ってくる。
ここで「I love you more than you’ll ever know」という言葉に注目したい。
この言葉は、いわばゲンドウのユイに対する想いを一言で表現したフレーズといえそうである。これが3回この盛り上がりの中で繰り返されている。この回数が重要である。おそらくこれはエヴァンゲリオンの「ファーストインパクト」「セカンドインパクト」「サードインパクト」に対応しているのではないか。
一つ目の「I love you more than you’ll ever know」がファーストインパクトをなしたゲンドウの心の叫び、二つ目の「I love you more than you’ll ever know」がセカンドインパクトをなしたゲンドウの心の叫び、三回目の「I love you more than you’ll ever know」がサードインパクト後。4回目に当たるアナザーインパクトは成功しなかったので、この盛り上がりでは4回目の「I love you more than you’ll ever know」はない。
(しかしよく聞いていると、4回目を途中まで言いかけるが、言うのを止めてしまうに聞こえる箇所がある。)
そして「もう分かっているよ・・・」の歌詞へと続くことになる。ここでは「年をとっても」が「この世の終りでも」の前に来ていることに注目したい。つまりアナザーインパクトがうまくいって世界が終わったとしても、あるいはエヴァンゲリオンの世界観が終わり、シンジたちが年をとるようになっても(すなわち現実が進んでいっても)、ゲンドウはユイを忘れられないのである。
「忘れたくないこと」から「忘れられない人へ」
これまで同じメロディーフレーズの箇所では「忘れたくないこと」だったのが、後半では「忘れられない人」に変わっていることに注目したい。ここにはいろんな想いが込められているだろうが、そのひとつとしてユイに対するゲンドウの気持ちを取り上げるとわかりやすい。
ゲンドウはずっと「ユイに愛されている事実」を忘れたくなかった。それは嘘だったとわかってしまったので、虚構の世界に飛び込み、嘘を真実に変えようとした。それがアナザーインパクトだった。
しかし虚構の世界に入っても現実で生きていても、ユイは結局「忘れられない人」なのである。ここには「忘れたいけれども」という枕詞をつけるとわかりやすいだろう。「忘れたいけれども忘れられない人」。ここにゲンドウの成長がみてとれる。本当はユイが嘘をついていたことなど、受け入れたくなかったわけである。だから「忘れたくないこと」にすがり、それを現実化できる虚構に閉じこもろうとした。つまり喪失を受け入れられなかった。それがサードインパクトまでのゲンドウの行動につながる。
しかし様々な喪失があっても世界はどのような形であれ進んでいくし、我々は喪失を抱えたまま前に進んでいくしかない。ユイはどうせ「忘れられない人」なのだとゲンドウは受け入れるようになっていくのである。
自分に嘘をついていたけれど、喪失もたくさん与えてくれたけれど、自分に愛を教えてくれた人。忘れたいけど「忘れられない人」。現実を捻じ曲げて虚構に閉じこもることはできない。
そのことをゲンドウは、アナザーインパクトの失敗の中でシンジから教えられる。シンジはシン・エヴァンゲリオンのラストでゲンドウにこのように語りかける。「(自分の)その弱さを、認めないからだと思うよ」。これはユイが自分に嘘をついていた現実を認められない、ゲンドウの弱さを指している。つまり喪失を受け入れられない弱さである。しかしシンジに諭されゲンドウは現実を受け入れていく。
そうしたゲンドウの認識の変化が、この曲における「忘れたくないこと」から「忘れられない人」へのフレーズの変化で表現されているのだと思われる。すなわちこの変化は同じメロディで、似た表現でありながら、極めて重要な意味を持っている。つまり「忘れたくないこと=ユイが自分を愛しているという事実が嘘であると認められず、それは真実だと思い込みたいので、虚構にすがった」が、「忘れられない人=結局のところ自分はユイを忘れられはしないし、たとえ喪失があったとしてもそれを受け入れながら進んでいくしかないのだ」というゲンドウの成長がそこから読み取れるのである。
この変化には、シンジがゲンドウを父として殺してあげたことで、例え血は繋がっていなくとも親子関係は本物なのだとゲンドウが認識できたことが効いているのだと思われる。
はじまりとおわりの母音から構成される歌詞
その後ずっとユイたちへの気持ちをゲンドウが叫ぶようなフレーズが続く。ここでさらに気になる箇所がある。「忘れられな」である。この日本語は本来、明らかに不自然である。
正しい日本語は「忘れられない」などなので、日本語として不自然なのだが、なんだか自然に心地よく聞こえてしまう。その理由はおそらく、この曲が「a」と「o」の音を中心として歌詞が構成されているからだと思われる。そのことをまず前半の歌詞で改めて確認してみたい。
歌詞を見直すと明らかなように、曲の前半はaの音で始まりaの音で終わるという「a」の音を強調させるように韻を踏んで進む。後半になると「o」の韻踏みに変わる。そしてサビのような盛り上がりのところにいくと、「Oh - oh」とこれでもかと「o」を強調して進む。
そして何より、この曲の重要なフレーズである「忘れたくないこと」と「I love you more than you’ll ever know」はどちらも「a」で始まり「o」で終わるように構成されている(uで終わる箇所は、歌い方で「o」で終わるように伸ばされている。u-oのように)。これは音感としても内容としてもおそらく重大な意味をもっている。
