見出し画像

「君たちは、どう生きるか」の問いを読む。

『君たちはどう生きるか』は1937年に『日本少国民文庫』の全16巻のうちの1冊として出版された。吉野源三郎の著作ではあるが、実は企画者と当初執筆する予定だった人間は吉野ではない。山本有三という小説家である。小説自体は、主人公のコペル君が学校を中心とした様々な経験と叔父さんとの対話によって学びと気づきを得ていく物語となっている。

1937年前後、当時の日本では軍国主義の勃興により言論や出版の自由は弾圧され、人々の自由な発言や執筆は困難となっていた。『日本少国民文庫』を編纂した山本有三は、彼ですら自由な執筆は困難となっていたものの、少年少女に訴える余地はまだ残っているし、せめて彼らを時勢の悪い影響から救う必要があると考えた。吉野の言葉を借りれば山本は「偏狭な国粋主義や反動的な思想を超えた、自由で豊かな文化のあること」を子供たちに伝える必要があると考え、ファシズムの台頭する世界の中で次世代のヒューマニズムを守るために『日本少国民文庫』を編纂した。当時はすでにムッソリーニやヒトラーを礼賛する文章が子供たちに向けても広まりつつあった時代であった。『君たちはどう生きるか』は、そのような背景の中で執筆され出版された。

その後、太平洋戦がはじまるとこの本ですら発刊できなくなった。

宮崎駿氏がよく言う言葉に、自分の作ったアニメを子供が繰り返し観たことに絶望した、というものがある。アニメの中の夕日よりも生の夕日をよくみてほしい、と思い続けているという。彼が作ったアニメの中の現実よりも美しい景色や実物よりも美味しそうな食事は、敗戦から続く絶望と困窮の反動のなかで大いなる希望の風景とはなったけれど、現実そのもののもつ多面的で深い豊かさから人々を遠ざけたのだった。宮崎さんは子供が現実の夕日をみずに、アニメの中の夕日ばかりをみて育つことに絶望したというが、今の世界の中では人々はすぐに手に入るデジタル写真や情報で世界を知った気になっている。

1937年頃のファシズム的な情勢を、宮崎さんは今のデジタル技術の勃興と重ねているのに違いない、と思う。ファシズム政権の引き起こした情報統制と言論および出版の弾圧は、現代のフィルターバブルとも通底している。現代ではその結果としてわけのわからない大統領選出も起こる。人の情報へのアクセスを容易にしたデジタル技術は逆からみれば、安易な提供された情報と画一的な認識のなかに人々を留め、制限を与え、自由な思考と取り組みの可能性を(社会的な雰囲気として)否定して弾圧しているともいえる。

ChatGPTやMidjourneyをはじめとする生成AIの議論をみていれば、そのことは改めてよくわかる。創作において「デジタルの方が綺麗だ」「効率的だ」とはこれまでさんざんに言われてきたが、ここ最近になって「人は自分の頭で考えずに文章をデジタルに書かせればよい」「絵もAIに描かせればよい」という風潮が広まりつつある。その方が効率的で、その方が正しいのだといわんばかりの雰囲気すらある。一方で、人間が自分の頭で一生懸命に考えること、汗まみれになって絵を描くことには大きな意味があると主張する人も多くいる。しかし本来的には、そのような議論が必要なのは、思考や創作における本来的な泥臭いありかたが抑圧されているからだ。人は便利にみえる方へ押し流される。あるいは技術の利便性を声高に主張する人間の声の大きさに流される。子供たちはそれに影響される。デジタルファシズムによって、人間の自由な思考や地道に絵を描くこと、その中にこそある無限の広がりの可能性は、現代では(意識的であれ無意識的であれ)弾圧され始めているのである。

宮崎さんはたぶん、そのような思考にはまった大人はもうどうしようもない、救いようがないと考えているのだろう。自分の罪もあるけれど、作られた虚構の美しさやデジタル表現の綺麗さ、デジタル技術による思考に染まった大人達はもうどうしようもない。山本がファシズムに染まった大人を救おうとして『日本少国民文庫』を立ち上げたのではないように。『君たちはどう生きるか』という問いは、冒頭で書いたように、大人のための言葉ではない。原著はコペル君という子供の気づきのプロセスの物語であって、君たちはどう生きるか?と問われるのは大人ではなく、子供である。『君たちはどう生きるか』は最初から最後まで、時代に翻弄されないでほしいと願う大人による、子供の、子供のための物語なのだった。

死の世界=戦争や災禍にはいっても、何とか隙間を見つけて強く生きてほしい。あるいはそこに入ることをどうか恐れないでほしい。怖いけれど。その中で艶やかなジャムやバターのような希望をみつけてほしい。嘘つきを味方につけても前に進み、虚構の世界を司る大人をどうか信じないでほしい。”僕はそのように生きた”。そして「君たちはどう生きるか」。宮崎さんはそう、子供に対して、問うているのである。

岩波文庫版の『君たちはどう生きるか』のあとがきを、丸山眞男が書いているのは少しできすぎである。丸山は主に戦後にファシズム史を研究した日本政治思想史の学者である。もしこの本の構成と宮崎版映画『君たちはどう生きるか』をなぞらえるとしたら、何かのきっかけによってこのデジタルファシズムが終わりを迎え始めたときに、研究者が改めて示唆を得ることができるかどうかが、一つの希望だろうか。ほとんどの水の中にいる魚が自分は水の中にいると気づけなかったように、ほとんどのファシズムの中にいる人間は、自分がファシズムの中にいると気づけないのかもしれなかった。テレビが、アニメが、スマホが、本当の意味での生の夕日の感動を少しずつ奪ったことに、人はいつ気が付くのだろうか。

参考文献
『君たちはどう生きるか』吉野源三郎, 岩波文庫, 1982
『現代政治の思想と行動』丸山眞男, 未来社, 1964

サポートは研究費に使わせていただきます。