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霧に溺れる(前編)

水戸芸術館に霧の彫刻を見に行った。最終日の滑り込み。Takramcastでは渡邉さんと霧の彫刻の話をした。話をふまえつつ、彫刻を体感。

「すきま」にこそ、霧の彫刻の本質があると思った。

すきまの変貌ーSite specificの希釈

霧の彫刻ははじめ"Site specific"につくられるらしい。その敷地でしか成立しない彫刻。

作者は敷地の風の向きや強さを徹底的に観測し、分析し、緻密な風洞実験を繰り返しながら、思い通りの霧を描く。

次第に作者の意図を自然の乱雑さが凌駕し始める。作者が霧に込めた敷地を踏まえた意図は失われてゆく。Site adjuted、Site dominantな彫刻への変貌。「敷地への軽い適応をした彫刻」あるいは「敷地との応答の無視した彫刻」。同時に敷地そのものになっていくという二律背反を孕む。

人と人、人と空間のすきまは霧でみたされる。水に浸かるとき、水になぞられることで身体の境界を強く認識するのに似ている。霧の姿は作者の意図と自然のルールの拮抗の表出。「オブジェクト」だった霧は、次第に本性を露わにして観客を飲み込みはじめる。受け手はその均衡の変化に緊張もする。

すきまはそのようにして変貌していく。

すきまの作用ーSite determinedへ

距離的に近い人との間のすきまを霧が充填するとき、その人との心理的な距離は急激に遠くなる。逆にとても近くに人がいて、他の離れた人とのすきまが霧によって埋め尽くされるとき、気不味いくらいに二人は近くなる。これは相対的なものだ。

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近いと思っていたものは遠く、遠いと思っていたものは近かった。池は心理的に遠い。けど実はすぐそばにあった。心理的なバイアスが剥がれ落ち、物質的な距離感がむき出しになった。気が付いたら僕は両足で落ちていた。

霧は、すきまがもっていた注視されていない側面を炙り出していく。空間がもつ多様な側面を、ゆらぎのなかで順々に曝していく。物理的な近さが心理的な遠さに隠されているとき。心理的な近さが物理的な遠さを感じさせないとき。すべての瞬間のすきまが、違う見方で受け手に了解されてゆく。

岡崎乾二郎は次のように書いている。

中谷芙二子の作り出す霧に、何ものかを曖昧にしたり、神秘的に見せる効果を見出すのは大きな誤解である。『明晰、曇りなき霧』

霧はその場所の自然を表出させる物差しであり、同時に目まぐるしくピントの入れ替わるメガネのようなものだ。それはピントをぼかすためでなく、常に無数の焦点を補足し続けるためにある。輪郭を曖昧に誤魔化すためでなく、輪郭を凝視させるためにある。

作者の意図と自然と、受け手の認識の変化がすきまに凝縮されている。僕たちは霧を眺めているようで、霧によって曝される自分たちの関係性を見つめている。だから霧はみていて飽きない。

情報の霧に溺れる

霧に覆われるとき、白濁の激流で溺れているように錯覚した。そばにいたはずの人との狭間が霧によって満たされ断たれたとき、二人ともが無力にもがくような寂寥を覚えた。近くにいた人との距離がより近く感じられたとき、強い濁流のなかで人の手を握ったような安心感があった。

ふと、霧は「情報」のようにみえた。あくまでメタファーだけれど、SNSは霧だと思った。一人の発信の意図は、たくさんの「自然」とぶつかり合って、人々のすきまを満たしてゆく。それはゆらいでいて、ときどき息苦しくなる…(後編)

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