日本語の母音を並べると「あ(a)、い、う、え、お(o)」となる。また「はじまり」の頭の母音は「a」で、「おわり」の頭の母音は「o」である。ここからみてもわかるように、日本語の語感には「a」がはじまりの母音であり、「o」がおわりの母音であるようなところがある。おそらく宇多田さんは、ゲンドウが愛を知って(はじまり)から破滅に向かう(おわり)までを「a」(はじまり)と「o」(おわり)を基調とした表現に託したのではないかと思われる。続いて2番で確認していくことにする。
さらに、
若干の例外は数か所あるが、ほぼほぼここまで明らかに「a」と「o」を歌詞の意味内容と構成にあてはめながら用いられてきている。そして、この章の冒頭で問題とした「忘れられな」が登場してくる。
「忘れられな」は「a」で始まり「a」で終わる。明らかに不自然な日本語だが、「a」で始まり「a」で終わる表現はここまで見てきたように何度も繰り返されているので、何だか自然に聞こえてしまう。
「わ(a)すれられな(a)」という歌詞はまるでゲンドウの意識が混濁してきているようにも見えるし、「はじまり=a」から次の「はじまり=a」へと向かうという(すなわちゲンドウからシンジへ)物語の構成とリンクしているようにも思われる。
この歌詞において重要なフレーズである「忘れたくないこと」も「忘れられない人(ひと)」も両者とも「a→o」へと向かう音韻で構成されている。これもまた、「はじまり=a」から「おわり=o」へと向かう構成とリンクしているのだろう。
そのように考えると最後のフレーズの持つ意味がさらにクリアに浮かび上がってくる。
曲の盛り上がりが終り、まるでエピローグのように流れるこの歌詞においても、「a」と「o」の音感は印象的に用いられている。
この歌詞では明らかに、フレーズが「a」と「o」でつながれている。全ての物語がつながっていることが示唆されているともいえる。もっと深読みしてみるなら、「a」のつながりが2回登場するのは、前者がゲンドウのことで、後者がシンジのことかもしれない。「o」が途中3回繰り返されているのはサードインパクトまでの3回とリンクしているようにもみえる。そして成長したシンジが2回目の「a」をはじめ、異なる「o」へと向かっていく。この世代の連鎖が、この表現の中で音感として表現されているようにも思われる。
同時に、歌詞の意味内容としても「吹いていった風の後を追いかけた眩しい午後」とはまさにゲンドウの心境を表現しているようにも思われる。
つまり「吹いていった風」とはもう過ぎてしまって追いつくことのできない、喪失してしまった現実である。それを追いかけようとしてゲンドウは危うい世界に入り込もうとしたことが示されている。
「眩しい午後」とは奇妙な表現であるといえる。午後は、太陽がむしろ沈んでいく時間である。高かった太陽が沈み遠ざかり暗くなっていく時間が「眩しい」のであるから、これは少し異様な表現である。
これは『シン・エヴァンゲリオン』のゲンドウとユイがおそらく初めて肉体関係をもつシーンをみれば意味が理解できる。ベッドの上で2人でならんで「眩しい」月をみているのである。つまり壮大な嘘の始まりなった「午後」をこの歌詞はさしているのだろうと思われる。
同時に、月は太陽の光を反射するだけの存在でもあり、これは虚構を追いかける中にしか「リアル」を見出せなかったゲンドウの哀しい生きざまが表現されているとも考えられるだろう。
ここまでみてきたように、「~なかったわ」などのジェンダーを入れ替えた女性言葉の表現よって混乱するが、「One Last Kiss」は明らかにゲンドウの心境を語った歌詞であり、「シンジは実は冬月の子供説」を踏まえるとその本当の意味が浮かび上がってくる歌詞なのである。
さいごに~作品に投下された膨大な時間の読み解き
ここまで、エヴァンゲリオンの理解を捉え直しつつ、One Last Kissの歌詞の考察を行ってきた。まずエヴァンゲリオンにおける「シンジは冬月コウゾウの子供説」を整理しつつ、その内容を踏まえてOne Last Kissの歌詞を読み解いた。その結果、One Last Kissの歌詞をより深く読み解くことができた(と思われる)。
この考察がどこまで製作者らの意図と合致しているかは不明だが、一定の妥当性は示せたと思う。そしてこうした考察を踏まえるならば、One Last Kissが数十年に及ぶエヴァのラストとしてふさわしく、素晴らしい曲として認知されていったのは、歌詞や音の表現に徹底的にこだわり、そこにエヴァの本質が濃縮されていたからなのではないか、という理解が可能になる。それが今回のnoteでの考察の結論である。
ここまで読み解いてきたのは、あくまで歌詞だけである。僕は音楽については門外漢なのでわからないが、おそらくとんでもない量のアイディアと検討が詰め込まれているのだろうと思われる。
宇多田ヒカルさんが類まれなる非凡なセンスの持ち主であることは多くの人が認めるところだろう。しかしそれ以上に、この歌詞の構成には膨大な時間と労力の惜しみない投下がみられる。エヴァを読み込み、どう表現すればいいか考え抜いてきたのだろうと思われる。そうした濃縮の結果「エヴァのラストとしてふさわしいよね」となんとなくパブリックに感じられる状況ができているのだとしたら、本当にすごいことだと思う。
こうした理解を踏まえつつ、もう一度One Last Kissを聞き直していただきたい。
以上、One Last Kissの歌詞の考察おわりです。どうもありがとうございました。
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