現代アートで最低限これだけ知っておくと良い、と思う -1 (キュビズムをベースとして)
現代アートでこれだけ知っておくと見方が変わる、と思うことを簡単に、端的に、書いてみようと思います。
「抽象度の高さ」
まず、現代アートを難しくさせる一番の理由は表現の「抽象度の高さ」にあると思っています。例えばマーク・ロスコの作品が高値で落札されましたがどこにそんな価値があるのかと思う人は少なくないでしょう。
単純に「色彩と構成が素晴らしい」では片付けられないはず。
なぜ表現として抽象度を高くする必要性があったのか。
そのまず手掛かりの一つとしてパブロ・ピカソがなぜ有名とされているか、を考えてみると良いと思います。パブロ・ピカソが有名なのはその制作した作品数もありますが、キュビズムという彼の制作アプローチにあります。
「キュビズム」
結論を本当に端的に書きますが、そして多くの解釈があり論議されていますし個人の解釈にもよるのですが、私の理解するところでは、
彼が活躍した1900年代初頭のカメラの発明によりアーティストは写実的な表現をすることの意味合いの重要性を失ったことが大きいです。
物事を正確に描写できるテクノロジーの前では人間は別の表現方法を模索する必要が1900年代にはあったのです。それの一つがキュビズムでした。従って、ピカソの表現は3Dの奥行きのある立体的表現から抽象度を一つあげる2Dの表現をしました。
そして1900年代のキュビズム以降、多くのアートは抽象度を上げていくこととなります。一度、美術館で見かけるいわゆる”抽象的な表現”の作品の年代をチェックしてみてください。大抵の場合、1900年代以降のはずです。
では抽象度を上げた結果何が残るのか。
現代アートではそのことの"解釈"をすることがテーマになっています。
抽象度を上げることで「私たちはアートをどう捉えるのか」
ここからが現代アートの鑑賞のスタートと言えるかと思います。つまり"抽象度を上げるこ"と"解釈ができること"には非常に深い関係性があると言えると思います。
個人的に好きなエピソードは抽象表現のきっかけを作ることとなったパブロ・ピカソはアフリカの彫刻に影響を受けていたことです。
多くのコンテクストを含んでいますが多くのアーティストは抽象度を上げることにより「人間の内面性の追求」ということを模索しています。
人間の内面性とは一体何なのか、
私の気持ちや、感覚、感情、感性、、
生きることとは、、
あるいは、ジャクソンポロックのように筆先から見えてくる人間の動きの躍動感を見せたかったのかもしれません。
躍動感を見せたいにしても、どのような気分で、何がアーティストに躍動感をおこさせたのか、
抽象表現によりそのようなことをイメージすることもできるかもしれません。そのような解釈する"余白"を私たちに与えてくれたのがキュビズム以降のアート、ということになります。
従って現代アートの鑑賞として最低限、"キュビズム及び1900年代以降の抽象表現を私たちはどう解釈することができるか"という視点でみることは必要なのではと思いますし、また楽しさも変わってくると思います。
私はコンテンポラリーダンサーとして現在ヨーロッパで活動していますが、抽象度、という表現テーマは現代アートのみならずコンテンポラリアート、コンテンポラリーダンスにおける面白いテーマだと思っています。
人間の内面性、精神性とは何か、感情を表現することとの意味合いとは。
そして簡単に触れましたがカメラつまりテクノロジーの出現によりパブロ・ピカソのキュビズム運動のように歴史としてアートの表現方法に影響を受けました。
ハイデガーもテクノロジーのあり方を「道具と人」というふうに現象学や存在論の議論論として展開しています。この情報化社会だからこそ、情報に埋もれて自分の内面を内省したり観察したりすることは難しかったりするのだと感じています。現代アートを見て感じる「そんなの意味あるの」という反応は自己対峙への本当に重要な扉の一つであると考えています。
私はこのようにコンテンポラリーダンスを軸に、アートや哲学に関する深掘りの内容を投稿しています。日本の学術や現代文化の発展に寄与するために活動しており、皆様の興味や支援が大変励みになります。皆様に何かの気づきを提供できれば幸いです。心より、ありがとうございます。
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